1話・いつもの日常
憧れの異世界転移モノです。
発想は当時よりも少し前にやっていた某ドラマからです。
確かに主人公だけが異世界に行かなくてもいいよなあ、という考えから書きました。
こんこん。
窓の外から、ガラスを軽く叩く音が聞こえる。
ベッドに寝転んで漫画に視線を上げていた青海は、窓の方へ目を向ける。
「やっほー」
青海が窓を開ける前に、横にスライドされた窓ガラスの向こうから、のんきな声が聞こえた。
ピンク色のパジャマに身を包んだ女の子が窓枠から足を乗り出して、部屋の主のベッドを足場にして部屋に乗り込んでくる。当然、青海からはその女の子を見上げる事になるのだが。
もう数時間で日を跨ぐ時間帯である。
それにも関わらず、青海は無遠慮にも部屋を訪問する闖入者の非常識さを疑うことはしなかった。
なぜなら、その女の子は青海の隣の家に住む幼馴染みで、物心ついたときからの日常茶飯事の光景だからである。
加藤青海の家は鮮魚店で、名を『魚善』。この商店街に昔から居を構える魚屋だ。
そのわずか数十センチを挟んだ隣にあるのは青果店。いわゆる八百屋だ。
パジャマ姿の女の子の名は緒川実野梨。
実野梨の家である青果店、『果樹縁』のひとり娘だ。風呂上がりなのか、濡れた黒髪と、上気した頬に微かな熱を感じる。
青海と実野梨の家は隣同士というだけでなく部屋も対面としていて、目と鼻の先だ。こうやって、1階を介さずにお互いの部屋を行き来できる気安い仲でもある。
「あれ?あおちゃん、もう宿題終わったの?」
床に着地した実野梨は、ベッドでくつろぐ青海の様子に目を丸くしている。なぜそんな質問をするのかと思ったら、実野梨は小脇にノートと筆記用具が入っているポーチを抱えているからだ。
宿題の攻略の頭数にしようと踏んでいたのだろう。ベッドに寝転ぶ幼馴染みの姿を見て、絶望にも似た表情になる実野梨。
「なんだ実野梨。宿題終わっていなかったのかよ」
「今日お店、忙しかったから」
えへへー、と困ったように実野梨は頭を掻きつつ、笑う。
青海、実野梨は共々家の手伝いに従事する身だ。いずれその家業を継ぐのであろうとぼんやりと思っている。
言葉を選ばずに言うのなら、実野梨は割とどんくさい。実家の手伝いはその限りではないが、それ以外の行動はみんなよりワンテンポ遅れているかの如く、のんびり屋だ。
だからこうして宿題のレスキューを青海に頼ってくるのだろう。
青海は机の上からすでに終わらせたノートを手に取ると、それをテーブルの上に置いてやる。
「いいの?」
申し訳無さそうに上目遣いで見る実野梨に、青海は小さく頷いた。
本当はだめだ。いつもは甘やかさないようにはしている。
だが、手伝いに追われ、宿題がおろそかになるのは流石に可哀想だろう。そもそも、答えだけ見て身につくのかは実野梨次第だ。
「ありがとう!あおちゃん大好きっ!」
満面の笑みで、実野梨はペンを構えつつ宿題に取り掛かるのであった。
「ねえ、あおちゃん」
話を切り出したのは実野梨だ。
「なんだよ」
時折監視を含めた視線を向けると、一生懸命ペンを走らせてはいる。どうやら宿題は進んでいるようなので、受け答えはしてやる。
「もうすぐ旅行だけど、本当に行かないの?」
実野梨の言う旅行とは、商店街の住人による団体旅行、である。年に一度の商店街の親睦を深める、という名目の恒例行事だ。
親睦を深めるという目的通り、宿では飲めや食えやのどんちゃん騒ぎ。商店街の今後について考える会合も兼ねているものの、近所に出来た大型商業施設への文句も飛び出すという始末。
子供の頃までぐらいは参加していたが、飛び交う会話の内容が理解できるようになってからは行かなくなった。青海は今年も行かないと決め込んでいる。
年中フル稼働の店だ。両親はたまの休みくらいは旅行にも行きたいだろう。親連中が旅行に行けば、青海たちもどのみち店の手伝いの休業を余儀なくされる。うっとおしい会話を聞かなくていい分、家にいたほうがマシだ。
ただ、その旅行に青海が行かないのなら、自分も行かないと実野梨は言ったのだ。
「別に俺に合わせなくてもいいんだぞ」
「あおちゃんが行かないんだったら、つまんないもん」
そういうことを照れず言えるのが実野梨という人間である。
ともあれ、その旅行の期間が安らぎの日になるのは青海にとってやぶさかではなかった。
しばらくペンの走る音が小気味よいBGMになっていたのだが、それがいつの間にか途切れていることに気付く。
実野梨はテーブルに突っ伏して寝息を立てていた。
その姿に青海は小さくため息を吐く。
ノートに目を向けると、どうやら宿題のコピーは終了しているらしかった。
いつもの見慣れた丸文字。ただ、後半になるに連れて睡魔と戦った痕跡が見える。
瓦解した文字は本人でも解読できるかどうか。まあ、そこまで世話してやる必要はない。困るのは実野梨だ。
「おい。実野梨、起きろ」
青海は実野梨の肩に手を置き、軽く揺する。
実野梨は「うう〜ん」と消え入りそうな声を上げるだけで、目を覚ます気配はない。
このままここで寝かせておくわけにはいかない。
青海はスマーフォンを操作して、実野梨の親に連絡。今から担いで娘さんを運びに行くと。
幼馴染みで、家族ぐるみの付き合いとはいえ、夜も遅い時間だ。
「ごめんねぇ?もう、あの子ったら」
娘同様、実野梨の母親の言葉遣いは穏やかで優しい。
よっぽど青海くんの部屋が心地良いのねえ、というセリフと共にお願いね、という返事が返ってきた。
青海は眠っている実野梨を一瞥。その身体を背中に担ぎ上げ、おんぶの形。それでも起きない幼馴染みに青海は感服する。
昔はもっと小さかったよな。背も、体重も。・・・胸の大きさも。
こんな事がたまにあるが、窓を横断するのは禁じられている。面倒でも、1階に降りて隣家に向かうのがルールだ。
外に出ると、夜が商店街を支配していた。
アーケードの屋根のお陰で空は見えないものの、喧騒がまるで無く昼間の活気が嘘の様だ。
「大変だったでしょ、青海くん」
緒川家の裏口から入ると、実野梨の母親が出迎えてくれた。
声同様、見た目も穏やかで、若々しい。
だが、野菜の詰まった段ボール箱を片手で持ち上げるなど、見た目に似合わぬ怪力を持っていたりする。
挨拶を2、3交わし、青海は実野梨の部屋にたどり着いた。
家中に担いだ荷物をベッドの上にゆっくりと下ろす。
ベッドの側は加藤家に続く窓がある。窓の木枠は、長年同じ行動をしていたからだろうか、一部分だけが少し削れていたりする。
見ると、実野梨は幸せそうな寝顔。
思わず苦笑が漏れ、青海はゆっくりと実野梨の部屋の扉を閉めて、後にした。
実野梨の母に挨拶をして、緒川家を去る。
自室ではテーブルに広げたままの実野梨の戦果を片付ける。
「これは明日でもいいか」
青海は散らかったペンをポーチに仕舞い、閉じたノートの上に、それを置いた。
どうせ、明日には嫌でも顔を合わせるのだから。