翌日の文芸部 ―「詩と筋肉の交差」
放課後の文芸部室は、夕方の光をゆっくりと吸いこんでいた。
薄橙の光がページの白を淡く照らし、紙とインクの匂いが静かに満ちている。
机の上には、昨日の読書会で使ったプリントが無造作に重なり、壁には文化祭の色あせたポスターが揺れていた。
そんな穏やかな空気の中に――
ガタ、という妙にぎこちない足音が割り込む。
澄音だった。
ドアを開ける動作だけで、すでに痛みをごまかしているのが分かる。
歩くたび身体のどこかが軋むらしく、まるで自分の骨格と交渉しながら進んでいるような歩き方だった。
その不自然なリズムだけが、静かな文芸部室にくっきりと浮き上がっていた。
杏は澄音の姿を見るなり、目を細め、口元を引きつらせた。
その表情は、「突っ込んでくれと言われている」と確信した時のものだ。
「……ねぇ澄音、その歩き方何? ロボットの稼働初日みたいだけど。」
澄音は、なんとか椅子に腰を下ろそうとして――
ぎゅ、と歯を噛んで小さく呻いた。
「筋肉痛よ。」
杏の眉が一気に跳ね上がる。
「嘘でしょ!? え、なに、階段と戦って負けたとか?」
澄音は机に肘をつき、淡々とした声で答える。
「違うわ。スクワット三回で地球に負けたの。」
その瞬間――
杏は耐えきれず吹き出した。声を殺しきれず、机に額を押しつけて震える。
「ちょっ……三回って……っ、弱すぎでしょ……!」
澄音は軽く睨みつつ、どこか誇らしげに胸を張った。
敗北宣言のはずなのに、妙に堂々としていた。
杏はようやく笑いの波を落ち着かせ、深呼吸を一つ。
それでも澄音のぎこちない姿を見るたびに、口元が勝手にゆるんでしまう。
「……あんたが筋肉痛って、なんか世界観が壊れるわね。」
澄音は肩をすくめ――その動きでまた痛みが走り、眉をひそめた。
「詩を書くのと、あんまり変わらないわよ。
どっちも痛いし、誤魔化せないし。」
杏は目を瞬かせて、じわじわ笑いを浮かべる。
「なにその悟り。
……でも確かに、詩と筋肉って、案外お似合いかも。」
澄音は思わず苦笑した。
昨日なら、こういう言葉にむっとしていたはずだ。
けれど今は、笑われることがどこか心地よい。
「やめて。恥ずかしい筋肉論は書かない。」
そう言ってノートをそっと閉じようとした瞬間――
杏がすばやく覗き込もうと身を乗り出す。
「ちょっと! 何書いたの!? 詩的プロテイン論とか?」
「書いてないわよ!!」
澄音は慌ててノートを抱え込み、机から遠ざける。
その動作で腹筋が悲鳴を上げ、思わず変な声が出た。
杏はまた吹き出しながら、椅子の背にもたれかかった。
笑い声が部室に広がる。
けれど澄音の胸の奥には、その笑いに沈まない柔らかな温度があった。
――言葉が笑われるのは、悪くない。
昨日の気づきが、今日も静かに息をしていた。
澄音は、抱え込んだノートの表紙を指でそっとなぞりながら、
笑う杏を横目で見た。
胸の内側で、静かな波紋が広がる。
――昨日の痛みが、こんなふうに笑われるなんて。
ほんの少し前の自分なら、
苦労を軽く扱われるようで、むっとしただろう。
大切に守ってきた“詩的な自分”が乱される気がして。
けれど今日は違う。
筋肉痛というみっともない事実が、笑いに溶けていく。
――でも……笑われるのも、悪くない。
痛みが、ただの痛みじゃなくなる。
誰かに見られ、からかわれ、共有された瞬間、
それは“経験”という名の形に変わる。
――言葉と同じで、痛みも誰かに見られることで、
初めて形になるのかもしれない。
そう思ったとき、澄音はゆっくり息を吐いた。
胸の奥で、昨日から続く“沈黙の筋肉”が、小さく脈を打っていた。
杏はくるりと椅子を回し、背もたれ越しに澄音を見つめた。
「で、明日も行くの? その……筋肉の修行場みたいなところ。」
紙をめくる音が部室の静けさに落ちる。
澄音は一瞬だけ視線を落とし、ためらいがちな微笑みを浮かべた。
「……詩の素材は、拾えるかもしれないし。」
杏は机に額をぶつけそうな勢いで前のめりになり、
「ほら! もう半分入部してるわよ、あんた!」
と笑った。
澄音は「違う」と言おうとして口を開きかけ――
ふと、昨日、床に倒れ込んだ自分に差し伸べられた坂井の手を思い出す。
汗で湿った掌。
まっすぐで、嘘のない手。
その感触が、なぜか胸の奥にまだ残っていた。
「……えっと、その……」
言葉がうまく出ない。
詩人のはずの自分が、言葉よりも“重さ”の記憶に引っ張られている。
杏はそんな澄音の表情を見て、にやりと笑った。
「ふーん……。」
夕方の光が二人のあいだを照らす。
澄音のノートの上で、影が揺れた。
――この揺れが、次のページをめくる合図になるとは、
まだ澄音は知らない。




