第26話 第三の患者
灰の谷を離れて、半刻ほど歩いた頃だった。
「……待て」
背後から、低い声がした。
振り返ると、谷の縁に人影がある。
王国の兵でも、魔族でもない。
外套は破れ、足取りは覚束ない。
商人――いや、難民だ。
「……治療師、だろ」
息を切らしながら、男は言った。
「あんたが……人も魔族も、診るって……」
噂は、もうここまで来ている。
「どうした」
俺が近づくと、男は崩れるように膝をついた。
「娘が……向こうだ」
指さす先は、谷の影。
「魔族に襲われた。
だが……逃げる途中で、王国の矢に当たった」
境界。
どちらの敵でもあり、
どちらの味方でもない存在。
(……来たな)
この条件が、すぐに試されるとは思わなかった。
谷の岩陰に、少女が横たわっていた。
年は、十にも満たない。
腹部に深い傷。
循環は、限界。
(……厳しい)
だが、まだ繋がっている。
「助かるか」
男の声が、震える。
俺は、正直に答える。
「分からない」
だが。
「やる」
それだけは、迷わなかった。
鍼を一本。
深くは入れない。
命を繋ぐ最低限。
少女の呼吸が、わずかに戻る。
「……っ」
男が、声を殺して泣いた。
そこへ、足音。
「……何をしている」
王国の斥候だ。
数名。
武器を構え、緊張している。
「その子は?」
「患者だ」
「魔族に襲われたと聞いた」
「王国の矢でも傷ついてる」
斥候の一人が、舌打ちする。
「面倒だな……」
その言葉に、胸の奥が冷えた。
次の瞬間。
「動くな」
今度は、別方向から声。
魔族の斥候だった。
双方が、互いに武器を向ける。
谷の境界。
最悪の状況。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
「下げろ」
静かな声。
だが、確かに通る。
「ここは、非戦闘区域だ」
王国兵が、眉をひそめる。
「まだ、正式には――」
「条件は、提示された」
俺は、はっきり言う。
「ここで戦えば、その子は死ぬ」
沈黙。
魔族の斥候が、低く言った。
「……将の命だ」
武器を下ろす。
「この区域では、刃を向けるなと」
王国兵が、歯噛みする。
だが。
「……分かった」
ゆっくりと、矢を下ろした。
両者が、距離を取る。
戦争が、ほんの一瞬だけ止まった。
俺は、再び膝をつく。
鍼を打つ。
繋ぐ。
待つ。
少女の循環が、少しずつ戻る。
完全ではない。
だが――生きる。
「……助かる」
俺は、男に言った。
男は、何度も頭を下げる。
「ありがとう……ありがとう……」
俺は、首を振る。
「礼はいらない」
ただ。
「ここを、覚えておけ」
「え?」
「ここは、戦う場所じゃない」
帰る場所だ。
王国兵と魔族斥候は、互いに視線を逸らしながら、後退していく。
誰も勝っていない。
誰も負けていない。
だが。
(……始まったな)
条件は、もう机上の空論じゃない。
戦争の中に、
戦わない現実が生まれた。
俺は、鍼を拭きながら思う。
治療師は、
どの陣営にも属さない。
属さないからこそ、
命の前に立てる。
――第三の患者は、
戦争そのものだった。
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