第30話 治さない勇気
灰の谷の朝は、静かだった。
戦場の朝にしては、あまりにも。
剣の音も、怒号もない。
あるのは、火のはぜる音と、低い呼吸だけだ。
俺は、谷の端で一人、鍼を整えていた。
今日も、患者は来る。
だが、昨日より少ない。
(……いい傾向だ)
壊れる人間が減ったわけじゃない。
ただ、戻らない人間が増えた。
それでいい。
「……診てくれ」
声をかけてきたのは、王国の騎士だった。
肩を負傷している。
戦えないわけではない。
循環を視る。
(……戻せる)
前線に復帰できる。
問題はない。
「どうする」
騎士が、問う。
「治るか」
俺は、答えなかった。
少し間を置いて、言う。
「治せる」
騎士の目が、わずかに輝く。
「だが」
一拍置く。
「治さない」
沈黙。
「……なぜだ」
「戻りたいか」
騎士は、即答しなかった。
視線が、揺れる。
「……命令があれば」
それが、答えだった。
俺は、鍼を置く。
「ここでは、命令はいらない」
騎士は、何も言えずに俯いた。
「休め」
「……それで、いいのか」
「いい」
それ以上は、言わない。
彼は、深く頭を下げ、去っていった。
治せた命を、治さなかった。
それでも、胸は軽い。
昼前、エルシアが現れた。
今日も、護衛はいない。
「……忙しそうだな」
「暇だ」
「それは、いいことだ」
彼女は、谷を見渡す。
「戻らなかった兵が、また増えた」
「後悔は?」
俺が問うと、彼女は少し考えた。
「ある」
即答だった。
「だが、必要な後悔だ」
それが、将の答え。
「……治療を、頼みたい」
エルシアが、静かに言う。
胸が、わずかにざわつく。
「どこだ」
「ここではない」
彼女は、自分の胸元を指す。
「まだ、戦える」
「なら」
俺は、首を振る。
「今は、治さない」
エルシアの目が、見開かれる。
「拒否か」
「延期だ」
俺は、静かに言う。
「壊れるまで、治療は意味を持たない」
厳しい言葉だ。
だが、嘘ではない。
エルシアは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「……あなたは、本当に治療師だな」
「どういう意味だ」
「治すだけが、仕事じゃない」
彼女は、背を向ける。
「その時が来たら、また来る」
「ここにいればな」
「いるだろう」
確信めいた言葉。
彼女は、谷を後にした。
夕方、リリアが隣に座る。
「……治さなかったんですね」
「見てたか」
「少しだけ」
彼女は、膝の上で手を組む。
「怖くありませんでしたか」
「怖いさ」
正直に答える。
「でも」
俺は、谷を見る。
「治さない選択肢を持てなかったら、
俺は、兵器になる」
リリアは、静かに頷いた。
「……聖女も、同じですね」
彼女は、微笑む。
「救わない勇気が、必要な時があります」
沈黙。
遠くで、王国兵と魔族兵が、背を向けて休んでいる。
それぞれの戦争に、戻らずに。
夜。
谷に、星が見えた。
久しぶりに、煙のない空。
俺は、最後の鍼をしまう。
治療師は、
すべてを治せない。
だからこそ。
治さない勇気が、必要だ。
それを知った時、
俺は、ようやく治療師になれた気がした。
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