大会1週間前、文芸部室のざわつく静けさ
放課後の文芸部室には、夕日の色が静かに沈殿していた。窓から差し込むオレンジが机の端をやわらかく照らし、その上に積まれた古びた文芸誌の背表紙を、一冊ずつ丁寧になでていく。
机の上の紙が、扇風機の風に合わせて「ぱら、ぱら」と揺れた。
この音だけで、文芸部の時間が過ぎていく。
キーボードのカタカタという微細な衝撃。
ペン先が走るカリカリという、頼りないが確かな振動。
それらが部室の四隅に境界線を引き、空気を薄く切り分けていた。
部員たちは誰も喋らなかった。
しかし静けさは、決して平穏というわけではない。
部屋全体は夕暮れのように落ち着いているのに、その中心には妙な“揺れ”がある。
まるで風もないのに、部室の空気だけがじわりと波立っているかのようだ。
原因はただ一つ——澄音である。
彼の緊張が、部室という水面にふと落ちた小石のように、小さな震えを四方へ送り出していた。
緊張している本人は、いつものようにノートと睨み合っているつもりなのだが、その“異常な気配”は、扇風機の羽根よりも正確に空気を乱していく。
ざわつく静寂。
漂う焦燥。
誰も口にはしないが、すべての部員がどこかでそれを感じていた。
今日の文芸部室には、夕方とは思えないほどの、不可思議なざわめきが満ちていたのである。
澄音は、文芸部室の片隅でノートを開きながら、一文字も書けずにいた。
文芸祭の締め切りまで、あと三日。
さらに、誰にも言えない“裏の顔”――ボディービル新人大会まで、あと一週間。
この二つの時限爆弾を胸に抱えた高校生は、いまや完全に挙動不審である。
ペン先はノートの端をカツカツと叩き続けている。
まるで筋トレのインターバルを刻むメトロノームのように、規則正しく、しかし無意味に。
(詩も筋肉も、締め切りが迫っている……
これは二重の追い込みというやつではないか?)
(いや待て、そもそも二つの追い込みは相性が悪いのでは?
筋肉痛が筆のキレを鈍らせ、精神の迷走がフォームを乱す……?
はたしてこの世に、文芸とボディービルの両立など可能なのか?)
そんなわけのわからない理屈ばかりが、頭の中で勝手に筋肥大を始めていた。
ページは白紙のまま。
代わりに、澄音の額にだけ文字通りの“汗のインク”がにじんでいく。
そんな様子を、鋭い目つきの編集長・津雲がじっと横目で観察していた。
文芸部の誰よりも冷静で、指摘の切れ味がやたら鋭い女子である。
「……澄音くん。ページをにらんでるだけの時間が長いけど、大丈夫?」
「だっ、大丈夫! あの、ちょっと……精神のプロテインが足りなくて」
口から出た瞬間、澄音自身も“しまった”と思った。
津雲は軽く眉を寄せる。
「なにそれ怖い」
その一言が、まるでベンチプレスのバーが突然90kg増えたかのように、澄音の胸にのしかかった。
澄音は、ようやくひねり出した数行の詩を見返した。
だが——どれも微妙に歪んでいる。
比喩が変に盛れすぎているのか、言葉の並びがぎこちない。
まるで昨日のスクワットの筋肉痛で階段を降りるときのように、“どこか変な力”が入っているのだ。
(……言葉が重い。
ひょっとして、比喩がパンプアップしすぎて、逆に動きにくくなっているのでは?)
詩を書いているはずなのに、感覚は完全にトレーニング後。
ノートの上の黒インクが、じわじわと重量物に変わっていく。
よく見ると、ひらがなの一文字一文字が小型ダンベルのように見えはじめ——
(あれ? “あ”ってこんなに重かったっけ?)
さらに、行間を見つめると、そこに横たわる一本の長い影が、どうにもデッドリフトのバーにそっくりである。
(だめだ……これはもう完全に、心がスクワットしてる……)
澄音はペンを置き、そっと目を閉じた。
文章を書いているだけなのに、前腿が張るような感覚がするのは、いったい何の呪いなのか。
言葉が重く見え、行間がバーベルに見えはじめた頃だった。
澄音の口から、反射的にひとつの迷言がこぼれ落ちた。
「……心がスクワットしてるみたいだ……」
自分でも意味不明だと分かっている。
だが、言ってしまったものはもう戻らない。
よりによって、文芸部室の静寂の中に落としたのがまずかった。
隣の席で、感受性がやたらと豊かな後輩・雪白がびくっと振り向く。
「えっ……心って……スクワットするんですか?」
「ち、違う! いや、ごめん違うんだ……」
澄音は慌てて手を振る。
「その……なんか沈んで、また持ち上がって……膝を曲げて……いや膝は曲がらないか? ていうか心に膝はないし……いやそもそも何の話だこれは……」
自分で自分の比喩を混乱させながら、さらなる迷言の泥沼へ沈んでいく。
すると、部室の後方から鋭い声が飛ぶ。
「澄音くん、今日は変な比喩ばかり量産してるよ」
編集長・津雲である。
その視線は、まるで校正段階で見つけた致命的誤植を睨むときのものだ。
「ひっ……す、すみません……」
澄音は真っ赤になって俯いた。
ペン先が震える。心も震える。ついでに太ももまで震えている気がする。
(だめだ……今日はもう比喩のフォームが壊れている……)
夕日がさらに赤みを増し、部室の空気をゆっくりと銅色に染めていく。
ノートの上に落ちる影さえ、どこか熱を帯びて見えた。
澄音はペンを置き、そっとノートを閉じた。
その動作は敗北のようでもあり、仕切り直しのようでもあった。
(やばい……詩も、筋トレも……どっちも進んでない……)
胸の奥で、不安がじわりと汗のように広がっていく。
文芸部室の扇風機が風を送ってくれるが、焦燥はまったく乾かない。
そのとき、机の上のスマホが突然ブルッと震えた。
画面には、トレーナー・坂井からの容赦ないメッセージ。
『今日の仕上がり確認、忘れんなよ。
あと一週間だぞ、澄音』
「…………」
澄音はノートとスマホを交互に見つめた。
どちらも重く、どちらも迫ってくる。
まるで二つの山を同時に登れと言われているようだ。
深く、深くため息をつく。
(……むりだ。いや、むりじゃないのか? でも……)
答えはまだわからない。
ただ、胸の中の混乱だけが増えていく。
――澄音はまだ知らない。
文学と筋肉の世界が、
この一週間で音もなく地続きになっていくことを。
そして、文芸部全員を巻き込む前代未聞の大騒動が、
すでに静かに幕を開けつつあることを。




