坂井の登場 ― 誠実と茶化しの間
噂が一通り盛り上がり、教室の熱気が少し落ち着いたころ。
坂井健人が、どこか照れくさそうに机の間を縫って歩いてきた。
周囲の男子が「おーい、坂井、言っとけ言っとけ!」と背中を押す。
坂井は「うるせえよ」と笑いながら、澄音の席の前に立った。
彼の笑いは軽いのに、その目だけが少しだけ真面目だった。
「なあ、藤原。俺、ほんとに優勝しちゃうかもよ?」
唐突な声。
澄音は思わず文庫本を閉じ、机の上に置いた。
心臓の鼓動が、なぜか昼休みの喧騒よりもはっきり聞こえる。
「べ、別に本気にしなくていいのに……」
声が少し裏返る。
教室の片隅で笑い声が起き、それがまるで夏の蝉の声みたいに遠くへ消えていく。
坂井は肩をすくめて笑った。
「でも、お前、言葉にしたじゃん。俺、それ信じるタイプなんだ。」
――“信じる”。
たった三文字。
けれど、その響きが澄音の中で、予想外の深さを持って落ちた。
軽口のはずだった言葉が、
誰かに拾われ、真剣に磨かれていた――そんな感覚。
胸の奥に、かすかな熱が生まれる。
それは羞恥でも照れでもない、もう少し違う温度だった。
> 信じるという行為は、筋肉に似ている。
> 使えば使うほど、確かに強くなる。
> ただし、壊れることもある。
彼女の心の奥で、その言葉が静かに形を持ち始めていた。
坂井は軽く手を振り、「じゃ、練習行ってくる」と言って教室を出ていった。
その背中を、澄音はどうしても視線で追ってしまう。
――筋肉というものは、案外、言葉よりも誠実なのかもしれない。
そんな考えが、ふと胸をよぎった。
そして澄音は、また文庫本を開いた。
だが、ページの上で文字たちは、どれも筋肉の形をしていた。




