狂乱の天使と、震える膝の聖女
その日の深夜。
都内某所の高級マンションで、通知を知らせる電子音が警報のように鳴り響いていた。
「ふざけんな! なんでこの私が、こんなポッと出の素人に負けなきゃいけないのよ!」
止まらない通知に苛立った『天使りりか』こと、神崎莉里花は、最新のスマホを壁に投げつけた。
画面がひび割れ、無惨な姿になる。
部屋には、怯えた様子のマネージャー兼彼氏の男が縮こまっている。
「おい、例の件どうなったのよ! 『聖羅』の身元! 住所!」
「そ、それが……アプリのセキュリティが固くて、登録情報はどうしても引き出せなくて……」
「使えないわね! ……まぁ、いい。手はあるわ」
りりかは歪んだ笑みを浮かべ、予備のスマホを取り出した。
それは、彼女が汚れ仕事をさせるためだけに育て上げた……狂信的な「兵隊」たちを飼う裏アカウント専用の端末だ。
「バイト先のタレコミは裏が取れてるのよ……。潰れろ」
彼女は手慣れた手つきで、とある掲示板に書き込みを行う。
『聖羅のバイト先、特定しました。○○駅前のコンビニです』
放たれた情報は、飢えた獣の群れに肉を投げ込むようなものだ。
「潰れろ。物理的に、社会的に、死んでしまえ」
◇
翌日の昼下がり。
俺はバイトに向かう前に、駅前のショッピングモールに立ち寄っていた。
今の俺――聖羅の姿になってから、困ったことが一つある。
着る服がないのだ。
おっさん時代のヨレヨレのシャツやトランクスを、この華奢な身体に着せるわけにはいかない。
「……へぇ、今はこんなのが流行ってるのか」
レディースファッションのフロアを歩く。
以前なら不審者扱いされて通報案件だった場所も、今の俺なら堂々と歩ける。
鏡の前でワンピースを合わせるだけで、店員が飛んできて「すごくお似合いです!」と絶賛してくれる。
悪くない気分だ。
だが、問題はその先。
俺は意を決して、フロアの奥にあるコーナーへと足を踏み入れた。
――ランジェリーショップ。
男にとっての聖域であり、絶対不可侵領域。
視界いっぱいに広がるレース、フリル、そして面積の少ない布切れの数々。
(……マジかよ。俺がこれを買うのか?)
俺の中の「おっさん」が、羞恥心で悲鳴を上げる。
だが、現実問題としてノーブラで過ごすわけにはいかない。
俺は震える手で、棚に並んだブラジャーを手に取った。
「お客様、採寸いたしましょうか?」
「ひゃっ!?」
背後から店員に声をかけられ、俺は変な声を出して飛び上がった。
店員は俺の顔を見て、少し驚いたように頬を染める。
「あ……ごめんなさい、あまりに可愛らしい方だったので、つい」
「い、いえ……あの、お願いします」
されるがままにフィッティングルームに連れ込まれる。
メジャーで胸囲を測られ、店員に「お肌、すごく綺麗ですね……」と溜息交じりに言われるたび、背筋がゾクゾクした。
鏡に映る自分は、純白のレースに包まれた、正真正銘の美少女だ。
(……なんだこれ。興奮してるのか、俺?)
男の視線で見れば「最高のエロ」だが、当事者としては「奇妙な倒錯感」がある。
俺は自分の身体を見つめながら、これから始まる「女としての人生」の深淵を覗き込んだ気がした。
◇
買い物を終え、新品の下着を身に着けた俺は、妙に浮ついた気分のままコンビニへと向かった。
だが、そこで待ち受けていたのは、甘い日常などではなかった。
俺が働くコンビニに、明らかに異質な男が現れた。
全身黒ずくめ、目深に被った帽子。
客足が途絶え、店内に俺一人になった瞬間、男はレジへと突進してきた。
「おい、テメェが聖羅か……!」
男がポケットから取り出したのは、刃渡り10センチほどのカッターナイフだった。
銀色の刃が、鈍く光る。
「ひっ……!?」
俺の喉から、情けない悲鳴が漏れた。
頭が真っ白になる。
身体は美少女になっても、中身は喧嘩ひとつしたことのない、小心者のおっさんのままだ。
怖い。刃物が怖い。死ぬ。
「りりかちゃんを泣かせた罰だ! その顔、ズタズタにしてやるよ!」
男がカウンターを乗り越えてくる。
恐怖で足がもつれた俺は、無様に尻餅をついた。
その拍子に、制服のスカートが大きくめくれ上がる。
「あっ……!」
露わになったのは、さっき買ったばかりの純白のレースの下着。
男の血走った目が、一瞬だけ俺の股間に釘付けになる。
「へぇ……聖女サマだけあって、いいもん履いてんじゃねえか」
殺意に満ちていた男の目に、ねっとりとした欲情の色が混じる。
その視線に晒された瞬間、俺の背筋を焼けるような羞恥が駆け抜けた。
中身はおっさんのはずなのに、身体が「女」として反応し、震えが止まらない。
(見られた……! こんな男に、俺の……!)
