「午後の光の中で」
放課後の校庭は、思いのほか静かだった。
夏の夕暮れの光が斜めに差し込み、グラウンドの土を金色に滑らせていく。倉庫の前に雑然と積まれた鉄の器具まで、その光を受けて鈍く輝き、まるで一日の最後の呼吸をしているかのようだった。
遠くでは、まだどこかの部の掛け声が上がり、乾いたボールの跳ねる音が風の向きに合わせて近づいたり遠ざかったりする。けれど、その響きすら、この場所の静けさをかえって際立たせる飾りにすぎない。
澄音は文芸部のバッグを肩に掛け、ゆっくりと歩いていた。
歩幅は自然と小さくなり、足元を確かめるような慎重さがある。昨日から続く、身体のどこかに残る痛み――それが今日の夕暮れの光と混ざり合って、まだ言葉にならない何かを胸に生んでいた。
その前方、倉庫の影から坂井が姿を現れた。
トレーニング着のまま、タオルを肩にかけ、汗の気配だけがまだ残っている。倉庫から戻る途中なのだろう。いつも通りの、無駄のない足取り。けれど距離はある。近すぎず、遠すぎず、互いの輪郭だけが静かに空気の中で触れ合うような間合い。
澄音は一瞬、歩みを緩めた。坂井も気づいたらしく、視線がふとこちらに向けられる。
夕陽がふたりの間に細長い光の道を作った。そこに、言葉にできない気配だけが流れていた。
夕陽が伸ばした長い影の中で、二人の距離が静かに縮まっていく。
声をかけるには近すぎず、無視するには近すぎる――そんな絶妙な間合い。
坂井がこちらに気づく。
澄音もほんのわずか顎を下げる。
二人は歩みを緩めることなく、ただ軽く会釈だけを交わした。
それだけ。
けれど、その“だけ”が、不思議な信頼のように胸に残った。
言葉を交わさなくても、たしかに何かが触れた気がした。
沈黙は空白ではなく、昨日の痛みや、倉庫の埃っぽい空気や、彼のまっすぐな目つき――そういったものを柔らかく包んで、二人の間に静かに置かれていた。
坂井の背が遠ざかる。
その向こうで、倉庫の鉄器具が夕陽に照らされ、鈍い金色を滲ませていた。
澄音は、その輝きに自然と目を奪われる。
——錆びた鉄のような彼の誠実が、
——いつか私の言葉を支えるかもしれない。
ふいに胸の奥で、そんな言葉が生まれた。
それはまだ言葉になりきれず、形の定まらない感触だったが、
それでも確かに、昨日までの自分の痛みと今日の光がひとつにつながった気がした。
鉄器具に反射した光の筋が、夕暮れの空気を切り裂くように揺れた。
その光は、詩になる前の言葉たち――
まだ名も持たない、静かな震えのように見えた。
澄音はそっと息をつき、歩き出す。
沈黙と光の余韻を胸の中に抱えたまま。
校庭近くに満ちる夕暮れの光の中で、澄音の視線はふと倉庫の方へ吸い寄せられた。
そこに並ぶ鉄器具は、夕陽に照らされて鈍く光っている。
——錆びているのに、妙に強く、美しい。
その質感が、脳裏に坂井の横顔を呼び起こした。
彼の言葉少なさ、ぶっきらぼうな態度、無駄のない動き。
どれも磨き上げた輝きというより、時間をかけて積み重ねた“誠実”の気配に近い。
錆びた鉄の色は、誤魔化しのきかない時間の証。
そのくすんだ光が、なぜか澄音には安心に映った。
夕陽は傾き、金色はやがて柔らかい橙へと変わっていく。
その光は、まだ形を持たない感情のようだった。
言葉になることを拒みながら、確かに胸の奥で脈打つもの。
——あの光は、まだ書き出されていない詩の種。
澄音はすれ違いざまに交わした、たった一度の会釈を思い返す。
ほんの一瞬の沈黙。
それは空白ではなく、言葉より静かで、言葉より正直な“理解の兆し”だった。
言葉にすると壊れそうなほど微細な感情。
しかしその沈黙の中に、澄音は確かに芽を感じていた。
信頼というには未熟で、興味というには淡すぎる。
ただ、筋肉痛の夜を経た自分の中に生まれた、小さな変化を彼は察していた気がする。
そして澄音もまた、坂井の沈黙の中にあるものを、少しだけ読める気がしていた。
夕暮れの光はやがて細くなり、鉄器具の表面だけを細い線のように照らした。
その瞬間、澄音は思った。
——この光と沈黙が、きっといつか、私の言葉になる。
そう静かに確信しながら、歩き出した。
夕陽は校庭の端で最後の光をこぼし、倉庫の鉄器具の縁を細く縁取っていた。
その金色の線は、どこか頼りない。それでも確かにそこにある。
澄音は立ち止まり、ふと振り返る。
坂井の背中は遠ざかりつつあったが、夕暮れの光に滲んで、輪郭だけがはっきり浮かんでいた。
まるで鉄器具のように、無口で、真っすぐで、飾り気がない。
——光が当たると、誠実ってこんなふうに見えるのね。
自分でも驚くほど素直な思いが胸に落ちる。
昨日の痛み。
今日の沈黙。
そして今、この光。
三つが静かに重なって、澄音の中にひとつの線となって伸びていく。
まだ言葉にはならない。
けれど、言葉になる日が来ると確信できる。
そんな“支え”が、自分の中に芽を出したのが分かった。
坂井の存在は、鉄のように無骨で、光のようにささやか。
だがその二つが合わさると、不思議と温い。
澄音(内心)
「あの人の誠実さが、私の言葉を立たせる日が——
いつかきっと来る。」
夕暮れの光が消える頃、澄音は小さく息を吸い、歩き出した。
次の章へ続く物語が、静かに始まっていることを、胸の奥で感じながら。




