「笑いの光の下で」②
ステージ裏の空気は、張りつめた糸のように細く震えていた。
それぞれの出場者がそれぞれの緊張を抱えているのが、肌に触れるだけで分かる。
そんな中で──坂井だけが、いつも通りだった。
アキレス腱を伸ばして、
肩をぐるぐる回して、
軽くジャンプして筋肉の弾力を確かめて。
まるで体育の準備体操の延長みたいな、拍子抜けするほど普通の動き。
息を乱さず、表情ひとつ変えず、
ただ当たり前のように“いつもの坂井”としてそこにいる。
ステージ裏のざわめきの中で、
彼の落ち着きだけがぽつんと島のように浮かんでいた。
坂井はストレッチを区切るようにふっと息を整え、
横目で澄音を見た。
そこに特別な緊張も、鼓舞もない。
ただ、普段の会話の延長で言葉を置くような、
自然で、あまりに当たり前の声色で──
「準備はいいか、詩人。」
まるで、澄音が最初からそういう存在だったかのように。
何の迷いもなく、それ以外の呼び名が思いつかないとでもいうように。
その一言が、澄音の胸の奥をきゅっと掴んだ。
“詩人”という二文字が、澄音の胸に
思いがけない角度で落ちてきた。
いつもなら、からかわれたように聞こえたはずだ。
「また大げさな言葉使ってる」と笑われるイメージの強い単語。
自分なんかには似合わない、と反射的に思ってしまう肩書き。
──なのに今日は違った。
坂井が言った“詩人”には、
軽さも揶揄も一切なかった。
筋肉の横で、詩を書く自分。
鉄の匂いと紙の匂いのあいだで揺れてきた自分。
その全部をひっくるめて、
「それでいい」と肯定されたような響きだった。
胸の奥の、柔らかく脆いところがぎゅっと掴まれる。
息が短くなるほど、嬉しかった。
澄音(心の声)
「……“詩人”って、こんなに嬉しいんだ……」
自分の中の“言葉を書く自分”が、
初めて誰かに真っ正面から呼びかけられた気がした。
膝はまだかすかに震えていた。
手のひらの汗も乾かない。
それでも――声だけは、なぜかまっすぐ前に出た。
澄音
「……はい。いけます。」
言ってしまってから、胸の奥がじんと熱くなる。
震えたままの自分が、その震えごと一歩を踏み出した感覚。
坂井は特に驚きもせず、
いつもの調子で「ああ、そっか」とだけ頷く。
その“普通さ”がありがたかった。
大げさに褒められるよりも、気取った励ましよりも、
ただ隣で当たり前のように受け止められることが、
いちばん澄音を落ち着かせた。
まるで、もうずっと前から
“いける奴”だと分かっていたかのように。
震えは――まだ、そこにあった。
膝の奥で、ふるりと揺れる細い振動。
手の中で、脈打つように続く微かなざわめき。
けれど、そのどれもがもう
“弱さの証拠”には聞こえなかった。
それはまるで、
スタートラインの直前で地面を噛むランナーの足の震えのように、
走り出す前の“合図”として響いていた。
澄音(心の声)
「……まだ震えてる。
でも、これは――前に進むための震えだ。」
胸の奥が、静かに前へと傾く。
ほんの少しだけ世界が明るく見える。
自分が確かに前へ進んでいる。
その実感が、震えのひとつひとつを支えていた。
体育館に響くアナウンスは、澄音の耳にだけやけに大きく届いた。
「──弓月澄音さん、坂井悠斗さん。表彰のためステージへお上がりください」
名前を呼ばれた瞬間、心臓がひとつ跳ねた。逃げ腰の本能が、背筋をつついて後ろへ下がれと言う。しかし、横を見ると坂井が、いつもの柔らかい笑顔のまま「行こっか」と目で合図していた。
その穏やかさに触れた途端、澄音の足は勝手に前へ出ていた。
