ボディービル部室での“形が整う瞬間”
放課後のボディービル部室は、夕方の光が床に斜めの帯をつくり、
その上をダンベルの金属音が、低く、律儀に刻んでいた。
坂井先輩はいつものように、黙々とスクワットを繰り返していた。
背筋は一本の線のように伸び、余計なものをそぎ落とした動き。
音もなく沈み、音もなく立ち上がる、その姿は澄音から見ると
まるで「筋肉でできた詩行」のように見えた。
澄音は、喉の奥がやけに乾いていることに気づいた。
勇気というより、勢いに近いものに背中を押されて、一歩前へ。
澄音
「さ、坂井先輩……フォーム、見せてもらってもいいですか……?」
その瞬間、
ガチャンッ、と坂井先輩の手からダンベルが一瞬ずれ、
床に小さくぶつかって跳ねた。
坂井
「えっ、俺のフォーム……? 澄音が見てどうすんの?」
本気で驚いた顔だった。
無理もない。普段、紙とペンの世界に浸っている澄音が、
鍛錬の象徴であるスクワットについて頼み込むなんて、
まったくの想定外だろう。
坂井先輩は、スクワットの途中姿勢のまま固まり、
「文学部の子が何を言い出したんだ?」という顔でこちらを見る。
澄音は思わず視線を落とし、ぎゅっと拳を握った。
澄音(心の声)
「でも……見たいんだ。
“形”が整う瞬間を……ちゃんと知りたい……」
夕方のボディービル部室は、いつもより静かで、
その静けさの中で、二人の距離だけが不思議に近づいた。
坂井先輩は、まだ少し驚きの余韻を残しながらも、
「まあ、いいけど……」と静かに息を吐き、ゆっくりと立ち位置を整えた。
そして、澄音の目の前でスクワットを一つ。
沈むとき、膝がぶれない。
背筋はまっすぐ下へ伸び、空気そのものを押し分けていくようだった。
立ち上がるときは、地面から“見えない力”を受け取るみたいに自然。
澄音は、その滑らかな動きに一瞬見とれた。
まるで、筋肉で描かれた書道の一筆。
坂井
「ほら、やってみろよ。」
促されて、澄音は震える足を前に出した。
昨日の練習の余韻が太ももに残り、
しゃがむ動作だけで内側がビクッと反応する。
澄音
「え、えっと……こ、こう……ですか……?」
ぎこちない。
もちろんぎこちない。
けれど、真剣だった。
坂井
「うーん……悪くないけど、力ぬけよ。ほら、肩。そう、そこ――」
坂井先輩は後ろに回り、
澄音の背中へ軽く触れる程度に手を添えた。
その指先の圧はわずかなのに、澄音の呼吸が一瞬止まる。
(澄音・心の声)
「ち、近い……!
いや、落ち着け。フォームだ、フォームのことに集中……!」
言われたとおりに肩の力を抜くと、
しゃがむ動きがすっと軽くなる。
坂井
「そうそう。呼吸合わせれば、もっときれいに動ける。」
夕方の静かな部室で、
坂井の低い声と澄音の浅い呼吸が、
ゆっくりと同じリズムを刻みはじめていた。
坂井は、澄音の姿勢を整えながら、
まるで雑談でもするような調子でぽつりと言った。
坂井
「言葉もフォームもさ、
見えないところの“震え”が大事なんだよ。」
その瞬間――
澄音の膝が、今度はフォームのせいではなく、
“意味”に反応して震えた。
呼吸が乱れそうになる。
彼はスクワットの途中姿勢で固まりかけ、慌てて踏ん張る。
(澄音・心の声)
「み、見えないところの……震え……?」
坂井は澄音の反応など気づかぬまま、淡々と続ける。
坂井
「筋肉ってさ、外から見える盛り上がりより、
中で細かく震えてる繊維のほうが大事なんだよ。
そこが動いて、初めて形が整う。」
その言葉が、澄音の胸のどこか深い場所――
言葉になる前の“ざわめき”の層に、
静かに、しかし確実に落ちていく。
(澄音・心の声)
「見えないところの震え……
言葉になる前の気持ち……
フォームの奥の筋肉の揺れ……
あ、これ……」
まるで誰かが、
バラバラだった地図の断片をひとつに重ね合わせてくれたような感覚。
澄音は、ゆっくりと立ち上がりながら息をついた。
(澄音・心の声)
「今……何かが、つながった……」
澄音は、膝を曲げたまま固まった。
坂井の言葉が、遅れて落ちてきた雷みたいに胸の奥を撃つ。
(澄音・心の声)
「震え……?
そうだ……ぼく、今日ずっと震えてた……
筋肉も、言葉も……心も……」
呼吸の音が急に近くなる。
自分の肺が「ふう、ふう」と動くたび、
胸の内側で小さな波紋が広がるのがわかる。
足裏が床を押し返す――
その圧の中にも、かすかな震えがある。
太ももの奥、
脊髄の下のほう、
胸骨の裏。
そこに潜んでいた細い揺らぎが、
一本の糸のように繋がり始める。
(澄音・心の声)
「これが……“見えない震え”……
筋肉の繊維が、回復しながら微かに震えるみたいに……
言葉も、形になる前に震えるんだ……
ずっと……ぼくの中で……」
自分の中心が、じん、と痺れる。
今まで「別物」だと思っていた
詩と言葉、筋肉とトレーニング、
その全てが――
この震えの線で、
すっと一本に結ばれていく。
澄音は静かに立ち上がりながら、
胸の奥で灯ったその線を、そっと確かめた。
坂井は、澄音のフォームを横から見つめながら、まるで独り言のように続けた。
「見えるところだけ頑張っても形にならないんだよ。
大事なのは――中で震えてる細かいところ。」
その言葉が、澄音の胸の奥へ落ちていく。
穴の空いたバケツに水を注ぐみたいに、最初はただ流れ落ちていくだけだったのに――
次の瞬間、急に底に引っかかる。
筋肉の繊維が、微かに震えている。
そこに乗っかる呼吸のわずかな乱れ。
そして、詩を書く前に胸の奥をざわつかせる、あの言葉にならない感情の揺れ。
ぼくの中の、見えない震え。
それらが、一本の線でゆっくりとつながっていく。
最初は細く、頼りなく、けれど確かにそこにあった。
澄音(心の声)
「見えない震えが……形をつくる……
詩も……筋肉も……ぼく自身も……?」
スクワットの姿勢のまま、澄音は気づいた。
体の奥のごく小さな震えが、むしろ芯をつくっている。
逃げていたと思っていたその震えが、形の始まりなのだ。
胸のどこかで、静かに火が灯る。
他の誰にも聞こえない、ごく小さな音を立てながら。