怖い。刃物が怖い。そして、女として陵辱されるかもしれないという予感が、死ぬほど怖い。
「いい声で鳴きそうだな……」
男が舌なめずりをして、カッターを振り上げる。
殺される。せっかく人生やり直せると思ったのに、こんなところで終わるのか?
(嫌だ、嫌だ、死にたくない……!)
極限の恐怖の中で、俺はすがるように思い出した。
――そうだ、スキル。
昨日手に入れた、「催眠音声」。
効くのか? こんな興奮した男に。
分からない。でも、やるしかない。
「や、やめ……」
声が震える。
俺はカウンターの隅に追い詰められ、涙目で叫んだ。
「――止まれ!!」
【スキル「催眠音声」発動】
空気が、ビリリと震えた気がした。
振り上げられたカッターが、俺の目の前、数センチのところでピタリと静止する。
「……あ?」
男の目が、焦点あわず宙を泳ぐ。
まるで電池が切れたロボットのように、その場に棒立ちになった。
「はぁ……はぁ……、と、止まった……?」
俺は心臓を早鐘のように打たせながら、恐る恐る男の顔を覗き込んだ。
意識がない? いや、起きている。
俺の言葉に従って、「止まって」いるのだ。
(すげぇ……マジかよ……)
恐怖が少し引き、代わりにじわじわと、背筋が粟立つような興奮が湧いてくる。
俺の一言で、こいつは止まった。
なら、「他のこと」もできるのか?
俺は震える声で、試すように呟いた。
「……カッターを、捨てろ」
カシャン。
乾いた音がして、カッターが床に落ちた。
男は抵抗しない。
「……う、うわぁ……」
本当に、何でも言うことを聞くのか。
俺は安堵で、へなへなとその場に座り込みそうになった。
だが、ここで終わらせてはいけない。こいつをこのまま返したら、また襲ってくるかもしれない。
俺は警戒しつつ男に囁いた。まだ声は震えているが、スキルは乗っている。
「……お前、りりかのファンなんだろ? りりかのために、こんなことしたんだろ?」
「あ……りりか、ちゃん……」
「そうだよな。……でも、もういいよ。家に帰って、りりかのグッズを全部捨てなよ。あいつのことは、もう忘れろ」
男の目が、濁った色に変わる。
洗脳された脳が、俺の言葉を過剰に解釈し始める。
「……捨てる。……燃やす。……殺す……」
男の口から漏れた不穏な単語に、俺はギョッとした。
「おい、待て。殺すのはナシだ」
慌てて訂正する。
俺はりりかにムカついているし、ざまぁみろとは思っているが、死んでほしいとまでは思っていない。あくまで配信者の目標として、りりかを超える存在になりたいだけだ。
それに、こんな狂信者をけしかけて殺させたら、俺の寝覚めが悪い。
「ただ、ファンを辞めるだけでいい。……分かったな?」
「……あぁ……辞める……」
「よし。……行け」
男はゆらりと踵を返し、夢遊病者のように店を出て行った。
自動ドアが閉まる音がして、俺はガクガクと震える足で、その場に崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……し、死ぬかと思った……」
冷や汗で背中がびっしょりだ。
だが、俺は生き残った。
そして、手に入れた力の恐ろしさを、身を持って知った。
その時、スマホが震えた。
タイミングを見計らったかのように、おそらく元凶からの通知。
『はじめまして、聖羅ちゃん! 天使りりかです♡』
DMの内容は、「仲直りコラボ」の誘い。
(……こいつか。こいつが仕掛けたのか)
さっきの男の襲撃と、このタイミング。偶然にしては出来すぎている。
恐怖が怒りに変わり、そして冷たい決意へと変わっていく。
俺を殺そうとしたり、配信者生命を終わらせようとするなら、こっちにも考えがある。
俺はまだ震える指で、返信を打った。
『喜んでお受けします! お話できるのが楽しみです♡』
送信完了。
すぐに既読がつき、短い返信が返ってくる。
『わぁ、嬉しい! じゃあ詳細はマネージャーから送らせるね! 楽しみにしてる♡』
文面は踊っているが、その裏にあるどす黒い悪意は透けて見える。
きっと向こうは、俺を罠に嵌めたと思って笑っているに違いない。
(いいだろう。その喧嘩、買ってやるよ)
俺はスマホの黒い画面に映る、自分の顔を見つめた。
恐怖で引きつってはいるが、そこにあるのは完璧な美少女の顔だ。
今の俺には、この「美貌」と、人心を操る「声」がある。
俺はまだ震える膝を叩き、ゆっくりと立ち上がった。
トップ配信者で余裕をかましているのも今のうちだけだ。
俺が、あの女から「全て」を奪い取ってやる。




