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『筋肉の詩(うた)を、君に。』 ――笑われる勇気を、青春と呼ぶなら。  作者: 南蛇井


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文芸部 ―「笑いと羞恥のリズム」

 放課後の文芸部室には、古びた扇風機の羽がゆっくりと回る、あの独特の音が満ちていた。

 ぶうん、ぶうん、と、どこか頼りない回転。

 その風を受けて、棚の上に積まれた文芸誌が、気まぐれな猫のようにページをぱらり――ぱらりとめくる。


 まるで、澄音の胸の内でくすぶり続ける“ざわつき”を代弁しているかのような、不規則なリズムだった。


 澄音は鞄を机に置いたまま、しばらく動けなかった。

 坂井の言葉がまだ胸のどこかに刺さったままで、完全に抜けてくれない。

 思い返すつもりはないのに、思考の端で、勝手に再生され続ける。


(落ち着こう。いつもの部室なんだから)


 そう自分に言い聞かせて椅子に腰を下ろす。

 だが、落ち着くはずの空間なのに、今日はやけに“自分の身体”がうるさかった。


 階段を下りるたびに意識してしまった太ももの筋肉。

 姿勢を正そうとすると、ぎこちなく伸びる背筋。

 歩き方ひとつにしても、誰かに見られているような気がしてならない。


(なんなの、これ……)


 自分の身体が、まるでサイズの合っていない服みたいに感じられて、妙に落ち着かない。

 扇風機の風がふいに強まり、文芸誌がぱらぱらっと大きく鳴った。


 その音に、澄音の心臓もひとつ、跳ねた。


 ただの放課後のはずなのに。

 ただの部室のはずなのに。


 今日の空気は、どこか“いつもと違う”――澄音はそう感じずにはいられなかった。



扇風機の前で、杏が器用に髪をまとめていた。

 風にあおられた栗色の髪がふわりと揺れ、一本に束ねられていく。

 その途中、まるで何気ない雑談のように、しかし確実に澄音を狙い撃つ声が飛んできた。


「で? 今日のスクワットは何回やったの、詩人さん?」


 澄音は一瞬だけ返答をためらう。

 机にバッグを置くふりをしながら、できれば聞かなかったことにしたい。

 だが、逃げ場など最初から用意されていない。


「……三回。」


 言ったそばから後悔した。

 杏は振り返る。

 まだ髪をまとめきっていないのに、表情だけが全力で澄音に向く。


「変わらないの!? 成長とは!? 意志とは!? 人間とは!?」


 秒で、全身全霊のツッコミが飛んだ。


「そこまで言う!? 人間までは言う!?」

 澄音の声は思わず裏返った。


 杏はくすくす笑いながらシュシュを結び終え、椅子に腰を下ろす。

 澄音はその様子を見て――なぜだか、ふっと口元がゆるんだ。


 胸の奥にひっそりと広がる恥ずかしさ。

 だけど、それは昨日までのような“刺す痛み”ではなかった。


 むしろ、少しだけあたたかい。

 まるで、くしゃくしゃに丸められた紙をそっと広げられるような、そんな優しさがこっそり混ざっている。


(……笑われても、こんな感じなら悪くないかも)


 澄音は、その変化に自分で気づかないまま、そっと息をついた。


杏が笑いながら机に向かうと、澄音の胸の内に、ぽつりと小さな声が生まれた。


(ほんとうに三回なんだから仕方ない……。

 でも、杏に笑われてもそんなにつらくないのは……なぜだろう。)


 昔の自分なら、きっと今ごろ視線を落として、ページの陰に隠れていた。

 “笑われる”と、“否定された”と同義だった。

 心のどこかがきゅっと縮こまり、背中を丸めてやり過ごしていた。


 なのに――今日はちがう。


 笑われた瞬間、胸の奥にほんのりとした熱が灯った。

 怒りではない。悔しさでもない。

 もっと小さくて、もっと柔らかい火種のようなもの。


 太ももの筋肉痛が、ちくりと存在を主張する。

 その痛みが、今日の自分をほんの少し誇らしくしてくれる。

 たった三回でも、昨日よりも痛む場所がある。

 それが“前に進んだ証拠”だと言わんばかりに。


「三回って、もはや儀式じゃん。準備運動にもならないよ?」


 杏の追撃が飛んできた。

 その言い方があまりに軽すぎて、澄音は思わず反射で返す。


「……儀式でいいの。私にとっては大事なの。」


 言った瞬間、自分でも驚いた。

 こんなふうに反論するなんて。


 頬がじわっと熱くなる。

 胸の奥の“熱”が、かすかに形を持ちはじめている気がした。


(……何これ。私、変わってる?)


