3話・異変
風見通り商店街は、南北を縦に貫く直線で構成されている。それを横断するように、数十メートル間隔に東西に細い路地が横道を作る。
北の入り口付近に喫茶店、パン屋を皮切りに南に向かって様々な商店が軒を連ね、最終的に最南端には魚善と果樹縁が並ぶ。
ちなみに玉田骨董店は北側。青海家、緒川家とは殆どが端と端の対角線で離れている。
帰宅すると明日の旅行が楽しみなのか、いつもよりも父親の威勢のいい声が飛ぶ。なるべく店には商品を残したくもないのだろう。
青海は着替え、父親の手伝いに回る。青海自身も明日以降の数日は楽しみなのだ。ここでいつも以上に気合を入れてもバチは当たらないだろう。
加藤家の両親を含む旅行参加者が発って久しい。
年に数回あるかないかの自由な時間。何もしなくていい時間は開放感に溢れている。下の店先に商品が何もないのは久しぶりだ。
青海の両親、実野梨の親を含め、商店街の人間がバスに揺られている頃、青海は床でくつろいでいた。何もせずに、だらだらと。
いかん。無駄に時間を浪費している。
今は外は夜。しかももうすぐ日付が変わろうとしている時間だ。
そこには有意義の『ゆ』の字もない。だが、後悔よりも充足感の方が強い。自堕落な時間を誰にも咎められないからだろうか。
それにしてもいつもと変わらぬ光景は、折角の休みにしてはいささかもったいない気がする。それについては実野梨も同じ考えだろう。なぜなら、実野梨もいつもと同じ青海のベッドを占領してマンガに視線を落としているからだ。
今日は実野梨も浮足立っているのだろう。睡魔に負けず、実野梨にしては頑張っている時間帯だからだ。
学校から帰宅後、同じく休業の果樹縁の業務から開放された実野梨は、その行き先を青海の部屋と定めたようで、制服姿のまま部屋に飛び込んできた。
夕食にはお互いの親が用意してくれた食事を持ち寄り、それをふたりで食べた。
その後、実野梨は入浴。微かに濡れた髪のまま、青海の部屋に帰還。
実野梨のテンションはいつになく高く、いつも以上に話に講じたり、ゲームで騒いだり。そろそろ寝るかという青海の提案にも「ええ〜?」と明らかな不満の色を漏らす。それは即ちこの部屋から出て帰れの意、だからだ。
まだ粘るつもりなのか、布団に張り付きマンガを手放さない実野梨に呆れ、青海は壁に掛けた時計に目をやる。
ああ、今日が終わる。
揺れる長針が、短針と重なる寸前。
何か、違和感を感じた。それはいつもと違う夜だからだろうか。
違う。
びり。と、青海の身体を衝撃ほどでもない何かで揺らす。
誰かに触れられたわけでもない。実野梨は半眼になりながらもマンガにかじりついている。実野梨にしては頑張っているが、限界か。
かち。
長針と短針が重なった瞬間。
震える感覚が部屋と青海の身体を襲った。それが床や家具を揺らす程の衝撃だと気づいたのは次の瞬間で。
「きゃあっ!?」
実野梨の小さな悲鳴と共に、彼女を庇うようにその小さな身体に青海は覆いかぶさる。
ズンっ!
縦に大きな衝撃が走ったかと思えば、瞬きの間にその揺れは収まった。
幼馴染みの顔が目の前にデカデカとあるのに気づいたのか、実野梨は顔を熟したリンゴのように真っ赤にさせていた。
それよりも、青海は緊張の表情を崩さない。
あの振動を実野梨も感じたはずだ。だからこそ身を丸めたし、悲鳴も上げた。
なのに、部屋の様子が一切変わらなかったのはなぜだ?
