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『筋肉の詩(うた)を、君に。』 ――笑われる勇気を、青春と呼ぶなら。  作者: 南蛇井


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杏の“核心を突く”優しい一言

 放課後の文芸部室には、紙とインクのにおいが、今日もほんのり漂っていた。

 窓から刺す夕陽が、机の上に開きっぱなしのノートに斜めの影を落とす。


 澄音は、書き終えたばかりのページをそっと閉じようとしていた。今日の出来栄えは――まあ、悪くはない。だが、例によって三人ほどには笑われ、二人ほどには妙に褒められ、一人には「発想が野生」と評された。心はちょっとだけ疲れている。


 そこへ、杏がひょい、と影のように近づいた。

 彼女は澄音の肩ごしに身を屈め、ノートを覗き込む。


「ねえ澄音」

 軽やかな声。

 だが、次の言葉は、その軽さとは裏腹に、核心をつく鋭さを孕んでいた。


「あんたさ――笑われることに、ちょっと慣れてきたよね?」


 澄音の指先が止まる。

 ページの端をつまんだまま、時間まで固まったようだった。


 部室の空気が一瞬だけ揺れる。

 ほかの部員たちも、話の続きを飲み込んだまま、気づかれない程度に耳を澄ませる。

 ――あ、杏が核心を突いた。

 そんな沈黙の合図が、ふわりと広がった。


 杏は澄音の動揺も意に介さず、机に背中を預けながら、さらりと続ける。


「別に悪い意味じゃないよ。

 なんかね、前より呼吸が楽そうっていうか。

 笑われても、ちゃんと前に出てくる顔してる」


 笑っているのでも、慰めているのでもない。

 ただ、澄音の変化を見つけた人間が、ごく当たり前にそれを伝えているだけの調子。


 澄音の胸に、じわりと熱が広がる。

 驚きもあったが、それ以上に――なぜだろう、息がふっと軽くなる気がした。


「……そんなふうに見える?」

 澄音は、小さな声で問う。


「うん。すごく」

 杏は迷いなくうなずいた。

「笑われるのって、別に悪者じゃないからね。

 あんた、きっとそのうち、笑われながら強くなるタイプだよ」


 それは、励ましとも違う。

 未来を見通して放たれたような、淡々とした確信の言葉だった。


 澄音はノートを閉じる手をゆっくり下ろし、胸の奥に静かに芽生えたものを確かめた。

 恐れが、少しだけ薄くなる。

 笑われることを、以前ほど怖がらなくていい。


 夕陽が傾き、部室の空気がまた動き始めた。

 だが澄音の中で、確かに何かが“前へ”と一歩進んでいた。



 杏の言葉は、澄音の胸の真ん中にぽとりと落ちた。

 “慣れてきた”――たったそれだけなのに、不意に心の奥が揺れる。


 慣れてきた?

 自分が、笑われることに?


 かつての澄音なら、そんな言葉を向けられた時点で顔を真っ赤にしていたはずだ。

 笑われるのは怖かった。

 否定される気がしたし、自分の弱い部分を見透かされるようで、胸がざわついた。


 だが、思い返してみれば――最近の自分は妙に忙しかった。


 プロテインを飲みながら詩を書き、

 杏に散々笑われ、

 部員たちに半ば呆れながらも見守られ、

 さらには坂井にフォームまで矯正され……。


 そのどれも、笑われたり、突っ込まれたり、見られたりする瞬間ばかりだった。


 気づけば――

 自分はずっと、笑われる場所に立ち続けていたのだ。


(……慣れてきた……のかな……?)


