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瞼の裏庭  作者: U木槌
1/2

瞼の裏庭(前半)

 目を閉じるたび、まぶたの裏に芝生が芽吹く。


 指で触れたことのない草の手触りが、内側からわたしの指先に近づいてくる。

 擦りガラスの向こうで誰かが名前を呼ぶように、湿り気を帯びた音が、脳の縁にたまる。

 昼間は郵便受けの金具みたいに冷たい世界で、夜だけ、わたしはそこへ還る。


 目の外の庭は、アスファルトの匂いの庭だ。

 窓から見えるのは駐車場の油膜と、切られた街路樹の切り株。

 わたしはそこで、朝ご飯のトーストを齧りながら、パン屑を皿の端に集める。

 同じように、思い出の片々を端に寄せては、そっと息で飛ばす。

 たとえば、母の電話。

 たとえば、町内会の回覧板の順番。

 たとえば、わたしが誰かに「おはよう」と言いそびれた朝の軽い罪悪感。

 全部、皿の縁で丸くなる。


 目の内側の庭には、柵がない。

 犬も来ないし、誰も見ていない。

 そのかわり、耳の奥には梯子が立っている。

 その梯子を登るコツは、舌を上の歯茎に軽く押し当てることだ。

 そうすると、目の内側は少しだけ広くなる。

 わたしはそこで、水たまりの虹を集めるように、言葉になる前の気配を拾う。

 スプーンですくった月の破片のような、光の味がする。


 初めて彼に会ったのは、その庭の縁だった。

 彼はわたしと同じように、まぶたの内側に草を生やしていた。

 違うのは、彼の草が風でざわめく音を、わたしにも聞こえるように差し出してきたこと。

 目を閉じたまま、わたしたちは挨拶を交わす。

 名前を言いかけて、やめる。

 呼び名があると、どこかに帰らなければならない気がした。


「ここには、門が見える?」彼が訊いた。


「門?」


 わたしは目の中の地平線を見渡した。

 草は草のふりをして、ところどころ海だったり、畑だったり、古い布団の綿だったりする。

 門は見えない。代わりに、遠くで鳩が豆鉄砲を喰らう音が聞こえた。


「じゃあ、まだ来ないね」と彼は言い、足跡を残さない歩き方で去った。


 目を開けると、現実は微妙にずれていた。

 シンクの蛇口から、水が一拍遅れて滴る。

 冷蔵庫のモーターが、昨日と違う音程で唸る。

 テレビの気象予報士の笑顔が、温度表示の数字に馴染まない。

 わたしは熱いマグカップを両手で包み、指に温度という言葉の意味を教え込む。

 指は、わたしより賢い。彼らは、誰にも見せない学位を持っている。


 午後、駅前の書店で立ち読みをした。

 背表紙は背骨の標本で、著者の名前は『雨の降り始め』だ。

 文庫の棚の匂いを吸い込むと、鼻の先で、誰かの午後がひっくり返る。


 わたしは本を一冊買って、カバーを断る。

 裸のまま持ち帰ると、紙は呼吸をする。

 ページの間の空気が、隙間から抜けていく音。

 思い出の蛇口をひねるみたいに、章立ては流れ始める。


 夜になるのを待ちながら、わたしは浴槽にお湯を張る。

 湯気は言葉の卵で、天井で孵る。

 目を閉じる練習をしながら湯に沈む。

 皮膚が庭の表土になって、毛穴から芽が出るような気がする。

 湯面に指を滑らせると、彼の声が浅瀬で揺れた。


「今夜は、来ると思う」


 わたしは天井に浮いた卵の殻を数える。

 奇数。鏡を見たくなる衝動は、蛇口から落ちる水滴の数に比例する。

 髪をタオルで拭きながら、玄関の鍵を二度確かめる。

 靴箱の上には、祖母の写真。

 目じりが折り紙の鶴みたいに折れていて、折り筋に光が溜まる。

 祖母は生前、眠る前に庭に水を撒いていた。

 夏の夜の、蛇口から伸びるホースの生き物感。

 水は、夜の鱗を撫でていた。


 ベッドに横になる。

 枕は雲を真似た石で、シーツは海になりたい砂の集まり。

 わたしは横になって、舌を上の歯茎に触れさせる。

 梯子は立つ。奥行きが開く。

 芝生は濃く、今夜は風がある。

 遠くで、音がしない手拍子が連続する。

 その合間に、彼の足音ではない、別の何かの気配が混じる。

 わたしはそれを『門』と呼ぶことに決める。


 門は形を変える。

 ある時は、誰かの背骨。

 ある時は、雨どい。

 今夜は、閉じた傘の骨のようだった。

 黒い夜を折りたたんで、床に立てかけたような姿。

 近づくほどに、小さな音が増えていく。

 虫の歯ぎしりみたいな、たわんだ金属のふるえ。

 門の前に立つと、身体の中の、開いたことのない扉が同じ音で鳴いた。


「開けたら、戻れないかもしれない」彼の声が言う。


 彼はわたしの左耳の斜め後ろに立っている。

 振り返ると、声だけが残る。