本棚に並べてある物が落ちてきたり、窓が揺れた音も一切感じなかった。
青海は実野梨に怪我がないことを確認すると、急いで窓を開ける。
商店街の通りは時間帯通りの静けさを見せている、はずだった。
通りはにわかに騒がしい。異常を感じたのは青海と実野梨だけではないらしく、同じような体験をした住人がまばらに姿を見せている。
例えば車が商店街に突っ込んだとか。それならサイレンの音が聞こえて来てもいいはずだ。
「青海くん!」
下から知り合いのおじさんが声を掛けてくる。
「一体何が起きたんですか!?」
2階越しに聞くも、おじさんもわからないのか小さく首を振った。おじさんも、様子を見ようと外に出ている他の住人も、青海と同じく不可解さを感じているだろう。
「あおちゃん・・・」
振り返ると、実野梨が不安そうな表情を浮かべている。
「俺、ちょっと見てくる。光鍔のことも心配だ」
いてもたってもいられず、青海は部屋を飛び出した。
突如起きた謎の振動。自分の家だけが無事なだけで、他はそうではないかもしれない。ましてや光鍔の家は骨董品店だ。割れ物がこれでもかと家を埋め尽くしている。
「わ、私も行くっ!」
実野梨を引き連れ、これからの行動を考える。
まずは光鍔の家。玉田骨董店の他に、古書店『栞堂』がある。あそこも高く積まれた古本屋で、本棚が心配だ。おまけに店員さんは女の人がひとり。その人も性格柄旅行には参加していないだろうから。
「あ、青海くん!」
光鍔の様子を見に行こうとした矢先、誰かに呼び止められた。
別の近所のおじさんで、魚善、果樹縁共々お得意さんだ。その顔は顔面蒼白で気力がない。
「何かあったんですか」
「ちょ、ちょっと来てくれないか」
その慌て用は緊急事態を伝えるようで。誰かが事故にでも遭ったのだろうか。
青海は実野梨を連れ、おじさんの後に続く。おじさんに先導されて連れられると、行き先は商店街の出入り口方面だ。加藤家、緒川家に近い南側の入口。
そこには数人の人影が。その全員が商店街の外側に視線を向けている。
「な、なんだ、こりゃ」
その人波に混ざり、同じく視線を向けてみると、そこには信じられない光景が広がっていた。
出入り口の先には道路が走っており、そのさらに向こうにはビルが立ち並んでいた『はず』だ。
その並びにあったはずのコンビニも、ガソリンスタンドも、その姿が一切消え去っていた。
あるのは生い茂った草原のみ。その奥には夕闇を吸い尽くしてしまったかのような森が。都会には似合わない自然の風景がそこにはあった。
違う風景の中でも、共通点は空の闇だけだ。ただ、今までに見たことのないような星空がそこには広がっていた。
天高くには、地上を見下ろす目のような丸い月が。
爽やかな、それでいて青く深い緑の匂いが商店街に吹き抜ける。
・・・一体、どうなってるんだ。
見ると実野梨も不安そうな表情で外の世界に視線を向けている。
まるで、一夜にして街が更地になってしまったかのようだ。最初からビルや建物は存在しないのではないか、そんな錯覚にすら陥る。
「くっ!」
青海は踵を返し、駆け出す。
「あ、あおちゃんっ!」
実野梨の静止も聞かず、青海は全速力で北口に向かった。
数百メートルを全力疾走。めちゃくちゃになった頭の中は、過ぎ去る風景のように定まらない。息を吐き脱しながら北口に辿り着く。
その北口にも南口同様に人だかりが。その外の世界も、先程見た光景と同じく、都会の喧騒が消え失せた世界に変貌していた。
「訳がわからねぇ・・・」
息も絶え絶えに膝で息を吐く。理解が出来ないのは頭に酸素が回っていないからか?
「青海!」
振り向くと、そこにはTシャツに短パンというラフな格好の光鍔が立っていた。さすがの光鍔も、その顔は曇りで満ちている。もっとも、この状況で平然としていられる方がどうかしている。
「・・・どうなってるの?」
わからん、と誰もが思う疑問に、青海は小さく首を振って答えた。
「それより、家は大丈夫なのか?」
「なんともない。・・・不思議なことに」
光鍔も例の振動を感じていたようだ。それでもなお、家の仲が無事なことに対しても。
「はあっ、はあっ」
肺を限界まで酷使したであろう実野梨が息を吐き出しながら現れた。マラソンや持久走ならその功績をたたえてやりたいところだ。
「みっちゃあん」
ふらふらの実野梨を光鍔が優しく抱きとめ、背中をさする。
この由々しき事態の理由が全くわからない。
なぜ商店街の回りは人気が全くなくなってしまったのか。いや、むしろ商店街が人気のない場所にワープしたのか。
・・・ワープ?
「まさか」
青海の頭の端にかすかに浮かぶ可能性。だが、バカバカしく、非現実過ぎて、口に出したくもない。
「・・・青海?」
実野梨を介抱しながら、光鍔が訝しげに聞く。
「いや、そんな訳が無い」
だが、でなければこんな状況に陥った龍がつかない。少なくとも、一瞬の内に商店街の周囲の建物が忽然と消えた理由を説明するのなら、これが一番しっくり来る原因だ。
「・・・俺達は、異世界に迷い込んでしまったのではないか?」
何バカなことを言ってんの、と光鍔に呆れ顔で否定されるのならそれでもいいと思っていた。
だが、それが現実のものだと理解するのはすぐ後のことである。