二人で並び、階段を上っていく。ぎしり、と木製の段が沈む音がやけに生々しく響く。体育館中の視線がこちらに吸い寄せられる気がしたが、不思議と足取りは重くならない。
──むしろ、軽い。
ステージ中央に立つと、天井から降り注ぐライトがふわりと二人を包み込んだ。
オレンジ色の光。まるで、古い灯火が人の誠実さを照らし出すような、温かく揺らめく色。
澄音は思わず見上げた。光はほんの少し眩しいのに、目を細めたくはならなかった。
坂井の横顔にも同じ光が落ちている。いつもと違う、どこか大人びた雰囲気を帯びていた。
その輝きに照らされた自分の影が、足元で揺れている。
(……逃げられない場所)
そう自覚した途端、胸がぎゅっと縮まるはずだった。
だけど、実際には──
(なのに、嫌じゃない)
気づいた瞬間、息が静かにほどけた。
舞台袖のざわめきも、観客席のきらきらした視線も、すべて現実味を帯びて押し寄せてくるのに、怖さだけが薄れていく。
坂井の横に立っているという事実が、どこか安全な境界線のように感じられた。
まるで、彼と並ぶこのステージが「逃げ場のない檻」ではなく、
ほんの少しだけ未来へ踏み出すための「光の足場」に変わったかのように。
澄音は小さく息を吸い、胸元に手をそっと添えた。
鼓動は早い。でも、嫌な速さじゃなかった。
先生が表彰状を持って近づいてくる気配がする。
さっきまで遠かった式典のざわめきも、もう怖くない。
澄音は、そっと自分自身に言い聞かせた。
(大丈夫。ここにいるのは……私が自分で歩いてきた場所だから)
ライトが、彼女の決意を祝福するように揺らめいた。
ステージの上から見下ろす観客席は、昼の体育館にしてはやけに眩しく見えた。
人が多いというだけで、いつもなら胸の奥がきゅっと縮まるはずなのに――。
「お、澄音だ」「あの文芸部の子じゃない?」
そんな囁きが、あちらこちらで立ち上る。
そして、早くもクスッという笑いが漏れた。
別に変なことをしたわけでもないのに、ただ呼ばれただけで笑いが生まれる。
それはいつも澄音を傷つける“合図”のようなものだった。
……以前なら。
胃に鋭い針を刺されたみたいに痛み、呼吸が浅くなり、
「見ないで」と何度も心の中で叫んでいたはずだ。
だが。
今日は、胸の奥にぽとりと落ちたそのざわめきが――
なぜか、まったく別のものに聞こえていた。
ザワザワと波立つ音。
それは教室の窓を抜けていく風の音に似ていた。
草原の上を駆け抜ける、柔らかい初夏の風のような。
(……あれ? これ)
澄音は自分の胸の鼓動を確かめるように、小さく息を吸った。
痛くない。
苦しくもない。
むしろ――ほんの少しだけ、暖かい。
(これ……怖いんじゃなくて、光なのかもしれない)
ステージライトの橙が、観客席のざわめきと重なって揺れる。
その光は、彼女を追い詰めるためのものじゃない。
隅っこに隠れ続けてきた心を、そっと表へ押し出してくれるような――
そんな優しさを持っていた。
坂井が隣で軽く息を吐く気配がした。
澄音は気づかれないように、ほんのわずかに笑う。
自分が今、ステージに立っている。
それも“泣きたくなる苦しさ”の中ではなく、
“風の音に似たざわめき”の中で。
それだけで、世界が少し違って見えた。
坂井が一歩前に出て、観客席を一瞥する。
彼の背筋はいつもどおり迷いがなく、澄音はその横顔を見るだけで呼吸が整っていく気がした。
「いくぞ」
短い号令。
そして、間髪入れずに続くカウント。
「……3、2、1――!」
その声と同時に、二人の動きがぴたりと重なる。
