風の中のフォーム ―羞恥と誇りのあいだで、澄音は立ち上がる―
屋上のドアを押し開けた瞬間、空気が変わった。
梅雨があけたばかりの晴天は、まだ本気の夏ではない。
空の青は深くも浅くもなく、どこか“ためらい”を含んだ色をしていた。
しかし風だけは、誰よりも先に季節を決めてしまったように軽やかで、
吹き抜けるたびに、澄音の髪とスカートを迷いなくさらっていく。
コンクリートの床はすでに乾ききっていて、
フェンスの影がゆらゆらと伸びたり縮んだり、
風のリズムに合わせて静かに踊っていた。
澄音はその真ん中に立つ。
胸の奥で、何かが、ひとつ息を整えた。
上の風が一度強く吹き抜けたあと、
背後のドアがきぃと鳴り、杏が顔を出した。
「ここいたの? ……っていうかさ。」
澄音が振り返る前に、杏はにやりと口角を上げる。
「で? 今日のスクワットは何回やったの、詩人さん?」
その“詩人さん”の響きに、澄音は思わず肩をすくめる。
風が髪を揺らし、頬まで赤くする。
「……三回。」
「変わらないの!? 成長とは!? 人類の進化とは!?」
杏がフェンス越しに叫ぶと、屋上に笑い声が弾けた。
澄音は、最初こそ言い訳を探したが、
次の瞬間――自分が笑っていることに気づく。
恥ずかしさは確かに残っている。
だけどその奥に、少しだけ温かいものがある。
(……笑われても、別に壊れないんだ。)
風に混じる自分の笑い声が、
昨日よりほんの少しだけ、軽く感じられた。
夕方の坂道は、昼間の熱をまだわずかに抱えながら、
それでも風だけは新しく、生まれたばかりのように吹いていた。
澄音はゆっくりと坂の上を目指して歩く。
筋肉痛はすでに引いているはずなのに、
足取りはどこか慎重で――まるで「弱さ」と並んで歩いているかのようだ。
(坂って……まっすぐなのに、嘘がつけない。)
傾斜は、誤魔化しを許さない。
弱さを隠そうとすれば、すぐ息が乱れ、
無理をすれば、すぐ膝が告げ口をする。
まるで“自分の心の姿勢”が、そのまま足取りに現れるようだった。
風がふっと吹き抜け、澄音の髪を押し戻す。
汗が乾く感触とともに、胸の奥で何かがふっとほどける。
(風って……変わるための呼吸みたい。)
立ち止まるたび、風が体の周りを巡り、
思考の埃まで吹き払ってくれるような気がする。
彼女は、ゆっくりと深呼吸し、スクワットの姿勢をとる。
坂の途中で、一人。
背筋を伸ばし、つま先と膝の向きを調える。
フォーム――姿勢。
それは今日だけの動きではなく、
自分がどう在りたいかという“心の構え”でもあった。
澄音は膝を曲げながら、そっと目を閉じる。
坂の重力が、弱さを暴くようにのしかかる。
でも――同時に、正直さを教えてくれる。
(そうか……坂って、“向き合うための斜面”なんだ。)
風がまた吹いた。
変わっていく自分を、後押しするように。
澄音は静かに息を吐き、もう一度フォームを正す。
その姿勢は、昨日よりもわずかに強く、
そして昨日よりずっと、誠実だった。
坂道は、澄音にとってずっと“弱さの傾斜”だった。
見上げれば胸が重くなり、足を踏み出せばすぐに息が乱れる。けれど最近、その傾きが少しだけちがって見える。
逃げ出したい場所ではなく、“向き合うための角度”になりつつあるのだ。
スクワットの姿勢を整えるとき、澄音は杏に教わった言葉を思い出す。
「背筋を伸ばすのは、体のためだけじゃなくてさ。心の姿勢も一緒に持ち上がるんだよ」
――フォームは、心のかたちの写し鏡。
そう思って膝を曲げると、不思議なことに胸の奥のぐしゃっとした不安が、ゆっくり形を整え始める。
そのとき、風が吹いた。
ほんの一瞬だが、湿気を払い落とすように涼しく抜ける。“変化の呼吸”みたいだ、と澄音は感じる。
季節がひとつめくれるように、内側がふっと軽くなる。
風が吹けば、いつだって心は少しリセットされる――そんな気がしていた。
坂道も、フォームも、風も。
全部が“自分が変わっていく途中”を静かに指し示してくれている。
澄音は息を整え、もう一度ゆっくりと膝を折った。
――今日の自分は、昨日よりほんの少しだけ前にいる。
そんな確信が、足元の影をやわらかく揺らしていた。
坂の頂点で立ち止まると、澄音はゆっくりと振り返った。
眼下には、登ってきたばかりの傾斜が長く伸びている。つい昨日まで「苦手な斜面」だったはずの坂は、いまは汗に濡れた足取りのぶんだけ、なぜか優しく見えた。
真上には、梅雨明けの空。
その青さはまだ盛夏のように暴力的ではなく、どこか余白を残していて、澄音の胸の奥に溜まっていた“言葉になる前の何か”を静かに照らしていた。
呼吸を整えるたび、その“何か”はふくらんだり、しぼんだり、形の定まらないまま揺れ続ける。
けれど、たしかにそこにある。
脚が動いて、心が揺れて、風が吹いて――その全部が絡まりあって、やがて言葉になる前の“予感”だけが残った。
「……動きは、言葉になる前に訪れる。」
ふいに、胸の底でその確信が芽を打った。
詩を書くより先に、歩き出すこと。
言葉を探すより先に、呼吸を整えること。
そのシンプルな順番が、澄音にはひどく新鮮だった。
風がひとすじ、汗を撫でていく。
さっきより少しだけ軽くなった足取りで、澄音は坂を下りはじめた。
ゆっくり、でも迷いなく。
家へ向かう道は、初めて見る景色のように明るかった。
――まだ詩にはならない。
だけど、確かに始まっている。
そんな“未完成の動き”だけが、澄音の背中を押していた。




