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見えない戦い


 『テープの隠し場所が分かった。今から行ってくる』

 そう坂崎からメッセージが来たのはおれが母さんに頼まれた買い物の途中だった。おれはスーパーを歩きながらメッセージを送った。

 『どうやってわかったの』

 『わかちゃんが教えてくれた』

 わかちゃん? ああ、中田のことか。

 おれはなんか引っかかり、さらにメッセージを送った。

 『どうして今の時間?』

 メッセージはすぐに返ってきた。

 『テープは理事長室のデスクの引き出しにある。昼間しか入れないから今から潜入する』

 そう……か。

 生徒はあらかた帰宅し、今学院にいるのは部活の連中だけだろう。しかし、今から潜入って、大胆不敵だな。

 『ま、がんばれよ』

 おれのメッセージには返事はなかった。透明化するのなら携帯もどこかに隠さないといけないから連絡はとれない。おれはそのままスーパーの出口から買い物袋を下げて出てきた。ちょうど出たところで女の子が携帯で話していた。

 「はい。はい。確かに誘導しました。昼間しか開いてないって言ったから、たぶんいまからそちらへ向かうと思います」

 あれ。

 電話してるのは中田和香奈だった。

 中田はおれの顔を見ると、突然電気に打たれたみたいに真っ青になって、出ていこうとした。ちょうど入れ違いに入ってきた人とぶつかり、携帯が落ちておれの前に転がってきた。

 おれはそれを拾い上げた。

 『もしもし。中田くん。ごくろうだった。そのまま待機していてくれ』ぷつっ。

 電話から聞こえた声は間違いなくおれの知っている人物のものだった。

 高坂阿万里理事長!

 中田はおれを見つめたままどうしても人間に近づいて餌をもらえない野生動物のようにおれから距離をとっていた。

 「おい」おれは中田に詰め寄った。「これはどういうことだ」

 「わたし。知らないもん」震え声で頭を振る中田。「知らないもん。ほんとだもん」

 学院一の成績優秀者とはとても思えないような態度だった。

 「知らないわけあるか。さっき「誘導した」って言わなかったか? 誰をどこに誘導したんだ」そう自分で言った瞬間に思い当たった。

 坂崎!

 「坂崎を誘導したんだな。理事長に頼まれて。どうしてそんなことを?」

 おれが詰め寄ると、中田は真っ青な顔であとずさった。かぶりを振り続ける。

 「だって……だって、もし言うとおりにしなかったら、内申悪くするって言われたんだもん。わたし栄光大学行きたいもん」

 「だから……理事長に言われて坂崎を誘い出すようなことを言ったのか」

 「わたし悪くないもん。ただ、ちょっと嘘ついただけだもん」中田はほとんど泣き出しそうだった。

 「ちっ」おれは買い物袋を投げ出し、駆け出した。

 「坂崎。こいつは罠だ」

 道行く人を突き飛ばし、なにごとかとひんしゅくを買いながらおれは商店街を抜けて学院へ向かって走った。


      *


 おれが学院の正門までたどり着いたとき、ふらりと影が俺の前に立ちふさがった。

 「よう」

 羽黒だった。物憂げに見せているが、汗びっしょりだ。走って来たのは明白だった。

 「羽黒。なんか用か。おれ今いそがしい」

 「そうじゃけんにすんなよ。この間は恥をかかされたから、今日はその御礼と思ってさ」

 (お礼って、このタイミングでするか? しかし。おれを追って走ってきたの見え見えだし。もしかして、こいつも理事長の回し者か?)

 「ほお。察しがいいな」羽黒は目を見開いた。「見かけによらずお前頭いいな。どこで気付いた」やべっ。また考えを口にしてた。

 「階層社会の最上位に位置する中田和香奈が理事長の手先なら、最下位に位置するお前も使われてそうじゃん」

 「うるせえ」羽黒はちょっと怒ったようだった。「高坂さんはよ。話のわかる方だぜ。おれは勉強が苦手だが、どんな人にも取り柄があるそうだ。それを活かせば学院にキミの居場所はあるって言われたぜ」

