町の坂道 ―「フォームの覚醒」
放課後の帰り道。住宅街へと続く、あの緩やかな坂に差しかかったときだった。
アスファルトは夕陽をたっぷり吸い込み、金色に滲む光をその表面いっぱいに広げていた。まるで道そのものが、ゆっくりと燃える帯になって流れているようだった。澄音はその真ん中を歩きながら、足元がほんのり温かいのを感じた。
セミの声は遠ざかり、風が一本の道をすうっと撫でていく。
日中の熱を奪いながら、それでも夏の匂いをどこかに残した風だった。
――そこで、ふいに足が止まった。
どうして立ち止まったのか、自分でもわからない。
ただ、背中を押されるようでもあり、逆に引き留められるようでもある、不思議な“向き”の風が吹いたのだ。
澄音はゆっくりと息を吸い込んだ。
さっき通り過ぎた学校の廊下や部室のざわめきはすでに遠く、夕焼けのなかに沈んでいく。
風がもう一度吹き込み、髪をそっと後ろへ撫でつける。
その瞬間、背筋が自然と伸びた。
――まるで「姿勢を整えよ」と言われた気がした。
澄音は自分でも気づかない表情のまま、金色の坂を見つめた。
その光は、行き先ではなく“今の自分”を照らしているように思えた。
風がふっと吹き抜けた。
髪が軽く浮いて、ついでのように背へ押し返される。
その一連の動きに引っ張られるように、澄音の背筋は自然と伸びた。
無意識のはずなのに、どこか“合図”に反応したみたいな動きだった。
胸の奥で、なにかが小さく鳴る。
――風が髪を押し戻すたび、私は少しだけ強くなった気がした。
それは筋肉の錯覚か、心の確信か。
その言葉が、考えるより先に浮かんだ。
昨日の屋上で抱えた羞恥と決意。
今日の部室で感じた、笑われても折れない自分の小さな芯。
そして坂井の、あの真っ直ぐすぎる言葉。
それらが身体の奥で、静かに重なり合う。
筋肉でも、精神論でもなく、ただ“姿勢”として表に滲み出るように。
澄音は気づかないまま、呼吸がいつもより深くなっていた。
澄音は家への帰り道、ふと立ち止まって前方を見上げた。
夕方の光を受けて橙に染まる坂道が、まるで彼女を試すかのように静かにそびえている。
ただの通学路なのに、その傾斜は――弱さと向き合うための小さな“試練”に見えた。
胸の奥が、ふっと熱くなる。
「……よし」
誰もいないのを横目で確認すると、澄音は自分でも気づかないまま足を開き、膝を軽く曲げた。
姿勢を整える動作はあまりに自然で――自分の身体ではないみたいだ。
背はまっすぐ、膝の向きもブレず、足幅は昨日より圧倒的に正確だった。
澄音(心の声)
「私……こんなにちゃんと身についてたっけ?」
わずかに目を見開く。
意識して覚えたはずのフォームが、もう“思い出す”必要のないものとして、身体のどこかに定着している。
坂井の声、部室の空気、昨日の自分の呼吸――
それらが小さな線となって身体の奥で繋がり、ひとつの形になったようだった。
澄音は静かに背筋を伸ばし直し、坂の上を見据えた。
まるで、これから自分が歩く道を確かめるかのように。
澄音はそっと息を吸い込み、夕陽の光を正面から受け止めた。
オレンジ色の光が頬を温める。まるで「いけるよ」と背中を押してくれるようだった。
彼女はゆっくりと腰を落としていく。
太ももに、電気が走るような鋭い痛み――
だが、その痛みはどこか真っ直ぐで、迷いがなかった。
昨日感じた、あの重くて濁ったような痛みとは明らかに違う。
今日の痛みには“軸”がある。
身体が、自分に教えてくれる。
──今のフォームは正しい、と。
筋肉の線が一本に結ばれたような感覚に、澄音は目を細めた。
そのまま静かに息を吐く。
そして、ふと口から言葉がこぼれた。
「……あ。気持ちいい。」
その言葉が自分の声だと気づいた瞬間、澄音はわずかに目を見開いた。
思わず言ってしまった、という驚きがまず来る。
けれど、胸の奥に広がったのは羞恥ではなく、ぽっと灯るような温かさだった。
一度だけの挑戦。
けれど、その一回が、自分のなかで確かな何かを押し広げていく。
夕陽の下、澄音はそっと立ち上がった。
太ももはまだ痛い。
それでも、どこか誇らしかった。
スクワットを終え、澄音がそっと呼吸を整えたその瞬間だった。
坂の下から、ふわりと風が吹き上がってきた。
汗ばんだ頬を撫で、肩の力を静かにほどいていくような風。
昨日、屋上で感じた風とよく似ている。
けれど今日のそれは少しだけ軽やかで、どこか前へ押してくれる気配を帯びていた。
澄音は目を細める。
風って、不思議だ。
形がないくせに、こんなにも輪郭を持って心に触れてくる。
「風って、変わるたびに……
私の姿勢もどこか変えていく気がする。」
胸の奥に柔らかな声が響く。
自分でも驚くほど自然に出てきた心の言葉だった。
澄音はゆっくりと足を前に出す。
その一歩は、いつもよりほんの少しだけ真っ直ぐだ。
膝の向き、足裏の接地、背筋の角度――
どれも昨日よりわずかに整っている。
だが本人は、それにまだ気づいていない。
夕陽の坂道を、風がまたひとつ撫でていく。
まるで「リセットじゃないよ。前に進んでるよ」と告げるように。




