帰り道 ―「小さなざわめき」
放課後の坂道は、まだ赤みを帯びていた。
夕焼けの名残が空の端に細く残り、街灯が一つ、また一つと灯っていく。
蝉の声はいつのまにか遠ざかり、代わりに、どこかの家の風鈴がかすかに鳴っていた。虫の音が夜の始まりを告げている。
澄音は鞄を肩に掛け、ひとりで坂を下っていた。
アスファルトの上を、足音が控えめに響く。昼間の喧騒がまだ肌の奥に残っていて、静けさがかえって落ち着かない。
ふと、坂の途中で振り返る。
遠くの校舎の向こうに、体育館の屋根が見えた。
窓のいくつかにはまだ灯りが残っており、それが淡く滲んでいる。
――あそこに、まだ“今日”の余熱が残っている。
澄音はそう思った。
あの光の下で笑っていた誰かの姿が、まぶたの裏でふっと浮かんでは消える。
風が髪を揺らすたび、胸の奥のざわめきが小さく波打った。
澄音は鞄の中のノートを胸に抱え、ゆっくりと歩いていた。
足取りは穏やかなのに、胸の奥だけがざわめいている。
息は整っているのに、心のリズムだけが追いつかない。
街灯の光が舗道を斑に照らし、そのたびに影が伸びたり縮んだりする。
その揺らぎに合わせるように、澄音の心も小さく波打っていた。
「……おかしいな。」
小さく息を漏らすように呟く。
「人の筋肉なんて、詩の題材になるわけないのに。」
言葉のあとに、微かな笑いが滲んだ。
けれど、その笑いにはどこか責任のような響きがあった。
――あの約束の光景が、まだ皮膚の下で熱を持っている。
坂井のまっすぐな目。
信じるという行為の“体温”が、言葉よりも深く残っていた。
坂道の途中、電柱の下で澄音はふと足を止めた。
オレンジ色の街灯が頭上で微かに唸り、ノートの表紙に光の輪を落とす。
彼女はゆっくりとそれを開いた。
白いページが、夜の始まりと溶け合う。
風が一枚めくりかけ、澄音は指でそっと押さえた。
ペン先が紙に触れる音が、静けさの中に小さく響く。
「筋肉とは、言葉の裏で震えるもの。」
「目に見える誠実。」
「……詩になる気がしない。」
書いては止まり、消してはまた書く。
その線のひとつひとつが、迷いの地図のようだった。
思考と感情のあいだに、見えない距離がある。
澄音はその距離を、ペンの先で測っていた。
ふと顔を上げると、坂の上の空に一番星が滲んでいた。
夕焼けの名残をわずかに残した群青の空が、夜へと移り変わる。
その境目の光を見つめながら、澄音は小さく息をつき、笑った。
「……それでも、書きたくなるのが、厄介ね。」
自嘲のようでいて、どこか温かい声だった。
胸の奥で、昼の喧騒がもう一度、微かにざわめく。
坂井の声。笑い。あの光。
そのすべてが、ゆっくりと言葉の断片に変わっていく。
まだ詩にはならない。
意味も、形も、掴めない。
けれど――確かに何かが、心の中で生まれかけていた。
その“生まれかけ”の気配だけが、夜風よりも確かな温度を持っていた。
ノートの端に、澄音はそっとペン先を滑らせた。
ためらいのあとに、生まれた文字はたった一行。
「いつか、書けるかもしれない。」
それは詩でも祈りでもない。
ただの“予感”――けれど、そこには不思議な温度が宿っていた。
まるで胸の奥に、小さな灯がともるようだった。
その灯りは、誰に見せるでもなく、ただ自分の歩く道をほのかに照らす。
澄音はノートを閉じ、そっと鞄に戻す。
坂を下りながら、頬を撫でる風が心地よかった。
振り返れば、遠くの体育館の灯が、静かに消えていくところだった。
光が完全に消えるより少し前、澄音は微笑んだ。
――言葉は、まだ終わっていない。




