瞼の裏庭(前半)
目を閉じるたび、まぶたの裏に芝生が芽吹く。
指で触れたことのない草の手触りが、内側からわたしの指先に近づいてくる。
擦りガラスの向こうで誰かが名前を呼ぶように、湿り気を帯びた音が、脳の縁にたまる。
昼間は郵便受けの金具みたいに冷たい世界で、夜だけ、わたしはそこへ還る。
目の外の庭は、アスファルトの匂いの庭だ。
窓から見えるのは駐車場の油膜と、切られた街路樹の切り株。
わたしはそこで、朝ご飯のトーストを齧りながら、パン屑を皿の端に集める。
同じように、思い出の片々を端に寄せては、そっと息で飛ばす。
たとえば、母の電話。
たとえば、町内会の回覧板の順番。
たとえば、わたしが誰かに「おはよう」と言いそびれた朝の軽い罪悪感。
全部、皿の縁で丸くなる。
目の内側の庭には、柵がない。
犬も来ないし、誰も見ていない。
そのかわり、耳の奥には梯子が立っている。
その梯子を登るコツは、舌を上の歯茎に軽く押し当てることだ。
そうすると、目の内側は少しだけ広くなる。
わたしはそこで、水たまりの虹を集めるように、言葉になる前の気配を拾う。
スプーンですくった月の破片のような、光の味がする。
初めて彼に会ったのは、その庭の縁だった。
彼はわたしと同じように、まぶたの内側に草を生やしていた。
違うのは、彼の草が風でざわめく音を、わたしにも聞こえるように差し出してきたこと。
目を閉じたまま、わたしたちは挨拶を交わす。
名前を言いかけて、やめる。
呼び名があると、どこかに帰らなければならない気がした。
「ここには、門が見える?」彼が訊いた。
「門?」
わたしは目の中の地平線を見渡した。
草は草のふりをして、ところどころ海だったり、畑だったり、古い布団の綿だったりする。
門は見えない。代わりに、遠くで鳩が豆鉄砲を喰らう音が聞こえた。
「じゃあ、まだ来ないね」と彼は言い、足跡を残さない歩き方で去った。
目を開けると、現実は微妙にずれていた。
シンクの蛇口から、水が一拍遅れて滴る。
冷蔵庫のモーターが、昨日と違う音程で唸る。
テレビの気象予報士の笑顔が、温度表示の数字に馴染まない。
わたしは熱いマグカップを両手で包み、指に温度という言葉の意味を教え込む。
指は、わたしより賢い。彼らは、誰にも見せない学位を持っている。
午後、駅前の書店で立ち読みをした。
背表紙は背骨の標本で、著者の名前は『雨の降り始め』だ。
文庫の棚の匂いを吸い込むと、鼻の先で、誰かの午後がひっくり返る。
わたしは本を一冊買って、カバーを断る。
裸のまま持ち帰ると、紙は呼吸をする。
ページの間の空気が、隙間から抜けていく音。
思い出の蛇口をひねるみたいに、章立ては流れ始める。
夜になるのを待ちながら、わたしは浴槽にお湯を張る。
湯気は言葉の卵で、天井で孵る。
目を閉じる練習をしながら湯に沈む。
皮膚が庭の表土になって、毛穴から芽が出るような気がする。
湯面に指を滑らせると、彼の声が浅瀬で揺れた。
「今夜は、来ると思う」
わたしは天井に浮いた卵の殻を数える。
奇数。鏡を見たくなる衝動は、蛇口から落ちる水滴の数に比例する。
髪をタオルで拭きながら、玄関の鍵を二度確かめる。
靴箱の上には、祖母の写真。
目じりが折り紙の鶴みたいに折れていて、折り筋に光が溜まる。
祖母は生前、眠る前に庭に水を撒いていた。
夏の夜の、蛇口から伸びるホースの生き物感。
水は、夜の鱗を撫でていた。
ベッドに横になる。
枕は雲を真似た石で、シーツは海になりたい砂の集まり。
わたしは横になって、舌を上の歯茎に触れさせる。
梯子は立つ。奥行きが開く。
芝生は濃く、今夜は風がある。
遠くで、音がしない手拍子が連続する。
その合間に、彼の足音ではない、別の何かの気配が混じる。
わたしはそれを『門』と呼ぶことに決める。
門は形を変える。
ある時は、誰かの背骨。
ある時は、雨どい。
今夜は、閉じた傘の骨のようだった。
黒い夜を折りたたんで、床に立てかけたような姿。
近づくほどに、小さな音が増えていく。
虫の歯ぎしりみたいな、たわんだ金属のふるえ。
門の前に立つと、身体の中の、開いたことのない扉が同じ音で鳴いた。
「開けたら、戻れないかもしれない」彼の声が言う。
彼はわたしの左耳の斜め後ろに立っている。
振り返ると、声だけが残る。
草の擦れる音が、意志を持ってわたしの膝裏に頬ずりする。
