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『筋肉の詩(うた)を、君に。』 ――笑われる勇気を、青春と呼ぶなら。  作者: 南蛇井


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「鉄の匂いの中で」

 午後の陽が傾きはじめた校舎の端。

 澄音は、坂井に導かれるまま旧体育倉庫の前に立っていた。外壁にはひびが走り、扉は押すたびに呻くような音を立てる。

 中に一歩踏み入れた瞬間、熱気と鉄の匂いが肌を叩いた。


 倉庫の奥には、錆びついたバーベルやダンベル、かつて輝いていたであろうベンチプレス台。蛍光灯はチカチカと点滅し、床の粉じんを白く照らし出している。窓の隙間から射す光が、宙に舞う埃を金色に染めていた。


 澄音は立ち止まり、喉の奥で息を整えた。

 ――空気が重い。

 詩を生むための静けさとはまるで違う、汗と時間の匂いが充満している。


「ようこそ、詩人の修羅場へ」

 坂井が嬉しそうに言った。


「……ここ、酸素が詩的じゃない」

 澄音は小さく眉を寄せた。


 坂井は笑い、棚からバーベルを持ち上げてみせる。鉄が鳴る音が、倉庫の天井で反響した。その響きは、比喩でも象徴でもない。単純で、誠実で、逃げ場のない音だった。


 澄音の胸に、言葉が通用しない場所に立っている感覚が広がる。ここでは理屈よりも、筋肉が語る。汗が証拠であり、音が詩なのだ。


「どうした、顔が死んでるぞ」

 坂井が笑いながら言う。


「この空気の中じゃ、比喩が息をしづらいの」

「じゃあ肺活量から鍛えないとな」


 軽口のようでいて、どこか本気の声だった。澄音は返す言葉を見失い、ただ周囲の光景を見渡した。


 鉄の匂い、汗の粒、夕陽の光。

 どれも現実的すぎて、詩に変換する隙がない。


 ふと、窓際のバーベルに差し込む光が目に入った。錆びた鉄の上に、淡い金色の輪郭が浮かんでいる。


 ――光が、錆びを赦してるみたい。


 言葉が漏れた。

 その瞬間、自分でもわけのわからない感情が胸に生まれた。


 この場所のすべてが、“詩にならない美しさ”でできている。

 それが、少し悔しく、そして少しだけ眩しかった。



ドアを開けた瞬間、むっとした熱気が顔を撫でた。

 鉄と汗と、少し焦げたような匂い。澄音は思わず咳き込み、一歩後ずさる。


「な、何この空気……」


 その隣で、坂井は深く息を吸い込み、満足げに笑った。

「ようこそ、詩人の修羅場へ。」


 彼の声が、錆びた鉄の響きを背負っている。


 澄音は鼻をしかめ、眉をひそめながら言った。

「……ここ、酸素が詩的じゃない。」


 坂井はケラケラと笑い、手近なバーベルを軽々と持ち上げる。鉄がぶつかる音が、倉庫の奥まで響いた。


「いいだろ、この匂い。努力の香りってやつ。」

「私には、酸化した祈りの残骸にしか思えないけど。」


 坂井は肩をすくめ、笑いながら言った。

「同じもの見てても、言葉が違うんだな。」


 澄音は答えず、視線を倉庫の隅に移した。

 錆びた鉄が積み重なり、古びた蛍光灯がチカチカと瞬いている。

 その光の中で、二人の距離が――文化の差という名の透明な空気で――はっきりと浮かび上がっていた。


 坂井にとっては、ここが祈りの場。

 澄音にとっては、詩が迷子になる異国。


 同じ倉庫に立っていながら、二人の呼吸はまるで違っていた。



背後で――ガチャン、と鉄のぶつかる音が響いた。

 それは、詩の比喩ではなかった。現実そのものの音。

 汗とオイルの匂いが空気を満たし、喉の奥に重く絡みつく。


 言葉が、出てこない。

 いや――言葉そのものが、この空間では意味を失っているのだ。


 澄音は静かに立ち尽くしながら、目の前の光景を見つめた。

 鍛錬に打ち込む部員たちの背中。

 呼吸と筋肉が、鉄のリズムと同調している。

 そこにあるのは、理屈ではなく、ただの「現象」だった。


 詩で飾る余地のない、現実の動き。

 その音が、澄音の胸の奥を鈍く打った。


 ――ここでは、比喩が息をしない。


 彼女の世界で通じていた「言葉」は、この空間では無力だった。

 まるで世界そのものが、詩よりも重い存在証明を突きつけてくる。


 澄音は、自分が“観察者”でしかいられないことを痛感した。

 そしてその無力さが、なぜか、ほんの少しだけ――美しく思えた。


「どうした、顔が死んでるぞ。」

坂井が笑いながらバーベルを肩に担ぎ上げた。動作ひとつで、空気がまた重たく揺れる。


澄音は額の汗をぬぐいながら、かすかに息を吐いた。

「……この空気の中じゃ、比喩が息をしづらい。」


坂井はきょとんとした顔でこちらを見、それから豪快に笑った。

「じゃあ肺活量から鍛えないとな。」


その笑いには、理屈の影がなかった。

ただまっすぐで、無邪気で、誠実な温度だけがあった。


澄音は言葉を失う。

坂井の軽口が、まるで酸素のように、この鉄の匂いの空間をやわらかく満たしていく。


――理屈の外側にある行動。

それが、こんなにもあたたかいものだとは、思わなかった。


澄音はそっとノートの端を指でなぞるようにして、

心のどこかで何かが少しだけ、音を立てて動き出すのを感じた。


窓の外から、傾いた夕陽が差し込んでいた。

古びた鉄の器具に反射した光が、倉庫の中で淡く揺れる。

錆びついたシャフト、ひび割れた床、汗に濡れた坂井の腕――そのすべてが金色に染まっていく。


澄音はふと、動きを止めた。

その光景が、どうしようもなく胸に触れる。


「……光が、錆びを赦してるみたい。」


口にした瞬間、自分でも驚くほど自然だった。

詩ではなく、ただの実感として出た言葉。


坂井は気づかず、黙々とバーベルを上げている。

その姿が、夕陽の中でゆっくりと息づいていた。


鉄の匂いも、埃も、光も――どれも、

“過去と努力の痕跡”として、この空間に静かに積もっていた。


澄音は思う。

錆びているのではない、残っているのだ、と。


そしてこの瞬間、

“錆びた鉄と午後の光”という言葉が、胸の奥でそっと形になった。


澄音は、倉庫の奥で鳴り響く鉄の音に耳を傾けた。

ガシャン、という衝突。ギィ、と軋む鎖。

誰かの息が、熱に混じって震える。


――それは、詩とは程遠い世界の音。


けれど、なぜだろう。

その無骨な響きの中に、何かが確かに“生きている”気がした。


澄音は、指先でノートの端を無意識に探りながら、小さくつぶやく。


「……詩を生むのは静けさだと思ってた。

 けれど今は、この鉄の音のほうがずっと“正直”に聞こえる。」


その言葉は、自分の耳にも新鮮だった。

理屈ではなく、ただ感じたままの音。


鉄の響きが、まるで胸の奥で共鳴するように広がっていく。


――詩ではなく、誠実の音。


澄音はその音を聴きながら、

まだ見ぬ“次の誰か”の登場を、無意識に予感していた。




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