首無女
快盗ツインテール
プロローグ
「おい、ぶつかっておいてそのまま逃げようってのか」
人目でチンピラとわかる悪い兄ちゃんたちが弱そうなサラリーマンにからんでいた。
「おっとと、これは骨折しちゃったな。緊急入院だぜ」
「慰謝料よこせこら」
二人はサラリーマンのポケットから財布をむしり取ると中を改めた。
「ひょー。こいつけっこう持ってるじゃねえか」「じゃあこれで勘弁してやるか」
「あ、あの、すみません。それは今日支払いの大事なお金なんです」サラリーマンは弱々しく言う。
「なに! 聞こえねえな。ああ、ぶつかった肩が痛え。こりゃ重症だ」
「これでビールでも飲めば肩も治るかもな」「はっはっはっ」
ごっ
去ろうとしていたチンピラたちに石がぶつかった。
「なに!」チンピラはものすごい形相で振り向く。「おめえ、なんか文句あんのか」
「い、いや、ぼくはなにも」サラリーマンは震える声で言いながら石が飛んできた方向へ振り返った。
物陰に制服が見える。
「なんだ、おい。そこに隠れているのか。出てこい!」チンピラがすごんだ。
人影はゆっくりと姿を表したが、とたんにチンピラたちの顔が真っ青になった。
「うわあー!」
つまづきながら走って逃げる。
「た、た、たすけて」
チンピラに救われたサラリーマンも同様にかばんも何もかも放り出して走り出した。
だれもいなくなった路地裏で猫が歩いていた。
*
『それでよ、ヤアマン。ほんと、本当なんだって、「首無女」の噂ってのは』
「ああ、信じるよ。「トイレでハーイアツコさん」や「千葉マウスランドで子供がいなくなる」と同じくらいにな」おれは思いっきり投げやりな声で言った。
「首無女」は最近おれの町で流行っている都市伝説だ。曰く不良グループがカツアゲをしていたら、その後通りかかったやくざにあたかも不良グループが投げつけたかのように石を投げつけた者がいて、今度は彼らがやくざにカツアゲをされた。その時、街灯のシルエットに首無し女が映っていた。曰くホームレス狩りをしていた高校生に「やめろ」と声が聞こえた。誰もいない公園のことで恐ろしくなった高校生は逃げ出した。まあ、どこの町にでもありそうな話だ。
『今回はほんとに本当なんだって。おれもちらっとだけど見たんだ。間違いない』
「ほーお」
『夕方だったから顔は見えなかったがおれたちの学院の制服だった。女子の制服だ』
「お前、首無女って言ったじゃねえか。どうやって顔を見るんだ?」
『それは言葉のあやだ!』
おれ、山前聖人。大佛山学院高等部二年生。おれのスマホの中でがなってるこいつはおれの同級生、藤原郁人。本人はFFと呼ばれたがってる。FFだそうだ。はずいやつだ。郁人はおれのことを「ヤアマン」と呼ぶ。「やままえまさと」だから「ヤアマン」。明らかに無理なこじつけだが、こいつは熱狂的な「宇宙兄弟」のファンだから仕方がない。
『それで巷の噂だが、三年前に自殺した花村という女子学生の霊だという説が最も信憑性が高い……』
ピンポーンとインターホンが鳴り、続いて玄関のドアをがちゃっと開ける音と「ただいまー、あれ、なんで真っ暗なんだ」という大声が聞こえてきた。
「やべっ。母さん帰ってきた。おれちょっと忙しいからまた今度な」
そう言って返事もまたずに電話を切ると、おれは自分の部屋を飛び出て階下へ走った。今日は母が遅くなるので、おれが夕食の準備を任されていたのに、長電話に付き合わされているうちに、忘れてしまった。やばいやばい。
「ったく、本当にくだらないったら、ありゃしない。PTAの活動って」
母がぶつぶつ文句を言いながら土間に靴を脱ぎ捨てて上がってきた。
「あらっ、まさと。あたしが遅れるの知ってて、まだご飯炊いてないじゃない」
「あ、ごめん」
「ほんとにあんたは役に立たないんだから」
「それで、PTAの方はどうだったの?」おれは矛先をそらすために話題を変えた。母はたやすく引っかかった。
「もうくだらないったらありゃしない。校区パトロールとか言って、ママたちが五人でぞろぞろと学院の周りを歩き回るだけだよ。一月に一回パトロールしてなんの意味があるの。途中でペチャペチャおしゃべりして、街灯が切れていたら、それを報告書にチェック。だいたい不審者がパトロールの日に都合よく出てくれるわけないじゃない。それにもし本物の刃物を持った不審者が現れたら、どうすんの。主婦の集まりじゃパトロール隊員が最初の被害者になるだけだわ。そんなことは警察に任せておけばいいのに、ほんっとに時間の無駄だわね。PTAなんてなくなればいい」
「それじゃPTAをなくそう、という意見はないの」
「いや、あたし前回のアンケートでそれ書いたけど、「PTAは主婦の負担ばかり大きくて大したことはやっていないので廃止しましょう」って。黙殺されたわ。PTA会長とか、なりたがりがいるからねえ、暇なのが。だいたい今どき主婦のほとんどがアルバイトしてる時代に、なんであれやこれやで学校に呼び出されなくちゃならんのよ。こっちは教師を信頼して子供を預けてんだからさ、問題でも起こしたんじゃなきゃ親を呼び出しなんてしないで欲しいね」
糸の切れたビーズの首飾りのように立て続けにしゃべると、母はすこしだけ気が晴れたようだった。
「ほら、まさと。手伝って。今夜はかんたんに食べよ」
手早く割烹着を着て料理を始めた母を、おれはあわてて手伝った。とにかく母は電子レンジのように早く熱くなるが、怒りが収まるのも早い。
おれは母を手伝って夕食の支度をし、レンジで温めたごはんに卵焼きと漬物をおかずに食べた。今夜は父は夜間作業とかで帰るのが遅い。おれは母親とおしゃべりしながら藤原のことも首無し女のことも忘れてしまった。
*
「この公式は「えっちゃんの錐揉み回転」だから、X+Y=Nn」
おれはぶつぶつ言いながら数学の問題を解いていた。おれがぶつぶつ言うのは癖だ。おれには自分が黙って考えていることを知らぬうちに口に出してしまうという特技があり、それで今までずいぶんな目にあってきた。
例えばある日、おれが電車に乗っていると、いかにも悪そーな兄ちゃんが三人座れる優先席にどっかと汚い靴を乗せて一人ですわっていた。また判で押したような弱者―よぼよぼの老婆と足にギプスを巻き松葉杖をついて電車の揺れを必死に堪えているお兄さんと大きなお腹を押さえて苦しそうにしている妊婦がそれを遠巻きにして困ったような顔で、しかし悪兄と目を合わさないようにして立っていた。
そこで少年漫画の主人公ならば「おい。そこどけよ」などとカッコよくしゃしゃり出て行くのだろうが(しゃしゃり出てーよ)、か弱き一般ピープルであるおれは黙って、しかし社会常識のある人間として怒りの想いでいた。
(こいつ、文句の付け所のない悪役って言うかザコ敵というか、言うならば「北斗の拳」に出てくるモヒカンで手首に鉄鋲とかつけてて「実はこいつは見かけによらずいいやつなんです」なんて言われてもぜってー信じられないようなクズ野郎だな。「秀ブー」って叫んで爆発すると読者がすっきりするって感じの。こんなやつが幅を利かせているんだから、まったく、世はまさに世紀末だぜ)
と、おれは内心考えていた、つもりだった。
しかし実際には声に出して言っていた!