わたしは頷く。頷いた先にある暗闇が、頷き返す。
門に触れようとすると、指先に冷たさはない。
代わりに、あの日の湿り気が纏わりつく。
小学校の体育館の匂い。
卒業式の後、床に落ちた白い粉の跡。
壇上のマイクを包むスポンジの手触り。
思い出の天気はいつも曇りで、日の光は傘の裏側の色をしている。
わたしは、掌の真ん中に薄い痣があることを思い出す。
誰にも話していない痣は、ゆっくりと熱をもつ。
「もし開けたら、何があるの?」わたしは訊く。
「きみが、ここで草を育て始めた理由」彼は短く言う。
「それを連れて行くか、置いていくか」
わたしは笑いそうになって、笑えない。
笑いは、わたしの口内で迷子になって、舌の裏で膝を抱えて座る。
わたしは代わりに、鼻から息を吐く。
門が、わずかに揺れる。
遠くで、電車が橋を渡る音がする。
目の内側の空にかかる。
わたしは片手で門の骨をつまむ。
傘を開く前の、小さな抵抗。
骨が、わたしの指先に秘密を打ち明ける。
ひとつ、ふたつ。見えない留め具が外れていく。
草が風で寝返りを打つ。
わたしの耳の梯子が、段を増やしていく。
背骨の一本一本が、音叉になって鳴る。
開く直前、わたしは祖母の庭の匂いを嗅いだ。
夜の土の重さと、昼の陽の名残りの混ざり合う匂い。
蛇口の金属の冷たさが手首から肘に登る。
祖母の声がする。「水は、明日のために撒くんだよ」
門が開く。
そこにあったのは、誰かの居間だった。
古い団地の六畳間。畳にすり切れた跡。
こたつ布団は夏でも出しっぱなしで、上には新聞とみかんの皮。
テレビは音を消していて、画面に朝のニュースのテロップが凍っている。
カーテンの端がほつれて糸が長く伸びる。
窓の外には、わたしの知らない空。
その色は、祖母のエプロンの裏地の色だ。
居間の奥に、寝室がある。
ベッドではない、布団。
そこに、背中を向けて横たわる誰か。
髪は短く、黒。布団をかぶる背中の形が、亀の甲羅に似ている。
呼吸のリズムが、わたしの心拍と少しだけずれている。
そのずれが、世界の芯を少し鈍らせる。
わたしは敷居に足をかける。
足裏に、畳の目の温度が乗る。
畳は、秘密を抱えている。
秘密は、いつも畳の目の間に潜む。
「これは、わたし?」わたしは声を出さずに訊く。
声は、口の中で泡になり、ゆっくりと舌先で割れる。
「そうとも言えるし、違うとも言える」彼が居間の角から言う。
いつの間にか、彼は祖母の古い箪笥にもたれて立っていた。
箪笥の取っ手は冷たく光り、引き出しは少し開いている。
開いた隙間から、紙の端がのぞく。
紙は、日時計の針の影のように、ゆっくりとこちらを向く。
わたしは近づく。
布団の上の「誰か」は、背中しか見せない。
背中の呼吸は、季節と同じ速度で波打つ。
冬は遅く、夏は速い。
今は春の手前で、空気がまだ固い。
わたしは手を伸ばす。
肩に触れる前に、手の平が、知らない名前を思い出そうとして震えた。
指が覚えている文字の角度。筆圧の癖。
誰かが、わたしの名前を練習していた頃の、音の形。
「触れたら、戻れない」と彼はさっきと同じ声で言う。
だけど、今度は少し優しい。
祖母がコンロの火を弱める時の指先の優しさ。
わたしは、戻れない場所の形を考える。
戻れる場所の形も同時に考える。
どちらも、まぶたの裏の芝生と同じ色をしているのが、不思議だった。
わたしは振り返り、箪笥の引き出しの紙を引き抜く。
紙は、わたしと似た匂いがした。
見たことのない筆跡、だけど指先は知っている。
そこには短い言葉が丁寧に結ばれていた。
「覚えているうちに、ここに置く」
わたしは読み上げることをやめる。
言葉が喉に引っかかって、ささくれみたいな痛みになる。
居間の空気が少し重くなる。
テレビの無音のニュースのキャスターが、壮大な口の開閉を繰り返す。
わたしは紙を持ったまま、布団の人の肩に触れた。
熱。生きている熱。
誰かとわたしの温度が混ざっていく瞬間、目の内側の芝生が強い風で倒れた。
「来て」彼の声が、今度は隣で囁く。
わたしの耳に草の葉が触れる。
わたしは一歩分、未来に体重をかける。
畳が、その足音を飲み込む。
布団の人が、ゆっくりと振り向く。
顔の輪郭が、わたしの記憶の中の誰かの輪郭に重なる。
違う、と思う。
けれど、同じ、とも思う。
思考が、折りたたみ傘の骨に引っかかって、きしむ音を立てた。