 「ほーう。それで魂を売ったわけだ」

 「もともと魂なんかねえよ」羽黒は学生服を脱ぎ捨て、軽装になった。

 「言うとおりにすればおれの骨は拾ってやるそうだ。悪いな」

 羽黒はいきなりとびかかってきた。

 おれは必死で羽黒のパンチを防ぐ。おれも体育会系じゃないが、羽黒もそれほど気合の入った不良じゃないから、おれたちの戦いはボクシングで言えば前座の戦いのようでちっともうまくなかった。それでも羽黒のパンチが一、二発おれの顔に入ると、おれの目の前がくらくらとした。

 「くそっ」おれは羽黒の腰にしがみついた。羽黒はそんなおれの腹に膝を入れる。口に胃液が逆流し、なんとも言えない苦いいやな味になった。

 三度目の膝が腹に入り、おれはげえげえと吐いた。そんなおれを羽黒は満足そうに見ていたが、おれが再び立ち上がると、怒ったような嫌そうな表情で見た。

 「おい。そのまま転がってた方が楽だぜ。無理すんな」

 おれはそれには返事せず、羽黒に突っ込んだ。羽黒は闘牛士のようにわきにステップをふんでおれの突進をかわすと組んだ両手をおれの首筋に叩き込んだ、つもりがねらいがはずれ、こぶしは背中に当たった。とても痛かった。おれは前に転がり、再び起き上がった。

 「もうふらふらじゃねえか。お前の負けだ」羽黒は余裕をみせた風に言う。しかしおれがにらみつけると鼻白んだ。おれたちはしばらくにらみあった。

 それから再びおれはよろよろと羽黒に近づくとこぶしを振り上げてパンチを放った。羽黒はそれを余裕でかわしたが、そのまま余裕を見せておれに再び膝蹴りを打ち込もうとして近づいたとき、おれの放った左こぶしが偶然あたってよろめいた。おれのこぶしはほとんどきかなかったが、羽黒の怒りを増した。

 「野郎」

 羽黒は低くうなるとおれをめちゃめちゃに殴り始めた。おれは両腕で頭をガードしたが何発かはガードをくぐって胸や顔にヒットした。それでも羽黒もパニックみたいだ。パンチに正確さと力がない。おれはぼこぼこにされたが、ダウンしなかった。

 自分の身体が思うように動かない。けんかってのは見てるのと実際は大違いだ。ボクシングの試合を見ているだけなら観客は勝手なことを言ってるが実際に戦う選手がどれほど大変かはわからない。それでもけんかは倒れたら負けだ。ボクシングならダウンしたらレフェリーが止めてくれるが、けんかは倒れたら蹴りを入れられる。おれはふらふらだったが、かろうじて倒れることだけは踏みとどまった。

 ゆらゆらと風にゆれるすすきのようにおれはたったまま揺れる。

 羽黒も息があがってる。おれを叩きすぎて体力を消耗したのだろう。普段の不摂生だ。一方的に殴ったのは羽黒なのにおれよりもふらついている。

 羽黒は虚勢を張って言った。

 「いいかげんにあきらめろ。王子様よ。権力者に逆らうとろくなことがないぜ」

 王子様。その言葉で気がついた。そうだった。おれは別に羽黒とやりたくて学院まで来たんじゃなかった。おれは坂崎の危機を救うためにきたんだ。

 「悪いが……」おれは胃液を吐き出しながら言った。「お前につきあってる暇はねえ!」

 おれは羽黒に突進すると、胸に頭を突きつけて、そのまま頭を上に滑らせた。

 がしっ

 おれの頭は羽黒のあごにクリーンヒットした。おれの頭もそうとう痛かったが、その一撃で羽黒はよろりとふらついてから膝から崩れ落ちそのまま道路に寝たままになってしまった。

 ぺっ

 おれは血の混じったつばを道路に吐くと、よろめく足を踏みしめながら正門をくぐった。


      *


 坂崎幸子はさりげなく理事長室の前を通って、そこのドアが開いているのを確認するといったん引き返した。空いた女子トイレに入ると用意してきたエコバッグの中に脱いだ服を全部畳んで入れた。そのまま便座に座り、意識を統一する。変身ヒーローの変身シーンにしては格好悪いが坂崎幸子はそんなことを気にする女の子ではない。

 最初に世の中で起きている理不尽な事柄のいくつかを考え、まゆちーの事件を反芻した。まゆちーのことを考えるとやるせない怒りがこみ上げ、感情が高ぶる。同時に「あの」感覚が起こり自分の両腕が透明化してゆくのが見えた。