 草の擦れる音が、意志を持ってわたしの膝裏に頬ずりする。

 わたしは頷く。頷いた先にある暗闇が、頷き返す。


 門に触れようとすると、指先に冷たさはない。

 代わりに、あの日の湿り気が纏わりつく。

 小学校の体育館の匂い。

 卒業式の後、床に落ちた白い粉の跡。

 壇上のマイクを包むスポンジの手触り。

 思い出の天気はいつも曇りで、日の光は傘の裏側の色をしている。

 わたしは、掌の真ん中に薄い痣があることを思い出す。

 誰にも話していない痣は、ゆっくりと熱をもつ。


「もし開けたら、何があるの?」わたしは訊く。


「きみが、ここで草を育て始めた理由」彼は短く言う。


「それを連れて行くか、置いていくか」


 わたしは笑いそうになって、笑えない。

 笑いは、わたしの口内で迷子になって、舌の裏で膝を抱えて座る。

 わたしは代わりに、鼻から息を吐く。

 門が、わずかに揺れる。

 遠くで、電車が橋を渡る音がする。

 目の内側の空にかかる。

 わたしは片手で門の骨をつまむ。

 傘を開く前の、小さな抵抗。

 骨が、わたしの指先に秘密を打ち明ける。


 ひとつ、ふたつ。見えない留め具が外れていく。

 草が風で寝返りを打つ。

 わたしの耳の梯子が、段を増やしていく。

 背骨の一本一本が、音叉になって鳴る。

 開く直前、わたしは祖母の庭の匂いを嗅いだ。

 夜の土の重さと、昼の陽の名残りの混ざり合う匂い。

 蛇口の金属の冷たさが手首から肘に登る。

 祖母の声がする。「水は、明日のために撒くんだよ」


 門が開く。

 そこにあったのは、誰かの居間だった。

 古い団地の六畳間。畳にすり切れた跡。

 こたつ布団は夏でも出しっぱなしで、上には新聞とみかんの皮。

 テレビは音を消していて、画面に朝のニュースのテロップが凍っている。

 カーテンの端がほつれて糸が長く伸びる。

 窓の外には、わたしの知らない空。

 その色は、祖母のエプロンの裏地の色だ。


 居間の奥に、寝室がある。

 ベッドではない、布団。

 そこに、背中を向けて横たわる誰か。

 髪は短く、黒。布団をかぶる背中の形が、亀の甲羅に似ている。

 呼吸のリズムが、わたしの心拍と少しだけずれている。

 そのずれが、世界の芯を少し鈍らせる。

 わたしは敷居に足をかける。

 足裏に、畳の目の温度が乗る。

 畳は、秘密を抱えている。

 秘密は、いつも畳の目の間に潜む。


「これは、わたし?」わたしは声を出さずに訊く。


 声は、口の中で泡になり、ゆっくりと舌先で割れる。


「そうとも言えるし、違うとも言える」彼が居間の角から言う。


 いつの間にか、彼は祖母の古い箪笥にもたれて立っていた。

 箪笥の取っ手は冷たく光り、引き出しは少し開いている。

 開いた隙間から、紙の端がのぞく。

 紙は、日時計の針の影のように、ゆっくりとこちらを向く。


 わたしは近づく。

 布団の上の「誰か」は、背中しか見せない。

 背中の呼吸は、季節と同じ速度で波打つ。

 冬は遅く、夏は速い。

 今は春の手前で、空気がまだ固い。

 わたしは手を伸ばす。

 肩に触れる前に、手の平が、知らない名前を思い出そうとして震えた。

 指が覚えている文字の角度。筆圧の癖。

 誰かが、わたしの名前を練習していた頃の、音の形。


「触れたら、戻れない」と彼はさっきと同じ声で言う。


 だけど、今度は少し優しい。

 祖母がコンロの火を弱める時の指先の優しさ。

 わたしは、戻れない場所の形を考える。

 戻れる場所の形も同時に考える。

 どちらも、まぶたの裏の芝生と同じ色をしているのが、不思議だった。


 わたしは振り返り、箪笥の引き出しの紙を引き抜く。

 紙は、わたしと似た匂いがした。

 見たことのない筆跡、だけど指先は知っている。

 そこには短い言葉が丁寧に結ばれていた。


「覚えているうちに、ここに置く」


 わたしは読み上げることをやめる。

 言葉が喉に引っかかって、ささくれみたいな痛みになる。

 居間の空気が少し重くなる。

 テレビの無音のニュースのキャスターが、壮大な口の開閉を繰り返す。

 わたしは紙を持ったまま、布団の人の肩に触れた。

 熱。生きている熱。

 誰かとわたしの温度が混ざっていく瞬間、目の内側の芝生が強い風で倒れた。


「来て」彼の声が、今度は隣で囁く。


 わたしの耳に草の葉が触れる。

 わたしは一歩分、未来に体重をかける。

 畳が、その足音を飲み込む。

 布団の人が、ゆっくりと振り向く。

 顔の輪郭が、わたしの記憶の中の誰かの輪郭に重なる。

 違う、と思う。

 けれど、同じ、とも思う。

 思考が、折りたたみ傘の骨に引っかかって、きしむ音を立てた。