澄音は胸の奥で小さく震える鼓動を押しとどめるように息を吸い、
まだ細い腕を、精一杯伸ばして構えた。
胸を張り、背筋を伸ばす。
――筋肉は、まだ頼りない。
けれど、今日という日のために、
“逃げずに震え続けてきた”証そのものだった。
ポーズを取った瞬間、観客席にざわりと笑いが走る。
それは、意地悪でも軽蔑でもない。
ただこの舞台の空気をふくらませる、自然な反応のようだった。
数秒遅れて、笑いは拍手へと変わる。
パラパラと弾けるような音が重なり、澄音の全身に降りそそいだ。
(……あ)
胸の奥で、何かがほどける。
笑われている。
でも、痛くない。
むしろ――包まれているような感覚さえある。
(笑われるって……
見つめられてるってことなんだ)
その気づきが、そっと胸に灯りをともした。
スポットライトの橙よりも、ずっとあたたかい光。
澄音はポーズを維持したまま、
ほんの少しだけ、唇の端を上げた。
ステージライトが、真正面から澄音を射抜く。
まぶしさに目を細めた瞬間、自分がこの光の中心に“立たされている”のではなく、
“立っている”のだと気づく。
膝の裏でまだ震えは続いていた。
けれどその震えは、怯えではなく、
自分の身体が「ここにいる」と主張する鼓動のように感じられる。
(見つめられることは……生きることだ)
(ぼくは今……ちゃんとここに立ってる)
心の中で言葉にした途端、胸の奥がじんと熱くなった。
そのとき、隣の坂井が、観客席でも見えるほど大きくニッと笑った。
挑発的で、頼もしくて、ふざけ半分で、しかしどこまでも真剣な笑み。
澄音は思わず、同じように笑い返していた。
口元が自然に上がるのを、自分で止められない。
ふたりの影がステージ床に長く伸びて、重なり合う。
光に照らされたその形は、
まるで“青春の筋肉”が輪郭を持ち、
いまこの瞬間に確かに存在しているかのようだった。
澄音はその影を見つめながら、
もう一度、しっかりと胸を張った。
ステージ袖に足を踏み入れた瞬間、
澄音の胸で跳ねていた鼓動が、すっと静かに落ち着いていくのが分かった。
ざわめきやライトの熱が遠ざかるにつれ、
さっきまでの震えが“怖さ”ではなく“余韻”へと変わっていく。
規則正しく、丁寧に鳴る心臓の音。
まるで「よくやった」と内側から撫でられているようだった。
そこへ、杏がぱたぱたと音を立てて駆け寄ってくる。
「よかったじゃん、澄音。
めっちゃ笑われてたよ。」
屈託のない笑顔で言われて、
澄音は一瞬だけ、どう返していいか迷った。
でも、すぐに胸の内側から言葉が自然に浮かんでくる。
「……うん。
でも、悪くなかったです。」
杏は驚きもしないで、当たり前のように微笑んだ。
「そうでしょ」
その何気ない頷きが、
今日の舞台で浴びた拍手よりも温かく、
澄音の背中をそっと押してくれるようだった。
その夜。
家の明かりが落ち、静けさが部屋いっぱいに広がった頃、
澄音は机に向かって日記帳を開いた。
ページの白さが、今日のステージライトみたいにやわらかい。
胸の奥でまだあの余韻が、ほのあたたかく揺れている。
ゆっくりペンを走らせる。
世界のすべてが、少しだけ筋肉に見える。
そして、それは悪くない。
書き終えた瞬間、
自分でも驚くほど自然に、頬がゆるんだ。
あのライト、あの笑い声、あの震え。
すべてが胸の底でほどよく混ざり合って、
言葉になって流れ出していく。
(笑われる場所に立てるって……
それだけで、強くなれるんだ。)
澄音はそっとペンを置いた。
今日のページは、どこか汗と光の匂いがするような気がした。