 完全に透明化してしまうと坂崎幸子はそっと頭だけだして確認するとドアを開けてトイレから出た。透明だと見えないが、だからこそドアが自然に開いたり袋が空中を横切っているところを見られてはいけない。また学校に怪談話を増やしてしまう。

 服を入れた袋はトイレの用具室に吊るした。用具室はバケツとモップと換えのトイレットペーパーなどでいっぱいだ。そうじのおばさんがここを開けるのは週に三回だと確認済み。

 坂崎幸子は廊下へ走り出た。また状況が変わる前に理事長室へいかなければならない。


 理事長室は前のままだった。つまりちょっとドアが開きっぱなしでそこから中をのぞいても誰も見当たらない。廊下にも誰かがやってくる様子はない。理事長は食事にでも行っているのだろうか。坂崎幸子はそのまま身体を横にしてすべらせるとドアを動かさずに理事長室へ入った。

 そのまま真っすぐにマホガニー製の重そうな理事長の机を回り込む。中田さんからの情報によると、理事長と話したとき、ビデオテープらしきものがぎっしりとつまった引き出しがあったそうだ。

 もう一度、あたりを見回してから、そっと引き出しを引いた。

 引き出しはしゅっと空気の抜けるような感覚とともに音もなく開いた。

 一段目には書類ばかりだ。坂崎幸子は一段目をそっと閉めて二段目を引いた。

 二段目の引き出しにはビデオテープがぎっしりと詰まっていた。几帳面な理事長らしく、すべてのテープにはきちんとタイトルのラベルが貼ってある。

 「夏の思い出」「平成28年度卒業式」「平成27年度運動会」……どれも関係なさそうだ。

 坂崎幸子は考え込んだ。あの抜け目のない理事長のことだから、ビデオテープのタイトルと中身を変えている可能性もある。それならすべてを再生してみなければ、当該の映像がどれかはわからない。

 どうしよう。坂崎幸子は焦り始めた。今日は一本だけ抜いて確認し、後日来ようか。そんなにチャンスはあるだろうか。


 「そこにはないよ」


 突然の声に悲鳴をあげそうになった。探し者に夢中になっている間に、理事長が戻ってきた。目に見えない坂崎幸子の方をしっかりと見据えながら、高坂阿万里はがちゃり、とドアを閉めた。

 「驚いたな。話には聞いていたが、本当に透明人間がいるとは」

 驚いたと言いながら理事長の声は落ち着いていた。「坂崎くん。きみにはまったくだまされたよ」

 正体が割れた! そのとたん、坂崎幸子の足から力が抜けた。自分が見えなくなる、ということよりも透明人間の正体が秘密だということが唯一の強みだったのに。

 理事長がせまってくる。マホガニーの巨大な机をまわってくるだろう。右からまわるか、それとも左からか。

 しかし理事長は坂崎幸子のいる袖側へは来なかった。そのかわりに壁際のファイルキャビネットを開け、三脚につけっぱなしのビデオカメラを引っ張り出してきて設置した。

 「これはわたしの習慣になっていてね」手早く位置を調整してスイッチを入れてから理事長は言った。「わたしのあらゆるパフォーマンスを記録し、それを後で精査する。なんのためかって。きみはおそらく見たんだろう。わたしが選挙演説の練習をするところを」

 理事長は見えない坂崎の方を振り返った。「わたしは将来全国に映像が流れる人物だ。優れた指導者は優れたパフォーマーでなければならない。日本人の指導者はプレゼンテーションが下手くそなやつらが多くてね。見ちゃいられない」

 日本の他の政治家に比べて高坂理事長が格別プレゼンテーションがうまいとも思わなかったが、それを指摘する余裕は坂崎にはなかった。声を出せば位置を特定される。透明化はまだ続いているから、ドアは閉められたが、もし理事長が十分ドアから離れたときに駆け出せば、脱出できるかもしれない。

