杏の登場 ― 異物の侵入
ドアが「ガラッ」と音を立てて開いた。
その瞬間、部室の静寂は、脆いガラス細工のように割れた。
ペン先が、わずかに震える。
澄音は眉をひそめ、ページの上で固まった。
「ねえ澄音、聞いた?」
弾むような声。
文芸部室に似つかわしくない、陽の匂いのする声。
杏だった。
運動神経も社交性も、この部屋の空気とは別次元の存在。
文芸部という、ほぼ植物のような生命体たちの中で、彼女だけが動物的に生きている。
「坂井くん、ボディービル大会出るんだって!」
「……ボディービル?」
澄音の口から、その単語がゆっくりと滑り出た。
静寂の中に、場違いな重低音が落ちる。
それは、文芸部室の空気に対してあまりに筋肉質な響きだった。
澄音の心の中で、言葉たちがざわめく。
> 筋。
> 肉。
> 隆起。
――詩にならない。
むしろ語感が強すぎる。
これでは比喩も儚さも立ち上がらない。
どこを切り取っても、脈拍がうるさい。
「ボディービル……」
もう一度、澄音は呟く。
まるで舌の上で異国のスパイスを転がすように。
強すぎる、と思う。
詩人の舌に乗せるには、あまりにも“筋肉の味”がする。
杏は、そんな澄音の沈黙を楽しんでいるようだった。
「ね、意外じゃない? 坂井くんがああ見えて、意外とマッチョ志向なんだよ」
澄音は返事をしない。
心の中で“沈黙”という題の詩を思い出し、そして静かに敗北を認めた。
静寂の描写をしていた自分が、
まさか“筋肉”という言葉一つでこんなにも動揺するとは。
> 世界はいつも、私の詩を邪魔する。
> そして、私の詩は世界の筋肉に勝てない。
窓の外から風が吹き込み、ページが一枚めくれた。
その白い紙の上に、何かが始まる予感だけが、かすかに揺れていた。




