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『筋肉の詩(うた)を、君に。』 ――笑われる勇気を、青春と呼ぶなら。  作者: 南蛇井


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田嶋先生の“哲学的筋肉論”

 文芸部室を飛び出して数十歩。澄音は、まるで季節をひとつ跨いだような錯覚を覚えた。


 ボディービル部室の前に立つと、空気そのものが重力を増したようだ。木材のにおいに、控えめとは言いがたい汗の残り香が溶け合い、澄音の肺にずしりと沈む。詩の言葉が浮かぶ余白など、この空間には一欠片もない。


 部室の入口に貼られた歴代筋肉写真たちは、もはや装飾というより“威嚇の壁”だった。彼らはみな、岩壁から切り出されたみたいな体躯をしており、どの顔も「詩なんて書いたことはないし今後も書くつもりはない」という哲学を堂々と主張している。


(……ぼく、絶対ここに馴染めてない気がする……)


 澄音は、気配を小さくしようとするウサギのように背中を丸めた。しかし、その臆病な気配はどうやら逆効果だったらしい。


 肩幅だけで部室の横幅を半分ほど奪っていそうな男――田嶋先生が、ゆっくりと振り返った。


「おお、来たな、澄音!」


 その声は、鼓膜ではなく胸板に直接響く地鳴りであった。澄音の心臓が、胸の奥でちいさくスクワットをした。


「澄音。今日は大事なことを教えてやる。」


 田嶋先生が腕を組むと、ただそれだけで空気が“重量級”に傾いた。澄音はびくりと肩を跳ねさせる。


「えっ……きょうはスクワットじゃないんですか?」


「スクワットもする。」

 即答である。逃げ道はなかった。

「だがその前に――」


 田嶋先生は拳を握りしめ、その拳で自分の胸をドン、と叩いた。豊かな胸板が共鳴し、「哲学の開幕」を高らかに告げる太鼓のように鳴る。


「努力とはな、タンパク質の再構成だ。」


「た、タンパク質の……再構成……?」


「そうだ。」

 先生は静かに、しかし筋肉だけは雄弁に語りはじめる。

「筋肉は壊し、休め、そして積む。

 言葉も同じだ。

 一度書き潰し、休ませ、推敲で積み直す。

 違うか?」


 澄音は目をまん丸にした。言われてみれば、否定できない。むしろ妙に納得させられる理屈だった。慌ててバッグからメモ帳を引っ張り出し、震える手で書き留める。


(言葉、壊す、休ませる……。

 確かに、推敲も再構成……。)


 その瞬間、澄音の心の中で、重量挙げ部室の蛍光灯がぽっと灯る。


(せ、先生……意外と文学的……?)


 田嶋先生の周囲が、ほんのり後光をまとったように見えたのは、気のせいではない。



田嶋先生は棚へ歩き、迷いなく一つの巨大な袋をつかみ取った。銀色のパッケージが、夕日を受けてやたら神々しい。澄音の顔とほぼ同じサイズ。もはや武器である。


「これを飲め。」


 ドン、と手渡された瞬間、澄音の腕が沈む。想像以上に重かった。


「そ、そして――味を言語化、ですか?」


「そうだ。」

 先生は当然のことのようにうなずく。

「詩人なら、タンパク質が体に吸収される瞬間の“悲鳴”まで聴こえるはずだ。」


「た、タンパク質の悲鳴……!?」


 自分の声が裏返ったのがわかった。

 だが田嶋先生は真剣だ。目が本気だ。筋肉も本気だ。


「聞こえんのか?」


 澄音は一瞬で追い詰められ、視線が宙を泳いだ。


「聞こえ……るかもしれない……?」


 喉が勝手にそう答えてしまった。

 本当は「聞こえてたまるか!」と魂で叫んでいるのだが、先生の前では声にならない。


(タンパク質が悲鳴を……?

 そんなファンタジーな感性、持ってたら文芸部で英雄だよ……!)


 しかし田嶋先生は満足げに腕を組み、うむ、と頷く。


「よし。まずは飲め。詩人よ、お前の舌で世界を感じろ。」


 澄音は、人生で初めて“飲む前から文学的プレッシャーを感じるプロテイン”を手にした。


澄音は、渡されたプロテイン袋を胸の前で抱えたまま、しばし動けなかった。

 重い。物理的にも、精神的にも。


(詩にプロテイン……?

 いや、でも先生が言うなら……

 詩も筋肉も、壊して、積んで、震えて……

 なんか……ちょっと似てる……?)


 自分でも何を言っているのかわからない。だが、田嶋先生の言葉が体のどこかに残響している。

 壊す。休ませる。積み直す。

 推敲も、筋肥大も、循環する作業――その奇妙な共通点が、澄音の胸をざわつかせていた。


 手に持った袋が、先ほどよりさらに重く感じられる。

 “文学部員としての自分”が右腕を引っ張り、

 “筋トレをする自分”が左腕を引っ張り、

 両側から引き裂かれそうな、綱引きのような感覚。


(ぼく……いったいどこへ向かってるんだ……?)


 嘆きとも困惑ともつかないため息が、胸の奥でくすぶる。

 しかし、その混乱の底に――

 かすかな、小さな火種のような光が灯っているのを、澄音は確かに感じていた。


(……でも、ちょっとだけ……面白い、かも……)


 その微かな熱に、澄音自身が一番驚いていた。



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