 そんな坂崎の思惑を知ってか知らずか、高坂理事長はビデオカメラのスイッチを入れた。撮影中の赤いランプが点灯する。

 「これでよし、と」坂崎のいると思しき方向へ振り返る。その顔は以前坂崎がのぞいていたときと同じ顔つきだった。カメラの前の作り顔。

 「さて、始めよう」高坂理事長は、勝手に始めた。「きみはどこまで盗みぎきしたのかな。いけないな、人の隠れた行いを盗み見するなんて。そう、わたしは人前と自分ひとりのときとは少しばかり違う。しかしあらゆる人間はすべからく仮面をかぶって生活しているものだ、有能なサラリーマンの顔、貞淑な妻の顔、誠実な理事長の顔、模範生の顔……」そういって理事長はぎろりと坂崎の方をにらんだ。「すべからく」の使い方が間違っている、と指摘したかったが、とてもそんな勇気はなかった。

 「きみも模範生の仮面をかぶっているくせに透明人間になって他人の秘密をこそこそと嗅ぎ回るなんて、いけないな。お仕置きをしなくちゃ」

 その声音を聞いて坂崎はぞっとした。前から違和感を抱いていたが、この人はどこかおかしい。普通の人間なら怒り狂うべきところを笑顔になったり、目を背けたくなるような残酷さに対してうれしそうに反応する。こういうのをナルシスト? サイコパスというのか。異常者電波がびんびん伝わってくる。こんな恐ろしい相手だとわかっていたら、果たして自分は危険を犯して調査をしただろうか。

 坂崎の恐怖には構わず理事長はゆっくりとデスクに近づき、坂崎のいるのとは反対側の引き出しを開けてジタンを一本とライターを取り出すと火をつけた。深く吸い込んだ煙を吐き出す。坂崎はタバコを吸ったことはないが、いい香りだった。いけない。リラックスしては。

 理事長は続けた。

 「これから世の中は選別の時代になる。名前だけの民主主義よりも、はっきりとした封建主義の方が世の中が安定していいんだ。きみも自由で飢えるよりも、衣食住が安定している方がいいだろう? 「君たちには無限の可能性がある」なんて無能な教育者が無責任なことを言うもんだから頭の悪い生徒まで大学に行きたがる。欧米では大学はエリートだけが行くもんだ。能力がなければ無理して高学歴を得る必要はない。高卒でパン屋やゴミの収集や八百屋でいいじゃないか。パン屋のなにが悪い? 職業に貴賎はない。どれも社会に必要とされている役割だ。自由だと? あほらしい。管理能力のないやつらに自由など与えたらめちゃくちゃになるだけだ。自由とは自由自治のことだ。きみも知ってるだろう。この学院には唯一生徒の自治に任せている場所がある。通称クラブハウスこと「学生会館」だ。運動部や文化部の部室兼集会所だ。あそこだけは完全に生徒たちの自治に任せてある。大佛山学院の職員はあそこには干渉しない。創立者の意向で生徒の自由自治を育むんだそうだ。はっ! その結果どうなってるかきみも知ってるだろう。以前わたしは一度だけあそこに足を踏み入れたことがある。自分がどこのスラム街に迷い込んだのかと思ったよ。廊下はゴミだらけ、窓ガラスは割れているのをガムテープで補強してあるだけ、トイレにいたっては……うっぷ。君たちはそうじというものをしたことがあるのかね」

 坂崎は透明になったまま赤面した。確かに学生会館はひどい有様だった。生徒たちで掃除当番を決めてもどこかの部がさぼるとそれを注意する人間がいないものだから、他の部の生徒もずるい、と言い出し、結局誰も責任をとらない混沌と化している。

 「きみたちはまだまだ子供なんだ。自由なんてもったいない。管理されなければならない。社会とはなにか、責任とは、徹底的に教え込まれなければならない。そして……」

 理事長は振り返った。

 「学院を出てから初めて社会の矛盾にさらされる前に、学院の中で実社会のシュミレーションを体験する。それで自分のいるべき場所がわかるのだ」

 「来春。あの邪魔な創立者記念館をどけて学生寮を作る。全国から優秀な生徒を特待生として集め、大佛山学院の指導者、いや、将来の我が国の指導者として育成するんだ。創立者記念館は倒壊する。もちろんその前に鎮座する邪魔な創始者の像もね」

 今だ! 今理事長はドアから一番遠い場所にいる。窓の外を見てドアに背を向けている。

 坂崎は足音を立てないようにそろそろとカーペットの上を歩き、小走りに走ってドアノブをつかんだ。


 きゃあああああー!


