第32話 砕け散る運命の歯車
『ママ~パパ〜っ! ただいまーっ!』
ヴァレンタインたちが、地下室へ降りてから数分後の出来事。
玄関扉が何者かによって力強く開かれた。
『見てみてぇーっ! ニナニナが1人で捕まえた、2匹のうさぎさん────って、あれ……っ?』
主の正体は、まだ年端も行かない幼気な少女であった。
2匹のうさぎを両手で抱えたまま、彼女は家の中へと入って行く。
『ママぁ~っ! パパぁ〜っ! どこぉ〜っ?』
そう呼びかけながら、軽く辺りを見回す。
しかし、中には誰もいないようで、返事も何一つ──返ってはこなかった。
『またお出かけかなぁ〜? もしかしてニナニナだけ、ハブられ……かなぁ……』
頭でそんなことを考えてしまい、しょんぼりしてしまうニナニナ。
だがこの後、ハブられるよりも理不尽な悲劇が、牙を剥いて襲いかかるなどとは、この時の彼女は思いもしなかった。
『あっ──』
抱え込んだうさぎが外へ飛び出し、腕の中にあった温もりが1つ消える。
するとうさぎは本能からか、突然走り出した。
『待って──!!』
失った温もりを取り戻そうと、もう1匹のうさぎを抱きかかえ、ニナニナは必死でその後を追う。
しなやかでみずみずしく、背中まで伸ばした髪が、駆け出した勢いで揺れ動く。
『わぁっ!?』
ドテッ
うさぎを捕まえるのに夢中で、周りが見えていなかった彼女は何かに足を取られ床に転げた。
『イテテ……ハッ! うさちゃん平気っ?!』
自分が尻餅をついた衝撃でケガをしたのではないかと心配する。
『ふぅ、よかったぁ~っ』
頭上に持ち上げてくまなくチェックした結果、杞憂だったと安堵した。
『……あっ……うさちゃん』
さっきまで追いかけていた子がニナニナの元へと戻って来ると、その口にはバナナの皮が咥えられていた。
それも────黒っぽい赤だ。
『うさちゃん……汚れてるね。ニナニナが洗ってあげるよっ!』
ニカッと彼女が笑うと、またどこかへ行ってしまった。
『……あれ? なに、これ……?』
ここでニナニナも、自分が汚れていることにようやく気付く。
『これなんだろう……?』
好奇心から手に付着したその液体をペロッと舐めた。
『うえぇ〜〜まじゅ〜い……っ!』
お子様の舌には刺激が強い不味さだったため、ペッペッと口外へ吐き出すニナニナ。
『せーのっ──うんしょっ!』
腕にいるうさぎを大事に抱え立ち上がる。
『これ、どこまであるんだろう……?』
子どもにありがちな旺盛な好奇心。
それを抑えられる理由もなく、液体の流れ出ている方向に向けて再び歩みを進める。
その好奇心が──彼女の運命を変えるとも知らずに。
『えっ──?』
そして──ニナニナは、その光景を目にすることになる。
『マ、マ……? パ、パ……?』
液体を辿って行ったその先に──血だらけで倒れる両親を発見する。
刹那────心の中にあった大切な何かが、音を立てて弾けると、彼女はその場に崩れ落ちた。
それと同時に瞳から流れ出た大粒の涙が、滝のように頬を伝う。
全身の力が抜け束縛されたうさぎが、床に放たれ自由となる────が、もうそんなことはどうでもいいと言わんばかりに、一切気に留めることなく、ただただ彼女は呆然としていた。
『ねえ……ニナニナ、ここにいるよ?』
最初にうつ伏せのママの体を──。
次にパパの体を──両手で揺さぶった。
しかし……指1本ピクリとも動くことはなく、凍り付くような冷たさだけが、現実として彼女に突き付ける。
その後も諦めずに繰り返し、ニナニナは2人に声をかけ続ける──当然ながら、反応はない。
今視界を通して、ニナニナの世界にあるのは────
『──ママぁ……パパぁ……』
昨日みたいに今日もまた。
ママとパパと笑いながら一緒に──
『ねえ、起きて……? 起きてよ……』
……一緒に……一緒に……一緒に────
一緒に過ごせたら……それだけで満足だったのに。
『………………死んじゃった』
ニナニナの口から、突如そう哀しげに言葉が紡がれる。
『ママとパパが────死んじゃったぁっ!!』
この瞬間、臨界点を超えた絶望が……防衛本能として彼女に──“狂気”を芽生えさせてしまった。
『あはっ……あはははははは!! あははははっ!! カミサマって、やっぱりいないんだよ……っ!!』
感情の奥底からの溢れ出る涙、吊り上がる口角からは止まらぬ笑い。
瞳の光は失うどころか、その輝きは増していく。
この耐え難い悲劇は、幼い彼女の心に深い傷を刻みつけ、精神を歪ませるには……あまりにも足りすぎていたのだ。
『ママ、パパ。もし違うなら、どうして死んじゃったの? ニナニナがピーマン食べられない、ワガママな悪い子だったから? ニナニナがほかの子と変わってて、カミサマと仲良くできる良い子になれなかったからっ? きっとニナニナが全部悪いんだよね?! 2人は悪くないよ、そうだよね……っ!! ニナニナが、ニナニナがっ! ニナニナがニナニナがニナニナがニナニナがニナニナがっ! 全部全部全部全部全部全部全部、全部っ! 悪かったから……悪かったから……お願い──カミサマ……。いるなら、たすけて……ください……』
少女の平穏はこの一瞬で悲劇へと塗り替えられた……瞬間だった。
『──見ツケタ……見ツケタ……』
地下階段を上りその場に姿を現した圧縮空気砲が引き寄せられるようにして、泣き叫び懇願する幼い少女へゆっくりと接近する。
しかし、慌てる様子を少女は微塵も見せない。
溢れ出る涙が視界を歪ませ、泣き喚く声で周囲の認識が阻害されたことで、両親以外の有象無象が意識から完全にシャットアウトされてしまっているのだろう。
それが自身に迫る脅威の知覚を阻んだ……いや、それすらも今の彼女にとっては──どうでも良かったのかもしれない。




