翌朝の文芸部室 ―「沈黙の筋肉」
朝の光が、薄いカーテンを透かして部室の床を斜めに染めていた。
その中を、細かな埃がゆっくりと漂っている。まるで、時間そのものが金色の粒になって舞っているようだった。
澄音は机の上でペンを転がしていた。
少し寝不足のせいで目の下に影がある。それでも、昨日の余韻はまだどこかに残っているようで、指先が妙に落ち着かない。
机の上には、昨日のノート。
ページの端には、「いつか、書けるかもしれない」と残された一文。
澄音はそれをぼんやりと見つめ、ペンの尻で軽く叩いた。
窓の外からは、グラウンドの掛け声とボールの弾む音。
世界は、何事もなかったかのように“日常”を再開している。
それが、少しだけ愛おしく、そして少しだけ遠く感じられた。
光は今日も、沈黙を鍛えている。
そんな言葉が、ふと胸の奥で浮かんでは消えた。
部室には、昨日の体育館の喧騒が嘘のような静けさがあった。
時計の針の音が、まるで呼吸のようにゆっくりと空間を満たしている。
澄音は、いつもの窓際の席に腰を下ろし、ノートを開いた。
ページの端に残る小さな一行――「いつか、書けるかもしれない。」
その文字を指先でなぞる。
インクのわずかな凹凸が、昨日の感情の残滓を思い出させた。
あの夕日の中で書いたときの、胸のざわめき。
けれど今は、不思議とそれがやさしく温かい。
言葉は時間が経つと、体温を変える。
昨日の戸惑いが、今日は少しだけ勇気に近い。
澄音は小さく息を吐き、窓の外に目をやった。
朝の光がグラウンドを照らし、遠くで掛け声が響く。
それを聞きながら、彼女はゆっくりとペンを取った。
扉が「ガラリ」と音を立てて開いた。
朝の光の中に、杏が飛び込んでくる。
その元気な声が、まだ眠たげな空気をやさしくかき混ぜた。
「おはよー澄音! 昨日、坂井すごかったね! まさか優勝するとは!」
澄音は顔を上げず、ペン先を見つめたまま小さく笑う。
「……そうね。ちょっと、びっくりした。」
杏は机の向かいに腰を下ろし、身を乗り出してくる。
「で、どうだったの? “青春ポーズ”の約束は?」
澄音はペンを指で転がしながら、少しだけ視線をそらした。
「……別に、ポーズなんて取ってないわよ。」
「えー、つまんない!」
杏が大げさに肩を落とす。
その声に、澄音は思わず吹き出した。
二人の笑いが、部室の静寂をやわらかくほどいていく。
窓辺の埃が、金色に舞った。
まるで笑い声に合わせて踊っているようだった。
杏は机の縁に腰をかけ、足をぶらぶらさせながら澄音を覗きこんだ。
「でもさ、昨日の光景、澄音らしくどう思った? “詩的”だった?」
澄音は少しだけ息を吸い、窓の向こうの光を見つめた。
グラウンドの方から、掛け声と笛の音が聞こえてくる。
言葉を探すように、ペンを指でくるりと回し――
「……筋肉って、案外、詩的かもね。」
杏は一瞬、ぽかんとした顔をした。
それから、腹を抱えて笑い出す。
「なにそれ! 藤原澄音、ついに開眼!? “詩的筋肉論”とか書くの?」
澄音は笑いながら、ノートの端を軽く叩いた。
「書かないわよ。……でも、たぶん、書けるようになった気はする。」
杏はまだ笑いをこらえきれず、机に突っ伏す。
澄音の頬も、いつのまにか少し赤い。
朝の光が二人のあいだにこぼれ、
その笑いを、ひとつの始まりのように照らしていた。
杏の笑い声が、まだ部室の空気の中にふわりと残っていた。
それは音というより、光の粒のように漂いながら、静けさと溶け合っていく。
澄音はその余韻の中で、ゆっくりとノートを開いた。
昨日のページをめくると、真新しい白が目に飛び込んでくる。
眩しいほどに――まるで、朝の光そのもののように。
ペンを握る指先が、かすかに震えた。
言葉はまだ見つからない。
けれど、胸の奥では確かに何かが目を覚ましている。
“沈黙が鍛えられている”――そんな感覚があった。
それは詩でも、思想でもない。
ただ、昨日の笑いと今日の静けさのあいだで、
ゆっくりと育ちつつある“何か”の鼓動だった。
言葉が笑われるのは、悪くない――と、澄音は思った。
誰かに届かなくても、形にならなくても、
笑い声の中で少しだけ強くなる言葉がある。
それは、昨日までの彼女にはなかった温度だった。
きっと、何かが生まれる。
ゆっくりと、目に見えない場所で。
約束は、筋肉のように。
使うたびに、少しずつ確かになる。