 全身から力が抜け、坂崎は膝をついた。手をドアノブから離すことができない! 苦しくて身体が脈打つ。でもなにかに囚われたようだ。

 「かかったね」落ち着いて理事長が言った。「わたしも考えたんだよ。目に見えない相手をどうやって捕まえるか。そこで緊急で工事を行った。ドアノブに電流が流れるようにしてある。ああ、心配しないでくれたまえ。スタンガンと同じだ。電圧は3万ボルトもあるが、電流は極めて弱いから死ぬことはない」まるで昼食になにを食べるか相談しているかのような口調だった。

 狡猾で、知性が高く、残酷で、無慈悲。

 恐るべき相手を敵に回してしまったことに今更ながら坂崎は気付いた。


 「理事長! 理事長! なにかありましたか?」

 突然、ドアの向こうから声がした。職員のだれかだ。ああ、入って来て。誰でもいいから助けて。でも声がでない。

 理事長は少しうろたえた。

 「大丈夫だ。なんでもない」

 ドアを開けずに返事する。

 「本当にいいんですか」

 「気にするな。今取り込み中だ。邪魔しないでくれ。用事がすんだらこちらから行くから、他の職員もここへは近づけないように」

 「分かりました」

 声はそのまま去って行った。

 坂崎は電気ショックと絶望で力が抜けた。涙が流れる。

 「そろそろかな」

 理事長は落ち着いてゴム手袋をすると、ドアノブから手が放せない坂崎の手首をがっしりとつかんだ。紳士に見える理事長には思いがけないほど強い力だ。振りほどいて逃げ出すなど考えられない。理事長はそのままぐんにゃりと力の入らない坂崎の身体を理事長室の奥まで引きずっていった。

 もうだめだ。あとは時間が経過して透明化が解ければ、どこにも隠れ場所がなくなってしまう。


 がちゃっ

 ドアの開く音がした。

 理事長が振り向いた。顔に驚きの表情が浮かんでいる。

 坂崎はそちらを見た。

 鼻血で顔を汚した山前聖人が、今一番会いたかった人物が、立っていた。


      *


 おれが理事長室に入ったとき、坂崎はまだ透明化していた。理事長が驚いたような顔でおれを見て、かがんだ手でなにかをつかんでいるように空中を押さえていた。それが透明化した坂崎の手首だということは容易に想像できた。

 「その手を離してくれませんか、理事長」

 おれの中でマグマのようなものが吹き出しそうになっていた。怒りだ。もしおれが透明人間の性質を備えていたら、透明化してしまっただろう。その怒りが「坂崎が囚われている」ということによるものだということを、おれは漠然と感じていた。

 「あなたの手下は倒して来ました。今のおれはなにをするかわかりません」なに言ってんだろ、おれ。

 理事長はおれの顔を見つめたまま表情を取り繕った。

 「きみ。なにを言ってるのかね」

 おれは深く息を吸った。

 「おれはあんたをいい人だと思っていました。坂崎に言われてもおれ、最初は半信半疑でした。でも中田や羽黒を脅して手足のように使うやり方、汚いです。絶対に許せないです」

 高坂理事長は目をすがめた。「ほう。で、どうしようというのかね。教職員に暴力をふるっただけでも退学は免れない。理事長ならどうなるかな」

 「今度は脅しですか。でも失うものならあんたの方が大きい。おれたちは若いからまだどこでもやり直せる。今までのことを全部暴いてやります」

 「無理だな。君たちは半人前の高校生。わたしは社会的にも地位があり、将来も期待されている町の名士だ。世間はどちらの言うことを信じると思う?」

 おれたちが睨み合っている間に、坂崎の透明化が解けてきた。徐々に肌色の物体が形をなしてきた。

 「おっ!」

 理事長は坂崎の実体化を見るのは初めてだったため、一度驚きの声を上げたが、万力のようにつかんだ手の力を緩めることはなかった。

 「ほ、ほう」隠しても好色そうな視線が坂崎の身体をはう。おれはそれを見てさらに怒りを覚えた。

 「世間を騒がせた怪人も正体が割れてみれば、か弱いものだな。君たちの処分はこれから検討しよう。ただ、どのみちわたしの計画した町おこし事業が始まれば、誰にも止めることはできない。わたしに反対することはすなわち、町の発展に反対することだから」

