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『筋肉の詩(うた)を、君に。』 ――笑われる勇気を、青春と呼ぶなら。  作者: 南蛇井


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18/40

帰り道 ―「小さなざわめき」

放課後の坂道は、まだ赤みを帯びていた。

 夕焼けの名残が空の端に細く残り、街灯が一つ、また一つと灯っていく。

 蝉の声はいつのまにか遠ざかり、代わりに、どこかの家の風鈴がかすかに鳴っていた。虫の音が夜の始まりを告げている。


 澄音は鞄を肩に掛け、ひとりで坂を下っていた。

 アスファルトの上を、足音が控えめに響く。昼間の喧騒がまだ肌の奥に残っていて、静けさがかえって落ち着かない。


 ふと、坂の途中で振り返る。

 遠くの校舎の向こうに、体育館の屋根が見えた。

 窓のいくつかにはまだ灯りが残っており、それが淡く滲んでいる。


 ――あそこに、まだ“今日”の余熱が残っている。


 澄音はそう思った。

 あの光の下で笑っていた誰かの姿が、まぶたの裏でふっと浮かんでは消える。

 風が髪を揺らすたび、胸の奥のざわめきが小さく波打った。



澄音は鞄の中のノートを胸に抱え、ゆっくりと歩いていた。

 足取りは穏やかなのに、胸の奥だけがざわめいている。

 息は整っているのに、心のリズムだけが追いつかない。


 街灯の光が舗道を斑に照らし、そのたびに影が伸びたり縮んだりする。

 その揺らぎに合わせるように、澄音の心も小さく波打っていた。


「……おかしいな。」


 小さく息を漏らすように呟く。

 「人の筋肉なんて、詩の題材になるわけないのに。」


 言葉のあとに、微かな笑いが滲んだ。

 けれど、その笑いにはどこか責任のような響きがあった。

 ――あの約束の光景が、まだ皮膚の下で熱を持っている。


 坂井のまっすぐな目。

 信じるという行為の“体温”が、言葉よりも深く残っていた。



 坂道の途中、電柱の下で澄音はふと足を止めた。

 オレンジ色の街灯が頭上で微かに唸り、ノートの表紙に光の輪を落とす。

 彼女はゆっくりとそれを開いた。


 白いページが、夜の始まりと溶け合う。

 風が一枚めくりかけ、澄音は指でそっと押さえた。


 ペン先が紙に触れる音が、静けさの中に小さく響く。


「筋肉とは、言葉の裏で震えるもの。」

「目に見える誠実。」

「……詩になる気がしない。」


 書いては止まり、消してはまた書く。

 その線のひとつひとつが、迷いの地図のようだった。

 思考と感情のあいだに、見えない距離がある。

 澄音はその距離を、ペンの先で測っていた。


ふと顔を上げると、坂の上の空に一番星が滲んでいた。

 夕焼けの名残をわずかに残した群青の空が、夜へと移り変わる。

 その境目の光を見つめながら、澄音は小さく息をつき、笑った。


「……それでも、書きたくなるのが、厄介ね。」


 自嘲のようでいて、どこか温かい声だった。

 胸の奥で、昼の喧騒がもう一度、微かにざわめく。


 坂井の声。笑い。あの光。

 そのすべてが、ゆっくりと言葉の断片に変わっていく。


 まだ詩にはならない。

 意味も、形も、掴めない。

 けれど――確かに何かが、心の中で生まれかけていた。


 その“生まれかけ”の気配だけが、夜風よりも確かな温度を持っていた。


 ノートの端に、澄音はそっとペン先を滑らせた。

 ためらいのあとに、生まれた文字はたった一行。


「いつか、書けるかもしれない。」


 それは詩でも祈りでもない。

 ただの“予感”――けれど、そこには不思議な温度が宿っていた。


 まるで胸の奥に、小さな灯がともるようだった。

 その灯りは、誰に見せるでもなく、ただ自分の歩く道をほのかに照らす。


 澄音はノートを閉じ、そっと鞄に戻す。

 坂を下りながら、頬を撫でる風が心地よかった。


 振り返れば、遠くの体育館の灯が、静かに消えていくところだった。

 光が完全に消えるより少し前、澄音は微笑んだ。


 ――言葉は、まだ終わっていない。



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