 扇風機がページをぱらぱらと鳴らす。

 その不規則な音が、澄音の中でゆっくりと広がる変化のリズムを刻んでいた。


杏は机に肘をつきながら、まだなにか言おうとして口を開きかけ――

 ふいに動きを止めた。


 扇風機の風が部室の空気をゆるく押し流し、澄音の髪をそっと揺らす。

 その横顔を眺めて、杏はほんの一瞬だけ目を細めた。


(……なんか、この子、ほんとにちょっと変わったな。)


 いつもなら照れてうつむくくせに、今日は言い返してきた。

 三回しかやってないくせに、胸の奥で何か火を灯しているような表情をしている。

 その小さな違いが、杏には妙に嬉しかった。


 そして、わざとそっけない声で――しかしどこか柔らかな温度で言う。


「……まあ、続けてるだけ偉いよ。

 私だったら一回で挫折してる。」


 その言葉は、扇風機の風よりも静かに澄音の胸へ届いた。


「……え?」


 澄音は思わず目を見開いた。


 からかいの渦中に突然差し込む、やわらかい肯定のリズム。

 それを受け取った瞬間、胸の奥の緊張がふっとほどけていく。

 さっきまで筋肉痛に引っ張られていた背筋が、気づかぬうちにわずかに伸びた。


(……うれしい、なんて。思うわけ、ないのに。)


 扇風機がまたページをぱら、と鳴らす。

 まるでその一言の余韻を、静かにめくっていくかのように。

扇風機が、古びたプロペラをぎこちなく回し続けていた。

 その風が文芸誌のページを軽くめくり、紙の匂いを部室の隅々へ散らしていく。


 夕方の光が窓から斜めに差し込み、机の角や本の背表紙をやわらかく照らした。

 静かだけれど、どこかざわついた空気――

 ここは澄音にとって、逃げ込んでも咎められない場所。

 けれど同時に、自分の弱さがいちばんよく見えてしまう場所でもあった。


(……不思議。今日は、それがそこまで怖くない。)


 太ももの筋肉痛がまだずきりと主張する。

 さっきまで杏に散々いじられた羞恥も、胸の奥で少し熱を残している。

 でも、そのぜんぶを含んだ自分を、この空間は拒まない。


 むしろ――照らしてくれる。


 澄音はゆっくりと息を吸い、机の影を見つめながら思う。


「……笑われる自分も、悪くない。」


 声にならないほど小さな、胸の奥のつぶやき。


「むしろ……笑われるたびに、何かが強くなる気がする。」


 扇風機の風がふたたびページをぱらりと揺らす。

 その一瞬の音が、まるで澄音の言葉なき決意に小さくうなずいたようだった。



「はいっ、今日の目標は五回!」

杏が勢いよく机を叩く。

乾いた音が部室に跳ね、夕方の光の中で弾むように広がった。

「伸びしろしかない! 詩人さんの未来は明るい!」


「……無茶言わないでよ。」

澄音は肩をすくめるつもりが、つい口元がゆるむ。

笑ってしまった――自分でも気づかないほど自然に。


 恥ずかしい。

 けれど、ちょっとだけ誇らしい。


 その相反する感情が胸の奥で混ざり合い、

 どん、と軽いリズムを刻んだ。

 鼓動とも違う、笑いとも違う、

 “変わり始めた自分”のテンポ。


 ぱら、ぱら──。

 扇風機の風を受けて、古い文芸誌のページがめくれる。

 まるで、ふたりの会話にそっと伴奏をつけるように。


 澄音の胸の中にも、同じテンポが流れていた。

 照れくさくて、でも心地よい、

 今日だけの、静かで確かなリズムだった。



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