「こいつ、文句の付け所のない悪役って言うかザコ敵というか、言うならば「北斗の拳」に出てくるモヒカンで手首に鉄鋲とかつけてて「実はこいつは見かけによらずいいやつなんです」なんて言われてもぜってー信じられないようなクズ野郎だな。「秀ブー」って叫んで爆発すると読者がすっきりするって感じの。こんなやつが幅を利かせているんだから、まったく、世はまさに世紀末だぜ」
妊婦がおれをちら、と見た。顔が真っ青になっているのは、つわりではないだろう。松葉杖兄さんも老婆も必死にうつむいておれの言葉が聞こえなかったように知らんぷりしている。
悪そうな兄さんは三白眼をむいて怒鳴った。
「なんだとこらぁ! おめえ、今なんつった」
「い、いえ、なんでもありません。空耳です」
(こいつ見るからに頭悪そうだから、勘違いで押し通せばこの場は切り抜けられるかも)
と、おれは素早く思考したつもりだった。
しかし、その心の声ははっきりと「こいつ見るからに頭悪そうだから……(以下略)」と発せられていた。
で。
その夜、散々ボコられたおれが顔を腫らして帰宅したのは夜九時過ぎだった。
そうなんだ。おれは考えに没頭すると、自分が発声しているのかどうか、区別がつくまでにしばらく時間がかかる。やっかいなことだ。これがもしクラスで授業中に「うわあ。古座(数学の教師)のやつ、だっさい髪型。なにあのぼっちゃん刈り。自分で刈ったのかな。後ろから見たら五歳くらいに見えるぜ。前から見ると五百歳だけど(古座先生は実年齢五十歳だがしわが多い)」とか「あれあれ島崎先生(英語の女教師)。今年の夏休みも空振りだったようですね。でもおれたちをそんな飢えた目つきで見ないでくださいね(三九歳で結婚を焦っており、合コンからお見合いツアーまで様々な婚活に忙しいとの噂がある)」などをもし実際に発声してしまったなら、おれの内申は破滅だ。
いや、それどころか、もしクラスの女子をいやらしい目つきで見てしまい、そのあげく(おーととと。中田のやつ、また胸大きくなったんでね。あれだと八十はあるな。一体なに食って胸だけあんなに大きくなったんだろ。胸の大きな女は頭が悪いっていうけど、あいつには世間の公式はあてはまらないようだな)なんてことを授業中に発声してしまったなら……お終いだ。おれの学園生活は終わりを告げ、女子全員に白い目で見られ、転校するはめになるだろう。
いや、それほど大声で言っているわけじゃないから、休み時間なんかは周りがうるさくて、おれのつぶやきなんて全く聞こえないし、それでおれの心の声をモロに聞いて爆笑するのはいつも大抵友人のFFこと藤原郁人くらいだから助かっている。郁人はおれのことを「常に本音を口にする男気あふれるやつ」と勘違いしてるが、本当はこの癖、治したい。
おれがこんな人間になったのには理由がある。おれの両親は毎年夏休みになるとおれを連れてじいちゃんの実家へ行った。おれは一人っ子でしかもじいちゃんの実家にはおれと同年代の子供なんて一人もいなかったから、おれはじいちゃんに連れられてじいちゃんの手伝いをさせられた。じいちゃんはその道では有名な考古学者で、東北地方にあった巨大政権の遺跡が残る場所へ発掘のために移住した。じいちゃんはそこで極めて地味な発掘を地道にやっていた。すでに発掘が始まってから四十年たっているそうだが、深い地層から次々に新しい発見があって発掘を打ち切ることができないので、目処がつかなければそこで骨を埋めるつもりだそうだ。
じいちゃんはよく言ってた。
「ひとかけらの土器、化石の骨の一片で今までの歴史の定説が変わることがある。ほんのひとかけらからすべてを補う。それが人間の想像力だ」
おれはそれで発掘を手伝わされた。
はじめは古代の夢を吹き込まれてわくわくしていたおれだったが、じきに飽きた。なにしろきれいに区画した地面を移植ごてで丹念に丹念にけずって地層を剥いでゆく仕事だ。おれは蒸し暑い真夏のよどんだ空気の中でアブラゼミの声を聞きながらただ言われるままに移植ごてを動かし、なにか人工的な形をしたものが出てこないか、と作業を続けた。ときおり土器のかけらや鉄器の破片が見つかり、それを見つけると大声でじいちゃんを呼んだ。じいちゃんはやってきておれの見つけたものをメガネを直しながら確認すると「ほうほう」とか言いながらおれの頭をなでてくれた。それはそれでうれしかったが、退屈さの方が勝った。だれもおれを魚釣りや虫取りに連れて行ってくれず、都会っ子のおれもそういった遊びを自分一人で始めるほど器用な子供じゃなかったから、夏休みといえば発掘作業と決まっていた。
だからと言ってそのことをおれが嫌っていたわけじゃない。発掘作業の単純さとは別にじいちゃんの話は面白かった。
そんなある日、じいちゃんの家でかあさんに言われた。
「あんた、なにぶつぶつ言ってんの」
気が付かなかった。自分が独り言を言っていたことに。言われて初めて独り言に対して意識するようになり、気をつけていると、発掘作業中に自分が思ったことを全部実際に声に出していることがわかった。
ま、大丈夫じゃね。
そう思ったおれの気持ちとは裏腹に家族はけっこう騒ぎ立て、それでおれは発掘作業の手伝いをやめさせられた。
症状が致命的になる前に決断したことはそれはそれで正しかったとは思うが、発掘作業をやめてもおれの独り言を言うくせは治らなかった。
*
そんな思い出にふけっていると、ふと、外で隣の犬が大声で吠える声が聞こえた。隣の犬は警察犬を引退したシェパードで非常に賢い。飼い主に散歩をさせてもらえないストレスで単に見知らぬ人に吠えかかったりするバカ犬とは訳が違う。なにかいるのだろうか。そこでおれは二階の窓を開け、下を見た。おれん家の門が開いている。おれは下に降りて夕刊を郵便受けから回収しに行くついでに門を閉めた。門を閉めるときにふわっと一陣の風が巻き起こったような気がして、おれはちょっときょろきょろした。そういえば「首無女」の噂もある。
