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『筋肉の詩(うた)を、君に。』 ――笑われる勇気を、青春と呼ぶなら。  作者: 南蛇井


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17/40

体育館裏 ―「言葉が行動に変わる瞬間」

 夕焼けが校舎の窓を赤く染めていた。

 体育館の裏には、細長い影がいくつも重なり、砂の上をゆっくりと伸びている。

 風が吹くたび、どこか遠くから歓声の名残が微かに漂ってきた。笑い声の破片、拍手の反響、笛の余韻――それらがこの空間の外側でまだ鳴り続けている。


 澄音はその音を背に、ひとりベンチの端に腰を下ろしていた。

 手の中にはノート。

 だが、ページは開かれたまま、何も書かれない。ペン先は白紙の上をさまよい、やがて宙に止まる。


 胸の奥では、ついさっきまでの光と喧騒がまだ暴れていた。

 照明のまぶしさ。拍手の波。坂井の笑顔。

 それらが“出来事”ではなく“音”として、心の奥に残響している。


 > さっきまでの光と喧騒が、まだ胸の奥でうるさい。

 > でも、今ここには、静けさしかない。


 静寂。

 その“静けさ”が、かえって落ち着かない。

 まるで誰かの言葉を待つために、空気そのものが息を潜めているようだった。


 澄音はペンを握り直し、ノートに視線を落とす。

 書こうとして、またやめる。

 音のない世界で、自分の心臓の音だけがやけに鮮明に響く。


 そのとき――。


 ザッ、ザッ、と砂を踏む音が近づいてきた。

 誰かがこちらへ歩いてくる。


 その足音は、ためらいを知らない。

 まるで「約束を思い出した人間」の足取りだった。


夕日の光が、校舎の壁をゆっくりと燃やしていた。

 その光の中から、ひとつの影が現れる。


 坂井だった。


 手には優勝トロフィー。

 金色の表面が、夕日の赤を受けてぎらりと光る。まるでそれ自体が“光の続き”であるかのように。


 澄音は思わず目を細めた。

 その姿は、昼の喧騒とは違う静かな確かさをまとっていた。

 光の中で、坂井の輪郭だけがやけにくっきりと見える。


 坂井は少し照れくさそうに笑っていた。

 けれど、その足取りには迷いがない。

 砂を踏みしめる音が近づき、やがて澄音のすぐ前で止まる。


 「――約束、果たしてもらうぞ。」


 穏やかに、けれどまっすぐに。

 その言葉が、夕焼けよりもまぶしく響いた。


 澄音は瞬きをして、思わず視線を逸らす。

 その理由を、夕日のせいにした。

 ――眩しすぎる光のせいで、彼の目を見られないだけ。そう思いたかった。


 「……あなた、本気だったの?」


 坂井は、いつものように笑って答える。

 「当たり前だろ。だって、藤原が言ったんだもん。」


 “だって”。

 その柔らかい響きが、澄音の胸をかすかに突いた。


 その声には、信じることを筋肉のように使い慣れた人間の強さがあった。

 努力でも理屈でもない、ただの誠実。

 それが、こんなにも静かに響くものだとは――澄音は知らなかった。


 澄音はノートを膝の上で閉じ、かすかに息を吐いた。

 「そんな、冗談を……」


 声は風にほどけるように小さかった。

 けれど坂井は、その言葉をちゃんと拾い上げる。


 「冗談ってさ、信じられないから冗談なんだろ?」

 笑いながらも、その目はまっすぐで、逃げ道を与えてくれない。

 「でも、信じた時点で本気になるんだよ。」


 夕日の光が、坂井の頬を照らしていた。

 その顔には汗の名残があり、光を吸ってわずかにきらめいている。

 それは、勝者の光ではなく、ただの“誠実の温度”だった。


 澄音は何も言えなかった。

 言葉が詩になる前に、体の奥で止まってしまう。


 ――理屈の通らない真理。

 それが目の前に立っていた。


 彼の声には、確かに体温があった。

 それは、詩の言葉では拾えない種類のぬくもり。


 私が信じなかった言葉を、彼は信じていた。

 その一点で、世界の重心が音もなくずれた気がした。