 おれは考えた。理事長を殴って坂崎を取り戻すことは今のおれならできる。羽黒との対決後、なにかがおれの中で切れた。今こわいものはなにもない。だが、単細胞な暴力がこの狡猾な理事長相手に解決にならないことは明らかだった。こいつはおれを挑発して暴力事件にもってゆこうとしている。こいつと戦うためには他のやり方を考えなけりゃ。なにかないか、なにか。

 ふと目をやると三脚の上に立てたビデオカメラのランプが点灯している。これって、撮影中? そういえば、坂崎の話だと、この理事長は自分の演説を撮影していたという。自分の陰謀の証拠になりかねない映像を記録しておくからには、この理事長はよほどの映像マニアなのかもしれない。

 おれは大股で進み出ると、ビデオカメラのファインダーをのぞいた。撮影範囲に裸の坂崎をおさえこんでいる理事長の姿がしっかりと入っている。

 おれはビデオカメラを止め、テープを取り出した。理事長の顔に始めて慌てたような表情が浮かんだ。おれは理事長がなにかのアクションを起こす前にビデオテープをポケットに入れた。

 「さて、巨大な権力の理事長さん。おれたちはあんたからしたら虫けらみたいなものかもしれない。でも虫けらも踏み潰そうとしたら噛み付くことができるんだ。もしあんたがおれたちをつぶそうとするなら、この映像をネットに流す。「大佛山学院理事長、女子生徒にいたずら」。ダメージはどちらが大きいかな」

 理事長は鼻でふん、と笑った。「きみにそんなことができるのかな。大事な彼女も傷つくんだぞ」

 「でき、る」突然の坂崎の声に理事長はぎょっとしたように振り向いた。

 「学院の自由・自主・慈愛のためになら、あなたを倒すことができるのなら、わたしは構わない」そういって坂崎はしびれた身体を振りしぼるようにしてすっくと立ち上がった。おれは思わず目をそらしたが、その姿はボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」のように美しかった。

 「う」理事長は思わず、坂崎の手首を放した。

 「ふ、ふふ」理事長は気を取り直すと笑った。「仕方ない。今日は帰りたまえ」

 「そうは行かない」坂崎は理事長をにらみつけた。「工事をやめると約束して。さもなければこの映像を流す」

 「そんな要求が呑めるか! これからこの町は発展するんだ。そしてその成果をもとにわたしはこの国を変える」

 「思いやりや優しさのない発展なんかいらない」坂崎は静かに言った。一歩も引かなかった。

 「いい……わね」

 高坂理事長は答えなかった。

 おれは自分の上着を坂崎の肩にかけてやった。おれたちは無言の理事長を残して理事長室を後にした。


      *


 その後、おれたちにはなんのおとがめもなかった。両親が呼び出されたり、おれたちが退学になる、というようなこともなかったし、中田や羽黒も普通に登校してきた。さすがにあんなことがあって、坂崎と中田はぱったりと会話するのをやめたが、それだけだった。もっとなにか恐ろしいことが起きると覚悟していたおれはなんだか拍子抜けしてしまった。

 「理事長はあきらめたのかな」そう言うおれに対し、坂崎は黙って厳しい笑顔を見せるだけだった。

 問題のビデオテープはデータ化して、おれと坂崎がコピーして持っていた。坂崎の透明化が解けた後のシーンのみ編集して、いつでも動画サイトにアップできるようにしていたから、おれたちや家族になにか異変があれば、すぐに対応できるはずだった。

 そうして数週間が過ぎた。


 理事長があきらめていないことをがわかったのはしばらくしてからだった。

 クラスでひそひそ声の噂が交わされるようになり、男子生徒たちの意味ありげな視線が坂崎に向くようになったことにおれが気づいたのは、理事長室での対決のちょうど三週間後だった。

 「おい。藤原」

 「なんだ、ヤアマン」

 「なんかクラスのみんなの坂崎に対する視線がやらしくないか」

 「おおヤアマン。やっぱり知らぬは恋人だけってやつか」

 「なんのことだ」おれは急速に不安になった。

 「学院の父兄や生徒に怪しげなリンクつきのメールが飛んできてな、クリックするとやらしい動画サイトへ飛ばされる。そこまではよくあるスパムだが、そのリンク先の動画というのが……」