 その瞬間、目の外の世界で、玄関のチャイムが鳴った。

 現実は、遠くの花火みたいに遅れて届く。

 目を閉じた庭に、現実の音が雨粒として落ちる。

 芝生が濡れて、匂いが立つ。

 わたしは振り返るべきかわからない。

 門の向こうの居間は、わたしの過去と未来が肩を寄せ合って座る場所だ。

 玄関のチャイムは、わたしの現在に、忍び込んだ別の時間。


「出なくていい」彼が言う。


「出るなら、今じゃない」


「じゃあ、いつ?」わたしは訊く。


 わたしの声は、居間の天井に薄く広がり、蛍光灯の黄ばみに混ざる。


「きみが、庭に名前をつける時」


 わたしは、目の内側の草を見た。

 草は、まだ名前を持っていない。

 一本一本に、名札をかける代わりに、わたしは、手で撫でた。

 撫でられた草は、撫でられたことを覚えている。

 触れたものは、触れられたものになる。

 わたしは紙を胸に当て、布団の人の目を見た。

 そこに映るのは、わたしのまばたきの間に生まれる庭。

 まぶたの裏の、小さな風のうねり。


 玄関のチャイムは止んだ。

 代わりに、郵便受けの口金が鳴る音が、現実で一つ。

 目の内側で、風が一つ。

 わたしは息を吸う。

 思い出の蛇口を一気にひねるみたいに、過去の匂いが流れ込む。

 祖母の庭。雨上がりの夕方。靴の中が濡れて、足指がふやけた感触。

 ホースの先で跳ねる水の小さな太鼓。

 祖母がわたしに渡した、小さなスコップ。

 土を掬う時の重さ。

 重さは、わたしを真面目にする。


「覚えているうちに、ここに置く」


 わたしは自分の声で、紙の言葉をもう一度言った。


 置く先は、わたしの庭だ。

 誰かの居間でも、箪笥の引き出しでもない。

 門を境に、こちら側。

 芝生。小さな丘。海になってみたい畑。

 わたしは胸から紙を剥がし、草のうねりの中に、そっと差し込んだ。

 紙は、土の中に滑り込むみたいに消え、かわりに、小さな芽がひとつ、顔を出した。


 その芽は、わたしの名前の形をしていた。

 名前の角が風で丸くなり、音が柔らかくなる。

 わたしは初めて、自分の庭で、自分の名前を呼んだ。

 音が、草の根を揺らし、土の中の虫がゆっくりと目を開ける。

 居間の布団の人が、同じ名前を口の中で繰り返す。

 彼が、遠くで笑う。

 笑いは、今度は迷子にならずに、わたしの口から外に出た。


 わたしは、門の骨にもう一度触れた。

 折りたたみ傘は、開いたまま閉じられることを忘れられていた。

 居間の空気が、少し軽くなる。

 布団の人の呼吸が、わたしの心拍に近づく。

 彼が、箪笥の取っ手から手を離し、芝生の方へ一歩下がる。

 わたしは境界に立つ。

 畳の目と、草の葉脈が、わたしの足裏で丁度重なる地点。


「まだ行ける?」彼が言う。


 問いかけは、わたしの骨の間を通り抜けた。

 背中のどこか、見たことのない扉に当たって跳ね返る。


 わたしは、うなずいた。

 うなずきが風になって、庭を渡る。

 遠くで、見えない川が音を立てる。

 川は、どこから来て、どこへ行くのか。

 答えはどうでもいい。

 いまは、この水面のきらめきを、目の裏で見ていることが大事だ。

 わたしは踏み出す。草の香りが濃くなり、土の温度が足首を包む。

 居間が、遠ざかり、門が、静かに閉じていく。


 閉じきる直前、わたしは布団の人と目が合った。

 それは、わたしではない誰かで、わたしでもある誰かだった。

 彼女の瞳は、わたしの庭の色を知っていて、知らないふりをしていた。

 わたしたちの間に、言葉にならないものが流れ、やがて、門がそれを真ん中で二つに切り分けた。

 切り口は、瑞々しく、少し酸っぱかった。


 目を開けると、天井の亀裂が新しい形で走っていた。

 チャイムはもう鳴っていない。

 郵便受けの口金の音は、たしかに現実でひとつ。

 玄関に行く。足元に、白い封筒。

 差出人は、知らないはずの名前。

 宛名は、わたしの名前。

 字の角度は、指が覚えている。

 角は、風で丸くなっていた。


 封を切る前に、わたしはマグカップをシンクに置き、水を出す。

 蛇口の音は、昨日より少し低い。

 水面に、まぶたの裏の芝生が鏡になって映る。

 わたしは唇を引き結び、封筒の耳を、静かに裂いた。

 中の紙は、庭の芽と同じ手触りがした。

 読み始める前に、わたしは一瞬だけ目を閉じる。

 内側の草が、またひとつ、風で倒れた。

 今夜、門は、別の形で来るだろう。

 いまは、ここで、紙の匂いを吸い込み、知らないはずの筆跡に、指を添える。

 指は、相変わらず、誰よりも賢い。

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