風が吹いた。

 遠くで吹奏楽部の音がはじまる。

 トランペットの音が、夕焼けの空を渡っては、風の中に細くほどけて消えていく。


 坂井はその音に耳を傾けながら、手にしたトロフィーを軽く掲げた。

 「ほら、これ。証拠。」


 澄音は思わず目を細める。

 「……まぶしい。」


 坂井は少し笑って言う。

 「だろ? でも、お前の言葉のほうがもっとまぶしかった。」


 その言葉が、ゆっくりと澄音の胸に落ちていく。

 音ではなく、光のように。


 彼の声が届いた瞬間、世界の色が変わった気がした。

 まるで、自分の放った言葉が、現実の中で形を持ち、

 光の粒になって空気の中に溶けていくようだった。


 澄音は何も言えず、ただその光景を見つめていた。

 ――沈黙の中に、確かに言葉が生きていた。



あの瞬間、澄音は気づいてしまった。

 ――笑い声の中に、誠実が潜んでいることを。


 その発見は、胸の奥をかすかに締めつけた。

 息が詰まるような、でも痛くはない感覚。

 まるで、自分の中の何かが目を覚ましたようだった。


 詩は静かに生まれるものだと、ずっと思っていた。

 紙とペンの間にしか、真実は宿らないと思っていた。


 けれど今、違うと思う。


 本当は――行動と光のあいだでしか、生まれない言葉がある。

 あのステージの熱気も、汗の匂いも、誠実に向かう笑顔も。

 それらすべてが、詩の素材だったのだ。


 澄音は静かにノートを閉じた。

 ページの間に、ほんのりと夕日の匂いが残る。


 立ち上がると、校舎の影が二人の足元でひとつに溶けていった。

 夕日の中、澄音と坂井の影は、まるでまだ何かを語り合っているように、長く、静かに重なっていた。


 夕焼けの光が、体育館の壁をゆっくりと撫でていた。

 光は赤く、柔らかく、どこか現実と夢の境界を曖昧にしていく。


 その体育館の裏――。

 澄音にとって、ここは“詩と現実の狭間”だった。

 言葉が行動に変わり、軽口が約束になる場所。

 まるで紙の上に書かれた詩が、風を受けて歩き出してしまったような感覚。


 坂井の手には、トロフィーがあった。

 金色に光るその表面は、単なる金属の輝きではなかった。

 それは、“信じた結果”の物質化。

 冗談が、誰かの誠実に触れたとき、現実に変わってしまうという証だった。


 夕日は、坂井の背中を染めながら、澄音の頬にも影を落とす。

 光と影が交わる場所で、誠実はようやく形を持った。

 光は信念、影は沈黙――二つは互いを照らし合うように存在している。


 そのとき、遠くから吹奏楽の音が響いてきた。

 トランペット、クラリネット、打楽器の音。

 それらはもう澄音の“物語”には属していない。

 それでも、確かに同じ世界の中で鳴っている。


 澄音はそっと目を閉じた。

 ――世界は、言葉の外側でも、ちゃんと続いている。


 風がノートの端をめくり、ページの隙間から光が差し込む。

 その光の中で、澄音はふと微笑んだ。

 静けさと喧騒、光と影、言葉と行動。

 すべてが重なり合って、ひとつの詩になっていく気がした。



風が、体育館裏を吹き抜けていった。

 砂を巻き上げ、夕日の残り香をかすかに運びながら。


 坂井の笑い声が、その風の中に混じって遠ざかっていく。

 軽やかで、まっすぐで、どこか未完成な音。

 それでも――その音の中には、確かな“現実”があった。


 澄音は立ち止まる。

 背中に当たる風が、少しだけあたたかい。

 そして、ゆっくりと振り返る。


 体育館の壁に映る夕焼けはもう淡く、

 その光の中で、坂井の残した足跡が金色に光っていた。


 ――光の中で、言葉が息をしていた。


 それはもう、詩でも冗談でもない。

 澄音の胸の奥で、小さく脈を打ちながら、

 ひとつの“行動”になっていた。


 風が止む。

 そして、静けさの中に、夕日の最後の一筋が残る。

 それがまるで、ふたりの物語の余韻を締めくくる“光の句読点”のように――。




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