初トレーニング ―「3回の悟り」
午後五時すぎ。
旧体育倉庫には、夕陽が斜めに差し込んでいた。
赤く染まった光が鉄の器具に反射し、埃の粒を金色に浮かび上がらせる。
軋む音、荒い息づかい、床に落ちる汗のしずく――そのすべてが、ひどく現実的だった。
澄音は、その現実の中心に立たされていた。
ベンチプレス台の横、ストレッチ用のマットの上で、ぎこちない動きを繰り返している。
腕を回せば、どこかで金属がきしむ。
背筋を伸ばせば、埃がふわりと舞い上がる。
彼女の指先は、まだ鉛筆を握るための形をしていて、
この世界の“鉄”にどう触れたらいいのか分からない。
隣では、坂井が笑いながらダンベルを並べていた。
「力を抜け、澄音。文庫本めくるみたいな手つきになってるぞ。」
田嶋先生は、腕を組んで様子を見ている。
その背には夕陽が当たり、輪郭が光をまとっていた。
まるで、鉄と光のあいだに生まれた人のようだった。
澄音は息を吐いた。
ここには比喩が通じない。
言葉が役に立たない場所が、たしかに存在する――
そんな実感が、少しずつ胸の奥に重く沈んでいった。
「よし、じゃあまずはスクワットだな。基本中の基本。」
坂井がニヤリと笑いながら言った。
その顔には悪戯のような光が宿っている。
澄音は、目の前のバーベルラックをじっと見上げた。
鉄の棒――それはどう見ても、文学的対話よりも物理法則に忠実な存在だった。
「これ……地球の重力に屈服する競技でしょ。」
慎重な声。
まるで未知の宗教儀式を前にしている信徒のようだった。
坂井は笑いながら首を振る。
「屈服じゃない、対話だ。重力と仲良くなるんだよ。」
「……私、重力とは文学的に距離を置いてるの。」
「今日は和解の儀式だな。」
坂井の言葉に、倉庫の空気が少しだけ軽くなる。
鉄と汗の匂いの中で、ふたりの呼吸だけが微妙にずれて響いていた。
論理と行動――その境界線が、夕陽の赤に染まってぼやけていく。
バーベルを肩に担いだ瞬間、澄音の身体は思った以上に重力の現実を知った。
背骨の一本一本が、現代詩の行間のように軋む。
――一回目。
膝が、悲鳴を上げた。
自分の脚が自分の意志に従わないという事実に、驚きよりも文学的羞恥を覚える。
――二回目。
呼吸が乱れ、視界が霞む。
「酸素って、こんなに哲学的な物質だったっけ」と頭のどこかで思う。
――三回目。
鉄の重みが、言葉のように降りかかる。
けれど、言葉とは違って、逃げ場がない。
「……っ、無理。」
その瞬間、澄音の膝が折れた。
床に崩れ落ち、両手がひんやりとした鉄粉を拾う。
汗と粉じんの混じった匂いが、肺の奥に沈んでいく。
澄音は床に頬を寄せ、浅い呼吸の合間に思う。
――これは、拷問ではない。
詩的苦行だ。
彼の唇がかすかに笑ったように見えた。
それを見た坂井が、堪えきれずに爆笑した。
そして田嶋先生は、真顔のまま静かに頷いた。
「その感性を大事にしろ。」
「これは拷問ではない。詩的苦行だ。」
その言葉が、倉庫の中でひときわ澄んで響いた。
坂井は腹を抱えて笑い、床を叩きながら「最高だ」と叫ぶ。
田嶋先生は逆に、腕を組んだまま深く頷いた。
「その感性を大事にしろ。筋肉は、痛みを通してしか本気を教えない。」
汗のにおいと鉄の反射の中で、その声だけが静かに届く。
澄音は、息を切らしながらも薄く笑った。
「……詩人は、倒れながら考えるものよ。」
膝の痛みと胸の鼓動が、まるで何かを刻むようだった。
それは、理屈ではなく、ただ“続ける”という意志の鼓動。
坂井がニヤリと笑って言う。
「悟り、早ぇな。明日にはもう仙人だな。」
澄音は苦笑しながら、仰向けになって天井を見つめた。
蛍光灯の光が揺れ、天井の埃がゆっくりと降りてくる。
それがまるで、彼の新しい比喩の種のように思えた。
床に倒れ込んだまま、澄音は動けなかった。
膝が焼けるように痛い。呼吸は乱れ、喉の奥が鉄の味で満たされる。
――筋肉痛。
それは、言葉では誤魔化せない“正直な痛み”だった。
羞恥と無力の中にしか、生まれない誠実がある。
澄音はその事実を、頭ではなく身体で知る。
倒れた姿勢のまま、彼は悟る。
「……理屈で立ってたんだな、今まで。」
床の冷たさが、まるで現実そのものの体温のように伝わる。
それは、彼の内側に沈んでいた抽象の膜を破るような感触だった。
鉄の匂いが鼻を刺す。
それはもはや不快ではなく、詩のように感じられた。
――この世界にも詩はある。
ただしそれは、比喩ではなく“感触”として存在している。
澄音はうっすらと目を閉じ、心の奥で微笑む。
痛みとともに、初めて本物の静けさが訪れていた。
倉庫の隅――。
夕陽が再び、傾いた窓から差し込んでいた。
その光は、倒れたままの澄音の髪をやさしく照らし、
汗と埃の粒を金色に染め上げていく。
汗が頬を伝い落ち、床に落ちた瞬間、
それはまるで詩の原稿用紙に滲んだインクのように輝いた。
「痛みの中でしか、
言葉の芯は鍛えられないのかもしれない。」
澄音は、静かに息を吐きながらその言葉を胸の奥で反芻した。
重力と鉄の匂いの中で、初めて“詩”が身体を通して息づいている気がした。
やがて、坂井が差し伸べた手が光の中で影を作る。
「次は4回目、いけるな。」
澄音は苦笑しながら、その手を取る。
「……詩的に、検討するわ。」
笑いが、夕陽の埃の中でゆるやかに広がった。
その瞬間、錆びた鉄と午後の光が、
二人のあいだに、ほんの少しの“誠実”を残していた。




