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『筋肉の詩(うた)を、君に。』 ――笑われる勇気を、青春と呼ぶなら。  作者: 南蛇井


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坂井との再会 ―「心の筋トレ」

夏の午後は、校舎の中まで容赦なく光を押し込んでくる。

放課後前のゆるんだ時間、澄音は階段をひと段ずつ慎重に降りていた。


踊り場では、窓から射し込む光が白く広がり、その中を埃がふわりと舞っている。

金粉のようにきらめいて、まるでこの場所だけ時間の密度が違うようだった。


――問題は、そんな幻想的な光景ではない。

自分の歩き方だ。


左へ、ほんの少しふらり。

右へ、ほんの少しふらり。

階段を降りるたびに、微妙な揺れが生じる。


「昨日のスクワット……三回ごときで、どうしてこんなに……」


太ももがじんじんと痛む。

三回でこの筋肉痛という事実がすでに恥ずかしいが、

それ以上に、このぎこちない歩き方を、誰かに見られることが恐ろしい。


――頼むから、今だけは誰にも会いませんように。


そう祈りながら、澄音は階段の影をそっと選んで歩いた。

金色の埃がふわりと揺れ、その向こうで彼女の影が細く震えていた。

踊り場の空気が、ふっと動いた。


階下から、軽い足音が近づいてくる。

体育会系の力強さでもなく、文化部の気まぐれな歩きでもない――

妙に“整っている” rhythm を刻む足音。


澄音の背筋に、いやな予感が走る。


――来た。最悪のタイミングで来た。


足音の主は階段を曲がり、光の中へすっと姿を現した。


坂井だった。


逆光のせいで顔が半分白く縁取られ、

そのまま物語の「気になる男」ポジションに収まっても違和感がない。

本人はまったくそんなつもりはないのだろうが、歩調からして無駄に安定感がある。


澄音はとっさに姿勢を整えようとするが、

筋肉痛の太ももが裏切って、歩幅がまた変な角度にぶれた。


坂井の視線が、ふと彼女の足取りに落ちる。

表情はほとんど動かない。

けれど――目尻だけが、わずかに笑っていた。


気づいている。

完全に、気づいている。


逃げ道は、もうどこにもなかった。

坂井は、澄音の前で立ち止まった。

特別な空気をまとっているわけでもなく、

ただ「今ここに来たから立ち止まった」だけ、という自然さ。


なのに――胸の鼓動は勝手に早くなる。


坂井

「この前さ、澄音って……言葉にこだわるだろ?」


いきなり核心を突かれ、澄音の呼吸がひゅっと詰まった。


どうしてそんなところを、

どうしてそんな簡単に、

何の準備もなく言えるのか。


坂井は、続けた。


坂井

「詩ってのはさ、心の筋トレみたいなもんだろ?」


その言葉は、さらりと落ちた。


柔らかいのに、無駄なく芯が通っている。

誰かに刺そうとして放った矢じゃなく、

“ふと思ったから口にしただけ”という無防備な直球。


だからこそ、澄音の胸にまっすぐ届いてしまう。


澄音(心の声)

――やめて。

そんな真っすぐな比喩で来ないで。

だって……反論できないじゃない。


強い光の中、埃が金色に揺れている。

その中で、澄音の頬だけがじわりと熱を帯びていた。




澄音の中で、心の声が波のように打ち寄せた。


――やめて。そんな直球で来ないで。

――その比喩、ちょっと……好きじゃないわけじゃない。

――だから困るんだってば。反論できないじゃない。


胸の奥がじくじくして、

それが喉のあたりまでせり上がってくる。


次の瞬間、顔が熱を帯びた。

頬から耳の裏、首すじまで、

一気に火が走ったように熱くなる。


ただでさえぎこちなかった歩き方が、さらに不自然に乱れる。


右足と左足の順序を忘れそうになる。

鞄を握る手は、意識すればするほど震える。


坂井は特に追及することなく、

「じゃ、また」と軽く言って階段を上がっていく。


その気軽さがまた、澄音の胸の奥をきゅっと締めつけた。


今の言葉を――

認めてしまいそうになる自分がいる。

それがまた新しい羞恥となって、

夏の光の中で熱を増していった。

坂井は、言うべきことだけぽんと置くと、

まるで「はい、あとは勝手に育ててね」とでも言うように、

深追いもせず、説明も付けず、

ただ軽く笑って澄音の横を通り過ぎていった。


その歩き方には飾り気がなく、

部活帰りの男子らしい爽やかさと、

気を張っていない無防備さが混ざっている。


けれど澄音の胸に残ったのは、その“軽さ”ではなかった。


――鉄の匂いのする真実。


たった数語の比喩なのに、

そこには確かな重みがあった。


「心の筋トレ」

逃げずに向き合うことそのもの。

昨日、屋上で風に吹かれながら

自分がかすかに認めかけた“変わりたい”という芽。


それが坂井の言葉によって、

また静かに、確かに、胸の奥で脈を打ち始める。


澄音は立ち止まったまま、

階段を上っていく坂井の背中を見送る。


軽やかに見えるあの背中のどこかに、

自分にはまだ持てていない“強さのフォーム”がある気がして。


気づけば手すりを握る指先に、

ぎゅっと力が入っていた。


坂井の足音が、階段の奥へ吸い込まれるように遠ざかっていく。

最後の一段を踏む音が消えたとき、

澄音は踊り場の真ん中で、まるで時間から取り残されたように立ち尽くしていた。


静けさが落ちる。

窓から差す夏の光に、舞い上がった埃がゆっくり沈んでいく。


その光の中で、澄音は自分の胸の奥をそっと確かめた。


――心のフォームが、崩れている。


さっきまで、屋上で整えたつもりだった“自分なりの姿勢”。

気丈さを装った背筋。

羞恥と誇りの境界線。

それらが、坂井の何気ないひとことで、

風に吹かれた紙の端のように、ふっと揺れた。


乱れはほんの少し。

けれど確かに形が変わった。


意外だったのは、それが不快ではなかったことだ。


むしろ――

揺さぶられた証として、胸のどこかがあたたかい。


「……やめてよ、ほんと……」


誰に向けたわけでもない小さな声が、

踊り場の光に溶けていった。

澄音は、胸の奥のざわめきを押し静めるように、そっと深呼吸した。

夏の光がまだ踊り場に満ちていて、吸い込んだ空気には熱と、かすかな鉄の匂いが混じっている気がした。


「……よし」


自分に聞こえるか聞こえないかの声で、そうつぶやく。


無意識のうちに、背筋がすっと伸びた。

誰に見せるわけでもない、ほんの数ミリの変化。

けれど、その姿勢の中に――昨日の自分にはなかった小さな芯があった。


階段へ足を向ける。

太ももがまだ微かに抗議してくるが、それでも、一歩を踏み出す。


その一歩には、昨日よりもわずかに力が宿っていた。

けれど澄音は気づかない。

ただ、階段の影の中に吸い込まれるように、静かに次の段へ足を運んでいく。


夏の光だけが、彼女の背中をそっと照らしていた。







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