ま・さ・か
「ありえねーだろ」
おれは考えをわざと口にして、それでもちょっと門から首だけ出して夜の通りを確認した。ところどころ街灯が灯っている他には人っ子一人いない通りだった。おれは満足するとしっかりと門を閉め、玄関に入ると開けっ放しのドアを引いて閉めた。
*
おれは二階へ上がり、自分の部屋に入ったがなんか変な気がした。
あれ。おれの部屋のドアノブがちゃんと閉めなかったときのように半分引っかかっている。古くて馬鹿になる寸前のドアノブだから、きちんと閉めるのにはコツが要るんだ。おれは自分の部屋だから、そのコツはよく知ってる。なんか誰かに侵入されたような感じだ。ときどき母さんが用事でくるが、あの通りのガラッパチ母さんだから、高校生の息子がすることにあまり干渉しないし勝手におれの部屋に入ったことはない。中学生になったときから「もうあんた中学生なんだから、自分の部屋掃除くらい自分でやんなさい」と宣言され、それ以来、俺の部屋は俺の自治区になっている。ということは言い換えると無法地帯だということだ。
おれは一応ドアを開けると、さっと首だけつっこんで狭い部屋の中を見回した。もちろん何もない。やっぱり首無女の噂で怯えてるのか、おれは。
「なさけねーな。いもしない首無女に怯えるとは」声に出す。誰も返事しない。あたりまえか。
(首無女といえば都市伝説って不思議だよな。よーく考えればおかしい話ばっかりだよ。全身に金粉を塗ると皮膚呼吸ができなくなって死ぬとか、じゃあスクーバダイビングで潜水したら1時間は持たないよな。夜中にゾンビ看護師に追いかけられてトイレに逃げ込んで朝まで隠れてて、朝になったらどうしてもドアが開かなくて、ふと上を見たらソンビ看護師が上から見ていたとかって朝のしらじらした光の中でトイレを上からのぞくゾンビとかほとんどギャグだし)
(ぷっ)
なにかが聞こえた気がしておれははっと固まった。一瞬後で後ろを振り向いた。なにもない。当たり前だ。入るときにドアはちゃんと閉めたし、開ければ音がする。六畳の狭い部屋には隠れるところなどない。おれの部屋、学校のトイレと違って上からのぞく穴ないし。いかんいかん。勉強のし過ぎで精神がおかしくなっているのか。
(いや、おれに限って勉強し過ぎってありえないし。なんだっけ。そうそう都市伝説だった。あとブルーベリーを食べると目が良くなるとか医学的根拠全くないらしいし、あれ絶対業界の陰謀だよな。あれもし「目が良くなります」って印刷して売り出したら食品衛生法違反で逮捕されるのに。バレンタインデーには好きな男の子にチョコを送るとかあんな習慣欧米にぜってーねえんだからチョコ業界ぐるみで摘発すればいいんだ。いや、おれ的に男子のランクをもらったチョコの数で決めるとか考えたやつは刑務所に送ってやりてーけど)
(く、くうっ)
おれは今度こそ全身の毛を逆立てて後ろを振り向いた。今確かに聞こえた。相変わらず部屋には何もないが、誰かの声が聞こえた。これが空耳だったら、おれは自分の耳をヤソオクで売り飛ばすだろう。
おれはそー、と部屋を横切ると、とりあえず部屋のすみに立てかけてあった布団たたきを手に取った。こんなもので怪異と対決できるとは思わないが、人間は適度な長さの棒を手にすると自分が強くなったような気がして安心するんだ。
おれはそのままじっと息をころして待った。いる。なにかが部屋の中にいる。気のせいじゃない。神経を研ぎ澄ませれば、息遣いが聞こえる。おれは布団たたきを部屋の隅へ突きつけ、絞り出すように言った。
「おい。何者だ」
これがもしはずれで、完全におれの気のせいで、首無女の噂でおびえたおれの一方的な妄想だったとしても、一人でぶつぶつ言うのはおれの癖だから家族もなにも不審がらないだろう。おれはそのまま見栄を切って、ポーズを決めたまま言った。
「そこにいるのはわかっている。正体を現せ」
するとおれが布団たたきを突きつけている空間がゆがんだ。そこに何もないように見える空間に色が少しづつ加わり、そこにあったのだが見えていなかった物体がみるみるうちに実体化してゆく。おれは自分がかっこつけていかにもわかっているみたいな口調で言ったのにもかかわらず、驚きのあまり目を見開き、口をあんぐりと開けてしまった。
目の前の実体は徐々にその姿を表してゆく。肌色だ。どうやら化物ではなく人間の姿形のように見える。頭とおぼしき部分には髪の毛がある。髪の毛は長く左右に分かれている。大きな目。手で口をおさえている。なだらかな肩。すらりと伸びた足。
今やおれの目の前に怪人の全容が現れていた。手で口をおおってはいるが、おれはその顔に見覚えがあった。いや今日の昼間にも見ていたばかりだ。その怪人、いや怪少女というのか。おれの前で正体を表しているのはおれのクラスメートだったからである。ちょうど体育の授業のときのように三角座りをして、ひざで胸を隠し、両手で口をおおい、羞恥で全身を桃色に染めているその少女は、およそ衣類と呼べるものを何一つ身につけていなかった。
それはおれのクラスの学級委員長。品行方正、学業優秀、大佛山学院の模範生徒、坂崎幸子だったのである。
*
「おおおおお」おれは布団たたきを構えたまま情けなく後ろに下がって尻もちをついた。坂崎幸子。学院の優等生。その子が素っ裸で夜、同級生の男子たるおれの個室に座っている。
ありえない。ありえない状況だった。おれの思考は混乱し、なにを言ってよいのか、どう接してよいのか見当もつかなかった。そもそもこいつは本当に坂崎か? 坂崎の姿をした魔物じゃないか。いやいや、ゲームじゃあるまいし魔物の線は除外しよう。しかしこいつ、消えていたぜ。突然現れた。こいつ何者? 坂崎って本当に人類だったの?
