冗談の誕生 ― 約束の発火点
杏が椅子をゆらゆらと揺らしながら、まだ笑っている。
その笑い声が、夕方の光の中で少しずつ溶けていく。
澄音はペンを指先で転がしながら、なんとなく目を伏せた。
「……まあ、いいよ。優勝したらね。」
その言葉は、まるで軽い紙飛行機のように、ふと飛び出した。
照れとも、興味ともつかない感情が、少しだけ口元に残る。
杏がぴたりと動きを止めた。
「え、ほんとに? 今の録音しておけばよかった!」
「文学において、条件付きの約束は空想の一種よ。」
澄音はさらりと返す。
理屈の鎧をまとって、軽口を“詩的な防壁”に変えるのは、彼女の得意技だった。
杏は目を細め、からかうように笑う。
「その空想、筋肉で叶えられたらどうする?」
澄音は一瞬、言葉を失った。
机の上の光が、ページを滑る。
ほんのわずかな間のあと、肩をすくめて言う。
「……そのときは、そのときね。」
静かに笑ったつもりだった。
けれど、笑いの裏側で何かが“カチリ”と鳴った気がした。
まるで現実が、彼女の冗談に反応してスイッチを入れたような音。
杏は満足そうに立ち上がり、カーテンをめくった。
「ふーん、じゃあ報告を楽しみにしてるね。坂井くん、本気出すかもよ」
澄音は苦笑する。
「男子の“本気”って、往々にして汗くさいわね」
「でもね、澄音。詩の世界も、けっこう汗くさいよ?」
杏が手を振って出ていく。
ドアの閉まる音が、静寂に戻る合図になった。
澄音は再びペンを取った。
けれど、もう「沈黙」という題の続きを書くことはできなかった。
代わりに、白いページを見つめながら、思う。
> 言葉は軽い。
> けれど、誰かに届いた瞬間、重さを持つ。
> その重さに、私はまだ気づいていなかった。
夕陽が沈む。
光がタイプライターのキーを撫でていく。
静けさの中で、世界のどこかが、ほんの少しだけ動いた。
――その中心に、自分の言葉があることを、澄音はまだ知らない。