 おれは直感した。「まさか!」

 「まさかの坂崎さ。それもタイトルは『模範生の裏の顔。男をたぶらかす好色JK』そんな感じのタイトルばっか」

 「見たのか!」

 「えっ?」

 「お前も見たのか。どうなんだ」

 「くくく、苦しい。首をしめるな。見た、見たよ。ちょこっと」

 「くそっ!」

 「そう怒るな。後でリンク送ってやるから」


 藤原が送ってきたリンク先の動画を見たがひどいものだった。おれもエッチな動画を見たことがない、とは言わないが、自分の知り合いや身内がそんな動画に出演しているとどれほど気分の悪いものか、やっと理解できた。

 動画の中の坂崎はあの清純で真面目な少女が、と驚くようなことをやっていた。しかし、なにか違和感があった。

 自室でノーパソを開き、蒼白になって動画サイトを開いていたおれは父さんが入ってきたことに気が付かなかった。

 「おい。まさと」

 「わわわわわっ! 父さん。どうしてまた」

 おれはあわててノーパソを閉じようとしたが、父さんはドアを閉めるとおれの前に座った。

 「まさと。男の話がある」

 「うん」

 父さんは腕組みをしてしばらく考えていた。

 「さっき見ていた動画な、この間うちにきたクラスの女の子なんだな」

 「えっ、父さん知ってるの?」

 「最近、大佛山学院のPTAメーリングリストでちょこちょこ出回っているスパムにリンクがあってな、噂になってる」

 「そうか」もうそんなところまで事態は進んでるんだ。これじゃ坂崎も両親も針のむしろだな。

 「信じてやれるか」

 「えっ?」

 「その子を信じてやれるか」

 「う、うん。坂崎は絶対にあんなことをする子じゃないんだ。父さん信じてくれるの?」

 「うむ。おれも動画を見たが、ありゃディープフェイクな」

 「ディープフェイク」

 「昔はアイドルコラージュって言ってな、アイドルの顔写真を切り抜いてヌードの身体にくっつけたもんだが、現在はデジタル加工が簡単にできる時代だからな。おれはITが専門職だから見抜いたが、素人が見たら本物と信じ込むだろうな」

 淡々と話す父さんを前におれは黙りこくった。父兄にまで話が広がっているからには、当然坂崎の耳にも入っているだろう。今、坂崎はどんな気持ちだろう。父兄やクラスのみんなにそんな目で見られることが。おれだったら学校に行くことに耐えられない。一体なんでこんなことに。

 そこまで考えたとき、あることに気づいておれはあっと声を上げた。

 高坂理事長だ。

 あいつの弱みはおれと坂崎があいつの動画を持っていることだ。動画には裸の坂崎の腕をつかむ理事長の姿がはっきりと映っている。出るところへ出れば理事長の地位も国会議員の野心をも失いかねない爆弾だ。

 しかしもし坂崎が「そんな女」として知れ渡っていたらどうだろう。「男をたぶらかす好色な女子高生」として知られていたら。おれたちの動画を公開しても、傷つくのは理事長ではなく、坂崎に変わる。理事長はむしろ「男をたぶらかす悪女に誘われた被害者」という立場になるだろう。

 それが理事長の狙いなら、このディープフェイク動画を流したのも理事長の仕業かもしれない。動画に詳しい理事長なら簡単にできるだろう。

 「どうした」

 呆然と考えているおれに父さんが声をかけた。

 「父さん」

 「なんだ」

 「男の頼みで相談にのってくれる?」

 そしておれは今までの経緯を全部話した。透明人間のくだりはさすがに父さんも面白そうに眉をひそめただけで何も言わなかったが、おれが理事長と坂崎の動画を見せると、ため息をついて言った。

 「まさと。確かにお前たちは大変な問題に首をつっこんだようだな。お前の話す理事長の野望からすると、ディープフェイク動画は彼が流させたものかもしれない。典型的なFUD攻撃というやつだ」