おれが見つめる中で坂崎(謎)はおれをちら、と見ると再び顔を真赤にしてうつむいた。あれ。よくみると目が涙目になっている。じゃやっぱり、これは魔物なんかじゃなくて、普通の羞恥心を備えた女の子?
「こいつ、魔物じゃなくて、普通の羞恥心を備えた女の子なのか。これは本物の坂崎なのか」
おれはいつの間にか声に出していた。それを聞いて坂崎(謎)は目を大きく見開き、おれを見る。文句なしに可愛い。こんな異常な状況じゃなきゃ、もっと鑑賞していたい可愛さだ。
坂崎(謎)がなにか言おうと口を開きかけたとき、廊下から声が聞こえた。
「まさとー。ちょっと入るよ」母さんだ。
そのときのおれの思考と反応と行動はどういって良いかわからない。人間が危機的状況に落とされると瞬間的に過去の知識の中からあらゆる選択をし、最善のものを選ぶそうだ。「走馬灯のように過去の出来事が浮かぶ」とはそれらしい。おれの思考の中ではまず(裸の坂崎を見られるのはやばい)という考えと(母さんに部屋へ入られるのはまずい)という考えが同時に浮かび、おれはオリンピックの陸上選手並のスピードでまず万年床にとぐろを巻いていたタオルケットをつかんで裸の坂崎に巻きつけ、そのままドアへダッシュした。しかし、その判断が誤っていたのかもしれない。ドアのところでなんとしても母さんを中に入れないよう押し問答をしてから素っ裸で三角座りをしている坂崎を見られるのと、少なくともタオルケットを身体に巻いている坂崎を見られるのとどっちを選ぶ、と聞かれてもどう答えたらよいのかわからない。
結局おれがドアのところにたどり着く一瞬前に形式通りノックをした母さんが頭を入れて部屋を覗き込もうとしたのと同時だった。
「まさと。来週母さんさ……」
「うわああああああ! ちょっと、ちょっと待って。母さん」
おれはドアを必死におさえて母さんの侵入を防いだ。母さんはきょとんとした。
「なんだい。いつもはそんなこと言わないくせに。あ、はーん。なにか親には見せられないようなことをしている最中だったかな。ごめんね。お前もそういう歳になったんだね」
母さんは大人の訳知り顔でにやにやした。母さん。思春期の息子をそうやっていたぶると傷つきますよ。
「いや、来週吉田さんのおばあさんとこへ手伝いに行くから、夕食は基本、一人で食べてね。あらっ……」
母さんはドアの隙間からおれのデスクの上を見ていた。
「どこへ行ったかと思ったら、台所の電卓、こんなところに」
やばっ。数学の宿題にちょこっと借りたまま返すの忘れてた。
「いつも言ってるでしょ。勝手にものを借りない。借りたら返す……」
「わああああああ! だめ!」
そのままおれの制止を振り切って、母さんは一気におれの部屋に侵入した。
無言。
母さんの目はうつろだった。その視線はタオルケットを胸まで巻き、裸の肩をあらわにして座っている坂崎を見ている。その視線がちらっと乱れた万年床に移った。その視線がせわしなくおれを一瞬見てから他へそれた。いや、そらした。母さん、誤解です! そんな目でおれを見ないでください!
母さんは一度重く頭を垂れてうつむくと一拍あとに「はあー」とため息をついてから顔を上げた。その目には親としての義務を果たさなければ、という決意が映っていた。
「まさと。男ならきちんと責任をとるんだよ」
いやなにその一足飛びの結論! おれなにもしてないし。
「か、母さん。ちょっと……」
しかし母さんはそのまま後ろをむいて何も見なかったかのように、引き止めるおれの言い訳から逃げるようにして部屋を出るとすたたた、と階段を降りていった。
会話を拒否された。世代間のギャップを感じる。
絶望的だが、母さんの方は後で修復しよう。おれはそう決断するとドアを閉め、部屋の隅でタオルケットを巻きつけている坂崎を振り返った。
いや、マジで可愛すぎる。素っ裸よりもタオルケットを巻きつけただけってどんだけセクシーよ。もうわたしのこと、好きにしてって感じ。
「好きにしたら」
突然あきらめたように坂崎が言ったのでおれは息を呑んだ。おれ、また思考をしゃべってた? 坂崎は座って身体にタオルケットを巻き付けたままなのは変わらないが、今や傲然と頭を上げ、首筋を伸ばし、おれをまっすぐ見ている。クラスではいつも三つ編みおさげだが、今はそれを解いてツインテールにしているのがめちゃくちゃ似合っている。
「どうせ不法侵入だし、わたしに非があるから、なにも弁解の余地はない」
おれはゆっくりと深呼吸してからたずねた。
「その前に確認したいんだけど、きみ、ほんとに坂崎? 魔物とかじゃないの? 今なにもない空間から現れたよね? それってありえなくない?」
坂崎は一瞬、考えるような顔をしたが、真剣な目をしてうなずいた。「本物よ」
「じゃあ」おれは部屋を横切った。坂崎は一瞬びくっと身体を震わせたが、おれは構わず押入れを開けるとプラスチックの引き出しを開け、中をごそごそやってから一年生のときに着ていた長袖ジャージの上下を出して坂崎を見ないように横を向きながら坂崎に差し出した。
「これ、貸すから。おれ部屋を出てるから、着替えてくれ」
そう言っておれは立ち上がり、後ろを振り返らないようにして部屋を出た。
バタン、とドアを閉めるとおれは深い息をついた。頭の中がごちゃごちゃだ。心臓が激しく打っている。脳裏に坂崎の裸身が浮かんで顔がかっと熱くなり、おれは激しく頭を振った。ドアにつけた背が全身耳となっている。衣擦れの音が聞こえないか気にしている。
「うわあ、いかんいかん」おれは再び頭をぶるぶると振った。ドアから離れ、階段の手すりを鷲掴みにして心を落ち着ける。はあはあはあ。呼吸を鎮めた。
(たとえ……どんな事情があろうとも……いやもちろん大変な事情があるんだろう、でなきゃ夜、裸で外を歩き回ったりしないよな。でも……少なくとも……おれは坂崎に対しては誠実でありたい)
「それ本当?」
おれがはっと振り向くといつの間にかドアが開き、坂崎が立っていた。おれはまたもや心に思っていることを独り言で言っていたらしい。坂崎はおれを試すように上目遣いで見ていた。おれには小さくなったジャージが坂崎にはぴったりだ。すらりとのびた手足がきれいだった。
(この下にはブラジャーもパンティーもはいていないんだよな)おれは口を押さえながら思った。
そんなおれを坂崎はもう一度じっと見つめると言った。
「話すから。中に入って」
*
「おそらくいちばん知りたいのは透明のことだと思うから。あれはわたしが小学生のときだった」
部屋に入った坂崎は部屋の隅(それも布団からは一番遠いところ)に腰を下ろすと話し始めた。
