屋上 ―「羞恥の風」
梅雨が明けたばかりの昼下がり、屋上の扉はゆっくりと重たい音を立てて閉まった。
澄音はその余韻を背中に受けながら、一歩、風の中へ出る。
乾いた空気が一面に満ち、フェンスの影はゆらりと揺れていた。
蒸し暑さはどこかへ消え、代わりに“夏が来る前の匂い”が薄く漂っている。
その真ん中に立った瞬間、澄音は太ももに小さく走る違和感を思い出した。
階段を上ってくる途中から気づいていた、昨日の“置き土産”。
澄音はそっと指先で太ももに触れる。
痛みというほどではない。
けれど、押せばたしかに何かが返ってくる――あれだけ苦しんだ数回のスクワットが、いまも身体の奥で息をしているかのようだった。
「……どうして私は、こんなにも真面目に……筋肉なんかに向き合っているんだろう」
誰もいない屋上で呟いたその言葉は、風に溶けてしまうほど頼りない。
自分で言っておきながら答えられない。
むしろ、答えようとするたびに、焦りと、少しの可笑しさが胸の内でぶつかりあって、澄音は眉をひそめる。
そのとき、風がふっと強く吹いた。
スカートの裾が軽く浮かび、髪が頬から押し戻される。
澄音の耳から首にかけてじわりと熱が上がっているのを、風がさらっていく。
羞恥が露わになる瞬間。
でも、同時に――ほんの少しだけ、誇らしい。
その二つが同時に胸に灯ったことに、澄音は自分でひどく戸惑ってしまった。
風のなかに立ちながら、彼女はそっと目を細めた。
まるで、羞恥と誇りの境界線が、揺れるフェンスの影みたいに曖昧になっていくのを、静かに見つめるように。
風が頬を撫でると同時に、澄音の胸のどこかがむず痒くなる。
その感覚をごまかすように、彼女は急に口を開いた。
「いや、これは……坂井さんがああ言うからで……」
自分に向けるような言い方だった。
「杏に笑われた反動で……その……べつに、私がやりたいってわけでは……ない……」
言っていても、説得力が砂みたいに指の間からこぼれていく。
並べれば並べるほど、どれも本心から遠ざかっていくのがわかる。
それでも口を動かすのは、何かを隠したいからなのだと、本人が一番よく知っていた。
その瞬間だった。
風が突然、屋上を横切った。
さっきまで穏やかだったのに、急に息を強め、髪をばさりと顔に叩きつける。
声の半分がそのまま持っていかれた。
「……っ」
言い訳を途中で断ち切られた澄音は、一瞬ぽかんとしたまま固まる。
まるで風に「それ、違うでしょ」と額をはじかれたような気さえした。
髪を押さえながら、彼女は深く息を吸う。
沈黙が静かに落ちた――風の音、フェンスの軋む金属音、遠くから微かに響く部活の掛け声。
それらが混じりあい、屋上は透明な静けさに包まれる。
その静けさの中に、ひとつだけ、澄音の胸の奥に残ったものがあった。
生のままの気持ち。
ごまかしてもごまかしても、たしかにそこにある熱。
「……私、たぶんほんとうは、変わりたいんだ」
声にした瞬間、風がまたやわらかく吹いた。
まるで、その言葉をやっと認めた彼女に、そっと触れるように。
澄音はフェンスにもたれ、そっと目を閉じた。
昨日の動きが、ありありと身体に蘇ってくる。
スクワット。
しゃがみ込むときに覚えた、“落ちていく”ようなあの恐さ。
膝がきしむ音まで聞こえそうで、どこまで下げていいのかわからなくなる不安。
そして、そこから立ち上がるときに襲ってきた、あの重たい苦しさ。
自分の体重すら支えられないことを突きつけられる、正直すぎる感覚。
けれど、不思議だった。
その苦しさがいま、胸の中で“言葉”のことと重なっていく。
「筋肉って……言葉の重さと似ているのかもしれない」
気づけば、独白は風に混じって自然とこぼれていた。
「支える力がないと、すぐに崩れてしまう」
紙の上に置く文字たち。
どれだけ飾っても、土台が弱ければすぐに折れてしまう。
空虚な言葉は、立ち上がれないスクワットみたいに、簡単にへたり込む。
昨日の痛覚が、鋭く、そして温かく胸に刺さる。
それは論理ではなく、頭で考えた比喩でもない。
“身体から届いた実感”だった。
筋トレが詩を支える――そんな奇妙なイメージが、はじめて澄音の中で芽を出す。
突飛なはずなのに、なぜか自然で、なぜかしっくり来る。
自分の言葉がこれから変わるかもしれない、そんな予感がした。
胸の奥が、ゆっくりと熱を帯びていく。
澄音はその熱を、風に晒しながら静かに受け止めた。
屋上の中央に立つと、風の抜ける音がいっそうはっきりした。
人の気配のないこの場所は、まるで心の奥を拡声器で広げてしまうみたいに、
弱さや迷いがそのまま空に響いていく。
澄音はフェンスに指をかけ、風に押される髪を払いながら思う。
ここには誰もいない。
だからこそ、心が揺れた音が全部、自分に返ってくる。
逃げ場のない静けさが、むしろ誠実さを強制してくるようだった。
ふと、胸の奥に刺さっていた“羞恥”の輪郭が明確になる。
「恥ずかしいのは……
毎日三回しかスクワットできない弱さじゃなくて、
本気になってしまった自分なんだ」
言葉にした瞬間、頬が熱くなった。
風に冷やされていくその熱は、確かに“羞恥”のものだった。
けれど、そこに微かな誇りが混じりはじめているのもわかった。
三回しかできなくても、
情けなくても、
昨日も、一昨日も、澄音は続けた。
それは立派な努力じゃないかもしれない。
笑われるほどちっぽけな、か細い挑戦かもしれない。
でも、風の中で背筋を伸ばしてみると、
その小さな痛みの積み重ねが、確かに“前へ進もうとした証”だと思えた。
羞恥と誇りの境界線が、風に揺れながらゆっくりと位置を変えていく。
澄音はそっと息を吸い込み、
その境界が動く音まで聞こえてくるような気がした。
澄音はフェンスに歩み寄り、鉄の網越しに校庭を見下ろした。
夏の前触れのような光が、グラウンドの土をやわらかく照らしている。
その景色を眺めていると、胸の奥に、まだ言葉にならない“何か”がふくらんでいくのがわかった。
意志。
と言うにはあまりにも小さく、
でも否定するには確かすぎる、微細な脈動。
澄音はそっと唇を開く。
「……今日も、三回くらいなら……やってもいい、かも」
言った瞬間、耳の先まで熱くなった。
自分で言いながら恥ずかしくて、足元の影を見つめて誤魔化す。
けれどその羞恥の下に、小さな“誇らしさ”がしっかり根を張っているのも感じた。
そのとき、風がふわりと吹き抜けた。
髪を揺らし、スカートの裾を軽く持ち上げる。
さっきまで胸に溜めていた痛みも迷いも、
ついでに澄音の小声の告白も、全部やさしく撫でていった。
それは羞恥を嘲る風ではない。
努力を讃える風でもない。
――これから始まる変化を、そっと知らせる風だった。
澄音はその風を胸いっぱいに吸い込み、
まだ熱の残る頬に手をあてながら、静かにまばたきをした。
屋上の影が揺れ、夏の匂いが近づいてくる。