 胸の内でつぶやくと、その言葉がゆっくりと形を変える。

 これまで刺さっていた“痛み”としての感覚が、するりと裏返り、

 残ったのは、ほんの小さな温かさだった。


 次の瞬間、澄音の肩からふっと力が抜ける。

 息が、驚くほど軽かった。



澄音がそっと息を吐いたのを見届けるように、

 杏は視線をノートから外した。

 その横顔は、いつものように軽く、飄々としているのに――

 なぜか今日は、そこに柔らかな温度が宿っていた。


「そのままでいいよ」


 杏は、まるで何でもないことのように言う。

 けれどその声色は、冗談でも、茶化しでもなく、

 “穏やかな本気”だった。


「だって、人ってさ――

 笑われながら強くなるんだから」


 笑いながら言うのに、

 彼女の目は真剣だった。


 からかいの笑いではない。

 突き放す笑いでもない。


 澄音の背中を、そっと押すような――

 見守る側の、あたたかい笑い。


 そのまなざしに気づいた瞬間、

 澄音の胸の奥がじん、と熱を帯びる。


 今まで怖かったはずの“笑い”が、

 まったく別のものに変わっていくのを、

 はっきりと感じた。


 まるで、新しい風が吹いたようだった。


澄音はゆっくりと息を吸った。

 胸の奥で、なにかが――本当に小さな灯りが、

 ぽ、と灯るのを感じた。


(……笑われても、いいんだ。

 そこから、強くなれるなら……)


 思わず、今日ノートに書いた一文がよみがえる。


 ――「今日もちゃんと震えている。

    だから、少しだけ強くなれた気がする。」


 あの行は、自分を励ますための言葉だったはずだ。

 けれど今は、杏の言葉がそのすべてを

 「それでいいんだよ」と肯定してくれているようだった。


 澄音はノートをそっと閉じる。

 閉じる音はかすかなのに、胸の奥には確かな響きが残った。


 それから、背筋を少しだけ伸ばした。

 ほんの数センチの変化。

 でも、自分にとっては大きな前進だった。


 ――“笑われる自分”を、

 初めて受け入れられそうな気がする。


 その感覚が、静かに、確かに、心の中に根を下ろしていった。




夕暮れの文芸部室の扉をそっと閉めると、廊下には長く伸びた影が横たわっていた。

橙色の光が窓から差し込み、床に落ちた自分の影をやわらかく揺らす。


澄音はゆっくり歩き出す。

胸の奥が、じんわりと温かくなっているのが分かった。


昼間のトレーニングで残った、微かな脚の震え。

さっきまでノートに言葉を刻んでいた指先の、かすかな震え。


違う部屋で生まれたはずの震えが、今は同じリズムで脈を打っているように思える。

そのことが、今日一日の“気づき”を静かにまとめていく。


ふっと息を吸い、心の中に言葉が落ちていく。


澄音(心の声)

「詩も筋肉も、

 見えない場所で静かに震えている。

 その震えを信じるってことが……

 きっと“青春”なんだ。」


“青春”なんて、これまで自分の口に上らせたことのない言葉だった。

照れくさい。

でも今は、不思議と自然に胸に馴染む。


廊下を満たす夕焼けの匂いが、澄音の歩幅をそっと整えていった。


階段を降りる足取りが、いつもよりわずかに軽かった。

太腿にはまだ鈍い痛みが残っている。

でも、その痛みはもう“不安”ではなく、どこか“証拠”のように思える。


迷いが完全に消えたわけではない。

けれど――逃げたい、とはあまり思わなくなっていた。


廊下の曲がり角で、澄音は一度立ち止まる。

明日の大会練習の光景が、胸の奥にふっと浮かんだ。


坂井の落ち着いた声。

鏡に映るまだ頼りない自分の姿。

負荷に震える脚の筋肉。

そして――杏がくれた、あの優しい一言。


そのすべてが“前へ進むための震え”に姿を変えていく。


澄音は再び歩き出した。

その軌道は、ほんの少しだけ、まっすぐだった。


澄音(心の声)

「震えてるなら、大丈夫。

 それは、強くなる前触れなんだ。」


夕暮れの廊下を進む足取りに、小さな希望の火が灯っていた。





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