「夏祭りに連れて行ってもらって人混みの中で親とはぐれたの。そのお祭りは「鬼こし祭り」と言って、鬼に扮した大人たちが祭りに来ている人を驚かすの。東北のなまはげみたいなものね。脅かされると悲鳴を上げて隣の人に抱きつけるというので、カップルには人気のお祭りよ」
「それでも小学生のわたしにはとても怖くて、人混みで親を見失ったわたしは恐ろしくて隅の暗いところへ行って隠れていたの。そこを鬼に扮した人が見つけて近づいてきた。多分、その人は小さな女の子が一人でいるから注意するか助けてあげようとしたのね。でも逆にわたしは恐ろしくて悲鳴もあげられなかった。一人で震えていた。そうしたら突然その鬼に扮した人が悲鳴をあげて走って逃げていったの」
「ちょうどわたしを探していた親が駆けつけてきた。お父さんはわたしを見ると「く、首なし」と言って腰を抜かして後ろに倒れた。お母さんはわたしをひし、と抱きしめた。そう」
坂崎はおれを真っ直ぐに見ると、言った。「そう。そのときわたしは透明化していたの」
「後で教えてもらったことだけど、わたしの赤い浴衣だけが首なし人間のように走ってきたそう。だからみんな逃げ出した。でもわたしを抱きとめたお母さんには形や声でわたしと分かったそうよ」
「お母さんに抱きしめられたわたしは安心してわんわん泣き出した。そうするとわたしは徐々に目に見えるようになった」
「それからもときどきわたしは透明化した。透明化のきっかけは強い感情」
「強い感情」
「そう。恐怖や怒りや激しい感情を持つとわたしは透明化してしまう。怒りがこう塊になって爆発しそうになると、透明化がはじまっちゃうの」
「そのとき目が赤くなったりはしないの」
「なんですって?」
「いやその、なんでもない」
「医者に診せたけど全く原因はわからない。でも害があるわけでもない。いたって健康。それで両親は最初わたしをあまり外へ出さなかった。ほとんどの時間をわたしは家の中で過ごした。だから日に焼けることもなかった」
おれは坂崎の透き通るように白い顔を見た。一見病弱に見えるのは、外に出なかったからなんだ。
「でも成長すると段々わたしは自分の感情を制御できるようになってきた。何年も透明化しなかった。それでお父さんにお願いして学校に行かせてもらった。最初は友達ができなかったけど、部活をやるようになってからは学校が楽しくなった。いまでは学校が好き」
坂崎は体操部のエースだしな。平均台の演技とか、マジ高校生とは思えないレベルだし。
「緊張感が続いていればある程度の時間は透明化を維持できる。でもリラックスすると透明化は解けてしまう。あなたの独り言があんまりおかしくて笑ったら透明化が解けちゃった」
認めるかどうか、信じるかどうかは別問題として、これで坂崎の透明化の説明はいちおうなされた。
しかし、もう一つ重大な疑問がある。
「なんでおれの部屋に入ってきたんだ。なにか目的があったのか。おれの部屋には国家機密もなにもないぜ」
「犬が」
「犬?」
「隣の犬に吠えられて……わたし、犬すごく苦手なの。こわくてすくんでしまって。あの犬、あたかもわたしが見えるかのようにまっすぐ私に向かって吠えるんだから。それでちょうどあなたが出てきたときに思わず開いていた門から中に入っちゃった」
「入っちゃったって」
「ごめんなさい。それでなりゆきで玄関から入ると、一階は電気がついていて、人の気配がしたからそのまま走って二階へ上がってちょうど空いていたドアから中に飛び込んだらあなたの部屋だった。ドジね」
「それであなたが二階へ上がってくるのも分かったからどうしようかと思ったんだけど、廊下や階段ですれ違う勇気はないし、透明化したといっても実体はあるから触れればそこにいるのがわかってしまう。そしたらドアを閉められてそのまま閉じ込められた。それだけ」
「なんだ」
「あなたの家をスパイするつもりもないし、なにも盗んだりしていない。どう、これで満足?」
「ちょっと待って。世間で騒いでる「首無女」ってきみのことなの?」
坂崎はちょっと黙った。
「そう」
「なんでそんなことしてんの? 子供の時はそれで家から出られないような暮らしをしていたんだろ。今でも透明になることがバレたら普通の生活はできなくなるんじゃないか? それなのに、なんでそんな危険を犯してまで透明人間になって外を出歩いてんの?」
「正義のため」
「へ?」
「正義のためよ!」
「そんな。マーベルの映画じゃあるまいし」
「透明化の能力は悪用しようと思えばいくらでもできる。泥棒だってなんだって。でも大きな力には大きな責任がともなうから」本当にマーベルの映画みたいなやつだった。
「いいのよ。あなたには関係ないことだから。ほっといて」
坂崎は義務の一つは果たしたとばかりにそう冷たく言い放つとドアを開けて階段を降りて行った。おれはその後を追ったが、坂崎は振り向かなかった。そのまま帰るのかと思ったら、ご丁寧に台所へ入り、人生の重荷をおろしたように椅子に座っている母さんにぺこりとお辞儀をするとあいさつした。
「はじめまして。聖人くんと同じクラスの坂崎と申します。お邪魔しました」あれ。おれの名前もおぼえているんだ。
母さんはうつろな目で宙をながめたまま「あ、ああ」と生返事した。坂崎はそのまま用は済んだ、とばかりに玄関へとってかえしたがそのまま固まった。
「靴がないだろ」おれは下駄箱から母さんの古いサンダルを出して差し出した。「風邪引くなよ」
「なにからなにまでありがとう。この御恩は忘れません」
なにそんな昔話の登場人物みたいなこと言ってんだよ。おれは好奇心で頭が破裂しそうだよ。
それでも坂崎の作った壁をこわすことはできず。おれは丁寧に礼をして去ってゆく坂崎幸子の後ろ姿を見ながら今夜は眠れるかな、と考えていた。
*
「はあ」
朝っぱらからおれは疲れてクラスの机につっぷした。
今朝、朝食の席についたら台所のテーブルの端にこれ見よがしに(母さんはさりげなくおいたつもりなんだろうけど)「明るい家族砲計画っ!」が置いてあり(たぶん夜、コンビニで買ってきたんだろうけどラノベと一般書籍の違いもわからなくなるくらい動揺したのかっ!)、ティッシュ箱の下にはこれまたさりげなく「めちゃうす」と書かれた箱がはさんであった。
それで昨夜、悶々と眠れぬ夜を過ごしたおれは一瞬で昨夜の坂崎の裸身を思い出し、(う、うわあああ! おれタオルケットをくんかくんかなんてしてません!)と考えたつもりだったが、つい、
「う、うわあああ! おれタオルケットをくんかくんかなんてしてません!」
と叫んでしまっていた。
はっと気がつくと母さんが目を点にして、おれを見ている。
「え、ええと。まさと。目玉焼きは……」そういって母さんは火の消えたコンロに乗せたフライパンの上で生卵をつつきだした。それにいたたまれなくなったおれは「やっぱ、朝ごはんいらね」と叫んで家を飛び出して来たのだった。