 「FUD攻撃?」

 「例えばITの世界では、以前LinuxリナックスというOSが伸びてきたとき、脅威を感じたマイクロソフト社はLinuxに対し「得体が知れない」「問題が起きても保証がない」などのネガティブな噂を故意に流してイメージを失墜させようとしたものだ。競争相手のイメージをわざと悪くする宣伝戦略のことをFUD攻撃という。お前の彼女がそれに耐えられず、自分から引きこもるようになったらお前たちの負けだ。だが、こんなひどい噂に耐えられるかな、おまえの彼女は」

 「彼女じゃないって」

 「まあいい。だが、大人の世界では理事長に反対することはできない」

 「なんで!」

 「この町は今人材流出で町おこしに必死なんだ。坂崎くんが潜入捜査をしていたのも、坂崎くんのお父さんが町おこし運動に深く関わっているからだと思うね」

 「坂崎が」知らなかった。そんなことあいつは一言も言わなかった。

 「取り立てて魅力もないこの町を起こすために、今一番注目されているのがあの理事長のカリスマ性なんだ。ま、実を言えば色々と陰では取り沙汰されている人物なんだが、もっと他に町おこしに有力な材料でも現れない限り、理事長を失墜させるのは誰も望まない」

 「でも、それって正しいことなの?」

 「まさと。これは大人の事情だ。それから学院の運営方法について世の中の見方について理事長の主張が全く間違っているわけじゃない。どちらが正しいかなんて、言い切ることができるか。これは意見が違う、というだけの問題だ」

 おれは言葉につまった。坂崎は慈愛のない社会になると言っていたけれど、理事長の言うことに賛成する人たちもいるんだ。おれは坂崎の肩を持ちたいけど、どうすればいいんだろう。

 「とにかく、ディープフェイク動画については本物ではない、ということを父兄のみんなに伝えておくよ。まだ理事長が流した、という証拠もないのに決めつけるのは良くないな」

 父さんはそう言って立ち上がるとおれの部屋を出ていった。


      *


 結局ディープフェイク騒動は父さんのお陰で静まったが、陰では坂崎のことをそういった目で見る者が残っていた。坂崎が入ってくると教室のそこここでひそひそ話が行われる。

 おれはちら、と坂崎を見た。坂崎はどうにか首をしっかりとのばして立っていたが、そのうなじには疲労感が見えた。学期中、クラスのみんなのひそひそ話とさり気ない視線、体操部でもハブられて、それでも一日も学校を休まずに来た。

 担任に頼まれてみんなから提出物を集めているときも、みなの視線が坂崎の胸や尻を這っているのがわかった。羽黒組の連中は露骨に手で卑猥なサインを出して見せる。

 坂崎はそれに対し鉄の女らしく無表情で返した。

 郷土歴史研究会の面々も部に昇格し、居場所を与えられたとたんに理事長派に寝返った。今ならわかるが、おそらく中田の報告で郷土歴史研究会のみなを味方に引き入れるための理事長の打った一手が部への昇格だったのだろう。今やだれも創立者会館取り壊しに反対する者はいなくなった。

 ただ坂崎だけが傷を負っていた。


      *


 おれは自室で考えていた。理事長はどうしても創立者会館を壊して地面に埋めてある埋蔵金を取りたいようだ。でもそれは高坂家のものだから理事長の正当な財産だろう。ならばどうして理事長がそれを知らなかったのだろう。

 理事長が政治家への野心を持っていることになんの法的な問題もない。かなり性格に難ありだけど、性格に難ありの政治家なんていくらでもいる。理事長が埋蔵金を掘り出してそれを自分の政治活動資金として使うことはおれたちには関係ないことだ。むしろそれを邪魔するおれたちの方が社会的にも悪いだろう。

 だけど先代の理事長はどうして今の理事長に創立者会館の意図を教えなかったのだろうか。

 (理解しない者の手に渡してはならない)

 ふーむ。

 「まさと。まさと! 返事しなさい」突然の母さんの声で我に返った。

 「あ、はいはい」

 「ほんとにおまえはまだぶつぶつ独り言を言うくせが治っていないね。なにを渡してはならないって?」

 「いや、こっちの話」

 「ちょっと買い物行ってくるから、夕飯の支度しといて」

 「はあい」

 おれは考え事をしながら独り言を言っていたらしい。でもそれでなんかわかった気がする。

 おれはある考えにたどり着いた。



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