その瞬間、目の外の世界で、玄関のチャイムが鳴った。
現実は、遠くの花火みたいに遅れて届く。
目を閉じた庭に、現実の音が雨粒として落ちる。
芝生が濡れて、匂いが立つ。
わたしは振り返るべきかわからない。
門の向こうの居間は、わたしの過去と未来が肩を寄せ合って座る場所だ。
玄関のチャイムは、わたしの現在に、忍び込んだ別の時間。
「出なくていい」彼が言う。
「出るなら、今じゃない」
「じゃあ、いつ?」わたしは訊く。
わたしの声は、居間の天井に薄く広がり、蛍光灯の黄ばみに混ざる。
「きみが、庭に名前をつける時」
わたしは、目の内側の草を見た。
草は、まだ名前を持っていない。
一本一本に、名札をかける代わりに、わたしは、手で撫でた。
撫でられた草は、撫でられたことを覚えている。
触れたものは、触れられたものになる。
わたしは紙を胸に当て、布団の人の目を見た。
そこに映るのは、わたしのまばたきの間に生まれる庭。
まぶたの裏の、小さな風のうねり。
玄関のチャイムは止んだ。
代わりに、郵便受けの口金が鳴る音が、現実で一つ。
目の内側で、風が一つ。
わたしは息を吸う。
思い出の蛇口を一気にひねるみたいに、過去の匂いが流れ込む。
祖母の庭。雨上がりの夕方。靴の中が濡れて、足指がふやけた感触。
ホースの先で跳ねる水の小さな太鼓。
祖母がわたしに渡した、小さなスコップ。
土を掬う時の重さ。
重さは、わたしを真面目にする。
「覚えているうちに、ここに置く」
わたしは自分の声で、紙の言葉をもう一度言った。
置く先は、わたしの庭だ。
誰かの居間でも、箪笥の引き出しでもない。
門を境に、こちら側。
芝生。小さな丘。海になってみたい畑。
わたしは胸から紙を剥がし、草のうねりの中に、そっと差し込んだ。
紙は、土の中に滑り込むみたいに消え、かわりに、小さな芽がひとつ、顔を出した。
その芽は、わたしの名前の形をしていた。
名前の角が風で丸くなり、音が柔らかくなる。
わたしは初めて、自分の庭で、自分の名前を呼んだ。
音が、草の根を揺らし、土の中の虫がゆっくりと目を開ける。
居間の布団の人が、同じ名前を口の中で繰り返す。
彼が、遠くで笑う。
笑いは、今度は迷子にならずに、わたしの口から外に出た。
わたしは、門の骨にもう一度触れた。
折りたたみ傘は、開いたまま閉じられることを忘れられていた。
居間の空気が、少し軽くなる。
布団の人の呼吸が、わたしの心拍に近づく。
彼が、箪笥の取っ手から手を離し、芝生の方へ一歩下がる。
わたしは境界に立つ。
畳の目と、草の葉脈が、わたしの足裏で丁度重なる地点。
「まだ行ける?」彼が言う。
問いかけは、わたしの骨の間を通り抜けた。
背中のどこか、見たことのない扉に当たって跳ね返る。
わたしは、うなずいた。
うなずきが風になって、庭を渡る。
遠くで、見えない川が音を立てる。
川は、どこから来て、どこへ行くのか。
答えはどうでもいい。
いまは、この水面のきらめきを、目の裏で見ていることが大事だ。
わたしは踏み出す。草の香りが濃くなり、土の温度が足首を包む。
居間が、遠ざかり、門が、静かに閉じていく。
閉じきる直前、わたしは布団の人と目が合った。
それは、わたしではない誰かで、わたしでもある誰かだった。
彼女の瞳は、わたしの庭の色を知っていて、知らないふりをしていた。
わたしたちの間に、言葉にならないものが流れ、やがて、門がそれを真ん中で二つに切り分けた。
切り口は、瑞々しく、少し酸っぱかった。
目を開けると、天井の亀裂が新しい形で走っていた。
チャイムはもう鳴っていない。
郵便受けの口金の音は、たしかに現実でひとつ。
玄関に行く。足元に、白い封筒。
差出人は、知らないはずの名前。
宛名は、わたしの名前。
字の角度は、指が覚えている。
角は、風で丸くなっていた。
封を切る前に、わたしはマグカップをシンクに置き、水を出す。
蛇口の音は、昨日より少し低い。
水面に、まぶたの裏の芝生が鏡になって映る。
わたしは唇を引き結び、封筒の耳を、静かに裂いた。
中の紙は、庭の芽と同じ手触りがした。
読み始める前に、わたしは一瞬だけ目を閉じる。
内側の草が、またひとつ、風で倒れた。
今夜、門は、別の形で来るだろう。
いまは、ここで、紙の匂いを吸い込み、知らないはずの筆跡に、指を添える。
指は、相変わらず、誰よりも賢い。




