帰宅後の夜 ―「痛みの余韻」
夜の静けさが、部屋の隅々まで満ちていた。
時計の針は十時を少し過ぎ、スタンドライトの淡い光が机の上を照らしている。
そこには、開きかけの文芸部ノートと、冷めきった紅茶のカップ。
窓の外では、夏の虫が絶え間なく鳴き続けていた。
澄音はベッドの上で小さく呻いた。
――筋肉というものは、どうしてこんなにも主張が激しいのだろう。
肩を上げるたびに、腕を伸ばすたびに、体のあちこちが“詩的な抗議”を始める。
彼女は息を整えながら、慎重に体を起こした。
ジャージの袖口から覗く手が、机の上のノートを掴む。
その一動作にも、体中の筋肉が軋みを上げる。
けれど――それでも。
澄音は迷いなくノートを開いた。
ページの白さが、スタンドの光を跳ね返して彼女の顔を照らす。
そのまなざしの奥には、痛みと、ほんの少しの決意が宿っていた。
「まさか、“言葉を書く”より“体が動かない”ことに苦しむ日が来るなんて。」
澄音は、ペンを握った右手をじっと見つめた。
上がらない。いや、正確には上げようとする意志の途中で、肩が容赦なく悲鳴を上げる。
ペンを持つという、これまで当たり前にこなしてきた動作が――
今夜は、まるで登山の第一歩のように重たい。
そろそろと腕を持ち上げ、震える手で紙に近づける。
ペン先が白いページをかすめた瞬間、
“鉄の感触” が脳裏に蘇った。
昼間、握りしめたバーベルの冷たい金属。
肩に乗せた重み、背中を押しつぶす圧力。
それがなぜか、今、ペン先の微かな抵抗感と重なってくる。
――言葉の世界にいたはずなのに。
――体の痛みが、やけに雄弁だ。
澄音は、痛む肩に小さく息を漏らしながら、ゆっくりと文字を走らせた。
ペンを止めるたび、部屋に沈黙が降りた。
あまりにも静かで、スタンドライトの光さえ音を立てているように思える。
けれど、その沈黙は空洞ではなかった。
じわじわと、痛みの熱が満ちていく。
肩の奥から、太ももの裏から、昼間のスクワットが呼び覚ました“現実”が、ひそやかに語りかけてくる。
「筋肉って、黙ってるくせに正直だ。
嘘をつかない。怠ければすぐに錆びる。」
思わず、澄音は微笑した。
言葉より先に、体が結論を示してくるなんて――そんな経験、今まで一度もなかった。
痛みが、詩の“素材”になる。
比喩ではなく、触れられる感情。
逃げようのない感触が、心の奥をゆっくりと満たしていく。
震える指に力を込め、澄音は文字を走らせ始めた。
一語書くたびに肩が軋む。
その度に、体の奥で何かが確かになる。
言葉ではなく、痛覚が感情を語っている。
部屋の中を満たす静けさの中で、紙の上にゆっくりと詩が形をとり始めた。
最後の一画を書き終えた瞬間、ペン先がかすかに震えた。
その震えは、澄音自身の指の震えとまるで共鳴しているようだった。
「筋肉は、沈黙の中でしか育たない感情だ。」
文字は少し歪んでいた。
けれど、その歪みには、今日一日の痛みと努力がそのまま刻まれている。
ペンをそっと置く。
肩がじんわりと熱く、背中は張りつめて、息を吸うだけで全身がぎこちなく動いた。
だが――澄音は深く、ゆっくり息を吐いた。
痛みの奥に、静けさがあり。
静けさの底に、かすかな満足がある。
拷問のようだったスクワットも、鉄の冷たさも、今はただひとつの言葉に変わって机の上に残っている。
「……筋肉痛が、詩になった。」
誰に見せるでもない小さな微笑みが、澄音の唇に浮かんだ。
澄音はノートを見つめ、ふっと息を漏らすように笑った。
「……筋肉痛が、詩になった。」
その声は小さく、灯りの下だけに届くほど静かだった。
肩はまだ重いし、太ももは悲鳴を上げ続けている。
けれど――その重さの中に、昨日の自分より少しだけ確かな“誠実”が宿っているのを、澄音ははっきりと感じていた。
ノートをそっと閉じる。
紙の重なりが、まるで息を整えるように静かに鳴った。
スタンドライトのスイッチを指先で押す。
部屋は一瞬で闇に沈み、窓の外から虫の声だけが流れ込んでくる。
暗闇の中、澄音はベッドに体を預ける。
全身が軋むたび、今日の鉄の匂いや汗の光景がゆっくりと蘇った。
胸の奥――言葉のもっと奥に、
沈黙の筋肉が、かすかに、確かに脈を打っていた。