聞こえた悲鳴で意識が引き戻される。
人垣の中の誰かが上げた悲鳴だ。それは緊張とともにその場にいた全員に伝播した。
青海も人垣に戻り、視線を外に向ける。
そこには、奇妙な影がいた。
少なくとも、『モノ』ではない。
生き物、生物だ。
四足歩行なら馬や牛。少しでかい犬で片付けていたかも知れない。それが都合のいい現実逃避だと言われても。
太腿から足首に掛けて細くなる脚。それを支えるのは大きな体躯。胴から伸びる首に付く頭部には黒いふたつの目。鋭く細かい歯が立ち並ぶ顎は、凶悪以外の何者でもない。
少なくとも、青海は現実世界でこんな動物を見たことはない。せいぜいゲームの中ぐらいでだ。
それはいつか見た恐竜映画の中で獰猛さを誇っていた生き物のようで。
リアルに動くその首は、まるでこちらを値踏みするように鋭い視線を送っている。いや、もう獲物を狩る算段をつけているのかも知れない。
「・・・実野梨、光鍔。ゆっくりと後ろへ下がれ」
あくまで冷静に、声で相手を刺激しないように青海は後ろへ合図を送った。
だが、その場にいる人間全員が冷静になれるとは限らない。もうすでに逃げ始めている人もいる。それが恐竜の刺激になる。
「くそっ。逃げろ、ふたりとも!」
青海がそう叫ぶのと同時に、青海自身は退避せずに横に駆ける。
視界の隅にあった、軒先に立てかけられたスコップの柄に手を掛けた。
金物屋から拝借した金属製のスコップを武器に、襲いかかる恐竜を迎え撃つ。
商店街から一派足を踏み出すと。靴底に草の感触が感じる。
的はずれな意見だが、ここが確実に自分たちの世界ではないのだと思い知る。
「あおちゃん!」
その行動に、実野梨は当然咎めるが、ここで食い止めなければ、もっとも悲惨な末路が待っているに違いない。
それだけが青海を駆り立てる。何も勇敢なつもりはない。自分だって早く逃げたい。
後ろに幼馴染みがふたりいる。見知った住人がたくさんいる。何より自分の家を含むこの商店街がある。
突き動かす衝動は、それだけだ。
恐竜の獲物を狙う目は、青海に定められた。狩人に銃口を突きつけられたように、青海の背筋が何かに絡め取られたように寒くなる。
開いた口腔の奥は漆黒で、肉すら容易に切り刻む鋭さを称える牙が並ぶ。
「はあ、はあ」
緊張の息と共に、右手で柄を、左手で持ち手を握り、スコップの先端で牽制しながら突き出す。
それをそもそも武器だと思っていないのか、恐竜はまるで羽虫を鬱陶しがるように首を左右に振る。あからさまに不快な表情。
恐竜は左右の回避から、口先を突きのように前後に動かす行動に変えた。
上下の顎を挟みながら突き出す行動に、青海はヒヤリとする。歯の噛み合う硬質の音が心臓の鼓動を早める。
恐らく噛まれたら怪我では済まない。肉を丸ごと持っていかれるだろう。それを、身を持って体験する気にはなれなかったが。
追い返すだけでいい。早く去ってくれ!
そんな青海の焦燥感とは反対に、恐竜は怯むこと無く、ますます行動を激化させる。
がちんっ!
一際大きい歯の噛み合う音が耳元で聞こえ、青海は身をすくませた。
がっ!
次いで威嚇のように吠えた恐竜に、青海は思わずたたらを踏む。
それがいけなかった。
後ろに引いた右足がバランスを崩し、青海の視界が前から上へ。
まずい。
そう思った時には、上から恐竜の牙が襲いかかってきた。
滴る赤い口腔は、死を予感させる凶暴さを放っていて。
それが青海の眼前に迫る瞬間。
ぎゃうっ。
恐竜の怯む声。
投げつけられた何かが恐竜の頭部に被弾したのだ。
それが石の塊だと認識する間に、青海は立ち上がり、体勢を整える。
その勢いで、青海はスコップを思い切り振り上げる。
力いっぱい。
スコップの重さを利用して、振り下ろす!
恐竜の苦悶の叫び声は、何かと何かがぶつかり合う音で相殺された。
手応えはあった。だが、気を許してはいけない。
2撃目を構え、振りかぶった時にはもうすで恐竜の後ろ姿があった。
息が荒い。スコップは手に吸い付くように離れない。
「あおちゃんっ!」
その聞き慣れた声で青海は自我を取り戻し、使命感のように握りしめていたスコップをようやく取りこぼした。
「・・・大丈夫か、ふたりとも。怪我はないか」
実野梨や光鍔だけじゃない。商店街の人間は無事だったのか。
皆、完全な笑顔ではないものの、不安が和らいだ様子だった。
良かった。
「あおちゃんこそ、無茶して!」
実野梨の温かい手が、スコップの代わりに手に覆いかぶさる。
そのスコップを取りこぼさなかった原因である、手にまとわりつく汗がゆっくりと吸い取られるようだった。
「バカなの!?何で逃げなかったのよ!」
続いて、光鍔の怒りの籠もった声がぶつけられる。その顔は怒りに満ち、眉が鋭く釣り上がっている。
「・・・もう、無我夢中で」
これは本心だ。とにかく、あの恐竜を追い払いたい一心だった。
「青海くんっ」
何人かの見知った顔が集まってきた。
「すまん、何か援護が出来ないかと思って」
「何か投げるものを探していたんだ」
あの石の投擲がなければ、青海は今頃この場にいなかったかも知れない。
そう考えると、今更ながらとても恐ろしく思う。
「あおちゃんっ!?」
「青海!」
時間差で眼前が暗くなり、腰を抜かした青海に実野梨と光鍔の声が重なったのだった。