「おっす。ヤアマン。どうしたんだ昨夜はそのまま切っちまうしよ」
藤原郁人がぽん、とおれの背中を叩いたが、おれはリアクションを返す元気もなく、机につっぷしたままだった。
「おはよう」「おはよっ」
聞き覚えのある声が聞こえておれは一瞬で緊張した。顔を上げるとちょうど教室の前の入口から昨夜の騒動の張本人、坂崎幸子が入ってくるところだった。
「さっちー、元気」
「うん、ちょっと風邪」坂崎は鼻をすすりながら友達に返事する。抜けるように白い肌。すらりと伸びた手足。ぴんと伸びた背筋。体操部のエース。昨夜はツインテールだった髪を三つ編み一本にして背中の真ん中に垂らし、きちんと校則にのっとった制服を着て、真っ白なハイソックスはいて、どこをとっても非の打ち所のない学級委員長がそこにいた。
坂崎を見るとおれは再び昨夜のタオルケットを巻いた姿を思い出してしまった。顔が熱くなるのを感じる。
「おい、ヤアマン、どうした。ははん。そうか委員長か」藤原がおれの視線の先を確かめると我が意を得たりといった表情でおれを見た。
「うるせ」
「おや。その表情だと真剣だな。ま、猫もさかりの季節だし、おれたちまだ二年生だし、いいんじゃね、恋も」
「恋も」という言葉でおれは再びかっとなって沈黙した。
「へえ」そんなおれを見て藤原はからかうのをやめた。「どうしたんだ、急に。彼女となんかあったのか」
「言いたくない」
「でもよりによって鉄の女とはね。あいつ女子の受けはいいけど、冷たい感じするじゃん」
藤原の言うとおりだった。坂崎はクラスではクールビューティと言えば聞こえはいいが、校則を遵守させることにかけては厳しく妥協しない。遅刻や宿題の丸写しなどを厳しく取締り、それで「鉄の女」のあだ名をもらっている。また、彼女が笑い転げたり、怒鳴ったり、泣いたりするのを見たことはない。常に冷静で校則違反を取り締まる場合でも役人のように対応し、声を荒げたり叫んだりはしない。感情が表にでないのだった。
でも今なら理解できる。彼女は怒ったり泣いたりして興奮すると「透明化してしまう」んだ。だから、普通の社会生活を営めるように、自分を抑制しているに違いない。クラスで彼女が泣いたりする表情を見たことはなかった。昨夜初めて彼女が涙目になっているのを見た。あんな恥ずかしさに打ち震えて、絶望にとらわれ、泣き出しそうな彼女。
(これはギャップ萌えというのかな。意外な一面に萌える、という)
「ほーう。そのあたりの事情を詳しく教えてもらえるかな」藤原がたずねる声でおれはわれに返った。
「うわっ! おれ、今なにか言ってた?」
「坂崎が泣き出しそうな顔がたまらなく素敵だというような内容がだだもれになってたぜ」
「うわああああああ! 郁人。黙れ。黙っていてくれ」おれは藤原のそでにすがって恥も外聞もなく頼んだ。
「おいおいヤアマン。おれが友達の秘密を他人に漏らすような男に見えるか」
藤原はにやり、と笑った。
「今日の昼飯、とんかつ定食で沈黙してやる」
*
その「事件」は昼休み直前に起きた。
急に数学の授業が先生の都合で自習になり、おれたちは「ワークブック」をやらされていたが、徐々におしゃべりが始まり、ついにはクラスの問題児「羽黒組」こと羽黒とその仲間たちがうるさく騒ぎ回りだした。羽黒は茶髪でピアスの男子生徒で、番をはるほど悪くもないが、校則破りの常習犯だった。
大佛山学院には本当の意味の不良はいない。都市の郊外にあるここははっきり言って田舎で、繁華街と言えるような場所にたどりつくためには電車の駅を五つばかり乗り継いでいかなくてはならない。「いなかじゃつっぱりようがない」のだが、それでも規則が体質に合わない羽黒のような生徒はどこにでもいる。精神年齢が低いのか、監督されていないと子供みたいにはしゃぎだすのだ。
羽黒たちは最初おしゃべりを始め、それが女子生徒たちにまでおよぶと今度は教室内でキャッチボールを始めた。そろそろ隣のクラスの先生にまで聞こえるころだ、と考えていたところ騒音を割って入った声があった。
「みんな静かにして!」
坂崎だった。すっくと立ち上がる三つ編みおさげ。すらりとのびた身体。背はおれより低いが高く見える。
「ちょっと! 自習時間だから私語はやめようよ」
「出た! 鉄の女」「いやっ。粛清しないで」
飛び交うヤジにはびくともせず、坂崎は人差し指を突きつけて言う。「そこ! 席について」
とたんに机の間を走り回ってキャッチボールをしていた羽黒たちの動きが止まったが、羽黒ひとりは謎めいたニヤニヤ笑いをしたまま坂崎を見下ろしている。
「先生に言いつけるってか、おい」
「先生は関係ない。わたしたちの中には本当に自習したい人間がいる。その人たちの邪魔になるから静かにしなさい。キャッチボールなら堂々と外へ行ってやればいい。先生に怒られるリスクを自分で負って。それができないチキン野郎が中途半端にクラスにいてさわぐと邪魔なの。それだけ」
「チキン野郎」という言葉はこたえたようだった。羽黒の日に焼けた顔が赤黒く染まった。羽黒は大きい身体でそっくり返ったまま坂崎を威圧するように近づくと低い声で言った。
「おい。調子に乗るな。おれを怒らせるなよ」
「へえ、情けないわね。自分に非があるから今度は脅し? 暴力?」
「お前、いい子ぶってるが、じゃあ昨夜なんであんな遅い時間に外を出歩いていたんだ? 校則にも市の条例にも違反してるんじゃねえか?」
昨夜、坂崎がおれの家から帰る途中を見た者がいる! 羽黒の言葉の一撃で坂崎は殴られたようになった。
「わ、わたしは……」今までの覇気がみるみるうちになくなり、坂崎は自信なさそうにうつむいた。その反応に教室がざわつく。
「お前も不良じゃねえか。それも学校では模範生のふりをしているんだから、おれよりよっぽどタチが悪いぜ」羽黒はあざけった。
「違う! わたしはそんな……」
「じゃあ説明しろよ。なんであんな遅い時間に若葉町あたりを一人でふらふら歩いてたんだ。お前の家からはずいぶん遠いじゃねえか。カレシの家からの帰りか。ん?」
羽黒の言葉に坂崎は罪悪感をたたえた表情で目をそらした。羽黒の顔は勝利に勝ち誇る。クラスはしーんと静まり返った。
(いや、この反応を見れば、いかにも坂崎が悪いように見えるけど、もとはといえば坂崎は注意しただけなんだよな。羽黒がやってるのはまあチンピラが「奥さん。あんたの弱みはおれが握ってるぜ。さあ、この秘密をばらされたくなかったら、なんでもおれの言うことを聞くんだほれほれ」とか言って脅迫してるのと同じだね)
おれは考えていた。と思っていた。
しかしそれを声に出していた!
