表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『筋肉の詩(うた)を、君に。』 ――笑われる勇気を、青春と呼ぶなら。  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/40

大会1週間前、文芸部室のざわつく静けさ

放課後の文芸部室には、夕日の色が静かに沈殿していた。窓から差し込むオレンジが机の端をやわらかく照らし、その上に積まれた古びた文芸誌の背表紙を、一冊ずつ丁寧になでていく。


 机の上の紙が、扇風機の風に合わせて「ぱら、ぱら」と揺れた。

 この音だけで、文芸部の時間が過ぎていく。


 キーボードのカタカタという微細な衝撃。

 ペン先が走るカリカリという、頼りないが確かな振動。

 それらが部室の四隅に境界線を引き、空気を薄く切り分けていた。


 部員たちは誰も喋らなかった。

 しかし静けさは、決して平穏というわけではない。


 部屋全体は夕暮れのように落ち着いているのに、その中心には妙な“揺れ”がある。

 まるで風もないのに、部室の空気だけがじわりと波立っているかのようだ。


 原因はただ一つ——澄音である。


 彼の緊張が、部室という水面にふと落ちた小石のように、小さな震えを四方へ送り出していた。

 緊張している本人は、いつものようにノートと睨み合っているつもりなのだが、その“異常な気配”は、扇風機の羽根よりも正確に空気を乱していく。


 ざわつく静寂。

 漂う焦燥。

 誰も口にはしないが、すべての部員がどこかでそれを感じていた。


 今日の文芸部室には、夕方とは思えないほどの、不可思議なざわめきが満ちていたのである。



澄音は、文芸部室の片隅でノートを開きながら、一文字も書けずにいた。


 文芸祭の締め切りまで、あと三日。

 さらに、誰にも言えない“裏の顔”――ボディービル新人大会まで、あと一週間。


 この二つの時限爆弾を胸に抱えた高校生は、いまや完全に挙動不審である。


 ペン先はノートの端をカツカツと叩き続けている。

 まるで筋トレのインターバルを刻むメトロノームのように、規則正しく、しかし無意味に。


(詩も筋肉も、締め切りが迫っている……

 これは二重の追い込みというやつではないか?)


(いや待て、そもそも二つの追い込みは相性が悪いのでは?

 筋肉痛が筆のキレを鈍らせ、精神の迷走がフォームを乱す……?

 はたしてこの世に、文芸とボディービルの両立など可能なのか?)


 そんなわけのわからない理屈ばかりが、頭の中で勝手に筋肥大を始めていた。


 ページは白紙のまま。

 代わりに、澄音の額にだけ文字通りの“汗のインク”がにじんでいく。


 そんな様子を、鋭い目つきの編集長・津雲がじっと横目で観察していた。

 文芸部の誰よりも冷静で、指摘の切れ味がやたら鋭い女子である。


「……澄音くん。ページをにらんでるだけの時間が長いけど、大丈夫?」


「だっ、大丈夫! あの、ちょっと……精神のプロテインが足りなくて」


 口から出た瞬間、澄音自身も“しまった”と思った。


 津雲は軽く眉を寄せる。


「なにそれ怖い」


 その一言が、まるでベンチプレスのバーが突然90kg増えたかのように、澄音の胸にのしかかった。



 澄音は、ようやくひねり出した数行の詩を見返した。


 だが——どれも微妙に歪んでいる。


 比喩が変に盛れすぎているのか、言葉の並びがぎこちない。

 まるで昨日のスクワットの筋肉痛で階段を降りるときのように、“どこか変な力”が入っているのだ。


(……言葉が重い。

 ひょっとして、比喩がパンプアップしすぎて、逆に動きにくくなっているのでは?)


 詩を書いているはずなのに、感覚は完全にトレーニング後。


 ノートの上の黒インクが、じわじわと重量物に変わっていく。

 よく見ると、ひらがなの一文字一文字が小型ダンベルのように見えはじめ——


(あれ? “あ”ってこんなに重かったっけ?)


 さらに、行間を見つめると、そこに横たわる一本の長い影が、どうにもデッドリフトのバーにそっくりである。


(だめだ……これはもう完全に、心がスクワットしてる……)


 澄音はペンを置き、そっと目を閉じた。


 文章を書いているだけなのに、前腿が張るような感覚がするのは、いったい何の呪いなのか。

言葉が重く見え、行間がバーベルに見えはじめた頃だった。


 澄音の口から、反射的にひとつの迷言がこぼれ落ちた。


「……心がスクワットしてるみたいだ……」


 自分でも意味不明だと分かっている。

 だが、言ってしまったものはもう戻らない。

 よりによって、文芸部室の静寂の中に落としたのがまずかった。


 隣の席で、感受性がやたらと豊かな後輩・雪白がびくっと振り向く。


「えっ……心って……スクワットするんですか?」


「ち、違う! いや、ごめん違うんだ……」

 澄音は慌てて手を振る。


「その……なんか沈んで、また持ち上がって……膝を曲げて……いや膝は曲がらないか? ていうか心に膝はないし……いやそもそも何の話だこれは……」


 自分で自分の比喩を混乱させながら、さらなる迷言の泥沼へ沈んでいく。


 すると、部室の後方から鋭い声が飛ぶ。


「澄音くん、今日は変な比喩ばかり量産してるよ」


 編集長・津雲である。

 その視線は、まるで校正段階で見つけた致命的誤植を睨むときのものだ。


「ひっ……す、すみません……」


 澄音は真っ赤になって俯いた。

 ペン先が震える。心も震える。ついでに太ももまで震えている気がする。


(だめだ……今日はもう比喩のフォームが壊れている……)



夕日がさらに赤みを増し、部室の空気をゆっくりと銅色に染めていく。

 ノートの上に落ちる影さえ、どこか熱を帯びて見えた。


 澄音はペンを置き、そっとノートを閉じた。

 その動作は敗北のようでもあり、仕切り直しのようでもあった。


(やばい……詩も、筋トレも……どっちも進んでない……)


 胸の奥で、不安がじわりと汗のように広がっていく。

 文芸部室の扇風機が風を送ってくれるが、焦燥はまったく乾かない。


 そのとき、机の上のスマホが突然ブルッと震えた。


 画面には、トレーナー・坂井からの容赦ないメッセージ。


『今日の仕上がり確認、忘れんなよ。

 あと一週間だぞ、澄音』


「…………」


 澄音はノートとスマホを交互に見つめた。

 どちらも重く、どちらも迫ってくる。

 まるで二つの山を同時に登れと言われているようだ。


 深く、深くため息をつく。


(……むりだ。いや、むりじゃないのか? でも……)


 答えはまだわからない。

 ただ、胸の中の混乱だけが増えていく。


 ――澄音はまだ知らない。


 文学と筋肉の世界が、

 この一週間で音もなく地続きになっていくことを。


 そして、文芸部全員を巻き込む前代未聞の大騒動が、

 すでに静かに幕を開けつつあることを。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