「いや、この反応を見れば、いかにも坂崎が悪いように見えるけど、もとはといえば坂崎は注意しただけなんだよな。羽黒がやってるのはまあチンピラが「奥さん。あんたの弱みはおれが握ってるぜ。さあ、この秘密をばらされたくなかったら、なんでもおれの言うことを聞くんだほれほれ」とか言って脅迫してるのと同じだね」
おれの声は静まり返った教室に響いた。思わず数名がぷっと吹き出し、それからクラス中がわっと湧いた。
場を乱された羽黒はおれを凶悪な顔で振り返った。おれに詰め寄ろうとしたが、そのときガラッと教室の扉が開き、隣で授業をしていた教師が顔を突っ込んだ。
「おい! うるさいぞ。自習時間だ。いったい誰のせいでうるさくなった?」
全員の注意が坂崎と羽黒、それとおれに向けられた。
「わたしのせいです」坂崎がはっきりとした声で言った。
「お前がぁ? 坂崎。しかし」教師が納得行かないと首を傾げる。模範生の坂崎と問題児の羽黒が対決していれば、教師の気持ち的には坂崎支援だろう。
「もとはそれほどうるさくなかったんですけど、ここまで大きくした原因はわたしにあります」
「そうか。じゃあ、ちょっと話を聞くから職員室へ来い!」教師はあごをしゃくる。
「あ、おれも行きます」おれは手を上げた。「おれの余計な一言で騒ぎになりましたから」クラスの数名が納得顔でうなづく。おい! そこは支援するところじゃねえのかよ!
おれの前の席にいた藤原が素早くささやいた「おっ。彼女を助ける白馬の王子様か。もしかしてさっきの独り言もわざと?」
おれは藤原を無視して立ち上がった。羽黒はそしらぬ顔で席につき、おれからも坂崎からも目をそらしている。
それたちはそのまま教室を出て並んで職員室に向かった。
*
職員室でのお説教が終り、おれたち二人は反省のために廊下で一時間立たされることになった。おれたちは職員室の壁を背に、手を水平に伸ばせば届くくらいの間隔で並んだ。廊下におれたち以外だれもいなくなると坂崎はおれを見ず正面を見つめたまま言った。
「また助けられちゃった。ありがと」
「腐れ縁だな」
「本当にあの独り言はわざとじゃないの? あの場を収めるすごい機転だなって感心してたのに」
「いや、偶然だよ。おれ、敵を作るのは嫌だし。なるべく穏便に済ませたいし」
「チキン」
「ま、そうとも言うけど」
「ごめんなさい。つい、言っちゃった。わたし、こんなことを言える立場じゃないのに」
「気にしてねえよ」
坂崎は沈黙した。しばらくおれもそれに付き合ったが、沈黙はおれには辛い。またいろいろなことを考えてそれがだだもれになってしまったら、大変だ。おれはなんとか話題を見つけようとした。
「昨夜言ってたことだけど……」
「なに?」
「透明人間って大変?」
「もう慣れた」
「誰かに相談しようとは思わないのか」
「ふふ」坂崎は面白そうに笑った。
「もし昨夜みたいなことがなくて、わたしが突然山前くんに実はわたし透明人間なんです、って言ったらどう反応する?」
「う。まあ、坂崎ってこんな痛いやつだったんだな、と思うだろうな」
「でしょ。透明人間なんて、うかつに明かせない。次の日から学校いけなくなっちゃう。わたし、学校好きだから」
「でもそこは上手にきちんと説明してだな」
「どう、上手に説明するの。嘘つきじゃなかったら目の前で透明になって見せろって言われるに決まってる。実際に服着て透明になってみせたら首なし人間みたいじゃない。みんな裸で逃げ出すよ」
そこは裸じゃなくて裸足だろう。
「いや坂崎なら、委員長ならできるんじゃないか。他の誰でもなく、委員長が言えばみんな聞くかも」
「ほほほ」坂崎はおかしそうに笑った。その笑い声はおかしそうだが楽しそうではなかった。
「やだ。委員長がみんなの人気者って、どこのアニメの世界よ」
「わたしたちのクラス、見てたらわかるでしょ。みんな口ではぶつぶつ文句をいうけど、みんなやる気なくて、委員長なんて押し付けられただけ」
「え、でも噂では坂崎はクラスで成績上位だから委員長になったって」
「ははは」坂崎は手のひらを顔の前で降りながら言った。「だれ? そんなデマ流したやつ。わたし成績は中くらいだよ。成績上位者リストに張り出されたことある? わたしたちのクラスで本当に成績いいのは中田和香奈さん。オールAの中田。彼女は最初から栄光大学目指してるって」
「え、うわさか?」
「井伊先生にきいた。学級委員だと先生とおしゃべりする機会があるんだ。彼女は一般入試目指して本気で勉強してるから委員長やら生徒会みたいな時間をとられることはしないんだって。部活はどっかの同好会の幽霊部員で部活の活動時間はずっと受験勉強してる」
「ふーん」おれは納得いかなかった。
「で、話もどすけど、坂崎はクラスで人気者じゃない、と?」
「わたしのどこを見てそう考えたの」
「え、でもなんか他のみんなとは違うオーラを出してるような気がしてたけど」可愛いし。
「「違うオーラ」って浮いてるってことの別名じゃない? うん。わたしは確かに浮いてるよ。みんなと合わすのうざいし、友情ごっこ興味ないし」
わお。「鉄の女」だ。
「まゆちーの事件覚えてる?」突然坂崎はおれの顔をのぞき込んで言った。
「伊東真友子ちゃんっていたでしょ。クラスで一番身体が小さくて、病弱で、いつもおどおどしてた子」
「あ、ああ」そうだっけ。覚えていないが。
「あの子、ある日だれかに突き飛ばされてさ、打ったところが運悪くて内蔵に出血したらしいんだ」
「それで昼休み中に苦しくなって保健室へ歩いていく途中に廊下で倒れていたんだけど、クラスの誰も助けようとしなかったんだ」
「通りかかったクラスの女子は「気持ち悪い」って言って通り過ぎるだけだったし。それで病院へ運ばれたときは手遅れで死んじゃった。翌日先生が形通りのお悔やみ言って、机の上に花が飾ってあって、一週間もしたらみんな忘れてた。結局誰がつきとばしたのかもわからずじまい。クラスの友達なんてそんなもんよ」
おれは横にいる坂崎を振り返った。
「いや違うぞ」
「違うって」
「ここにおれがいる。おれは違う。おれは倒れている人を見捨てたりなんかしない」
「……」
「なにか困ったことがあるのなら、おれに言ってくれ。力になる」
おれはかっこ良く言ったが坂崎は長い間考えたこんでいた。坂崎の沈黙は明白な拒絶よりも重かった。ずいぶんたってから坂崎はぽつんと言った。
「本当ね。わかった。じゃあNINEアドちょうだい」
「おう」
「わたしもあなたの意見に賛成。だからお互いに困ったことがあったら助け合いましょう」
「わかった」
おれたちはNINEアドレスを交換した。おれは坂崎のアドレスを大事に保存した。
「こらっ! なにやっとる」
突然の怒鳴り声におれと坂崎は同時に飛び上がった。はげのおっさんがずかずかと近づき、太い指でおれたちのスマホを取り上げた。
「お前たち、校内でのスマホ使用は禁止だ。しかも立たされているときにぺちゃくちゃおしゃべりして、全然反省の色がない!」最後は断言するように言った。
おっさんは学年主任の斉藤先生だった。見上げるように背が高く、肩幅と同じくらいに胸板が厚い。学生時代は柔道かラグビーでもやっていたような体型だ。大抵の学生なら見ただけでびびる。団子っ鼻にいつも汗を浮かべている。体型も、性格も暑苦しい人だ。
「これは一日預かっておく。明日取りに来い」斉藤先生はおれたちのスマホをポケットにしまうと胸を反らせた。
*
「おや、君たち、立たされかね」
突然の声におれたち全員が振り返ると、非の打ち所のないスタイルの男性がおれたちを見下ろしていた。イメージで言えば「紳士」か。タータンチェックのスーツを着込み、にこやかに微笑んだ口からは真っ白な歯がこぼれている。入学式以来一度も話をしたことはないが、これが誰かはおれでも知っていた。
「こ、これは理事長」学年主任がうろたえた調子で言う。
「こんにちわ」
おれと坂崎は同時に礼をしてあいさつした。大佛山学院のトップ、高坂阿万里理事長だ。先代を引き継ぎ、ちょうど俺たちが入学した年から理事長に就任したそうだ。噂によるとわが町始まって以来の逸材で、実家は地元の名士でもある。大佛山学院の敷地はすべてこの理事長の私有地だということだった。
「大きな声がしたが、なにかあったのかね」理事長は学年主任に問う。
「い、いえ。通常の指導です」理事長の静けさとは対照的に学年主任はますます焦ったようにつっかえながら話した。
「そうか。君はただでさえ体が大きいから大きな声を出したら生徒が威圧感を感じてしまうよ。あくまでも理を説いて反省に導く指導をしてくれたまえ」
「は、はい。わかりました。しかしですね、あのはみ出し館の連中の友人で」
「斉藤くん」理事長はやさしい顔をした。「人にはそれぞれ立場や考えがある。意見が異なる者にラベルをつけて排斥するのはいかがなものか。意見の異なる様々な者たちが同じ社会に共生することが望ましいのだよ」
「し、しかし、それでは学院の規律が」学年主任はなおも何か言いたそうだったが、理事長の一瞥を受けて黙り込んだ。巨体が縮こまったように見えた。
理事長はおれたちに鷹揚に手を振って言った。
「若いと色々反発することもあるだろうが、何事も経験だ。立たされる、ということすら糧にして大きく成長してくれたまえ。はっはっはっ」
入学式で聞くような歯の浮いた決まり文句だが、このおじさんが言うと嫌味にならない。きれいに並んだ白い歯を見せながら、高坂理事長は廊下の奥に去ろうとしたそのとき。
「理事長。今年度の生徒会予算案ですが、あら」理事長の背後から流れるような黒髪が登場した。正確には黒髪の少女だが、黒髪そのものが現れたかのように、それくらい髪の毛が印象的だった。坂崎ほど白くはないがナースのように清潔感のある血色の良い肌。ぴん、と伸びた背筋が実際よりも背を高く見せている。普通、女子生徒はショートヘアでない限り髪をゆわくのが校則で決まっている。三つ編みにもツインテールにもしておらず、背中まで流れる髪を伸ばしているのは、特別許可を得た学年中上位三位以内の成績優秀者かつ素行優良者の印だ。ステージの上に登ることが多いのでよく見る顔だが、これは誰だったかな。ええと。
「おや麻生くん。いつも仕事熱心だね、ありがとう」理事長がにこやかに黒髪を迎える。
そうだった。麻生小夜子。大佛山学院生徒会会長、だったと思う。生徒の模範。麻生はそのまま話に割り込んだ。
「理事長。部活動予算ですが、昨年度の繰越金が例の件でまだ不明瞭なので予算を組むことができません。早急に調査をお願いします」
「ああ、そうだったな」理事長はにこにこして答える。切れ長の目でじっと理事長を見据える麻生。人望のある社長と敏腕秘書、という感じだ。
(やっぱり人徳だよな、人徳。「こらっお前ら!」とか怒鳴りつけるよりも人徳で人を導く。そうでなくっちゃ)
おれは考えていたが、ふと気づくと学年主任がおれをものすごい形相で睨んでいる。
(山前くん。声が漏れてる)小声で坂崎が教えてくれてはっと気付いた。
また、考えていることを口にしてしまった!
麻生はいまさら気付いたかのように口をあら、という形に動かしておれたちを見た。切れ長の目が心なしか見下しているように感じる。整った顔の表情からはなにを考えているかは読めない。そう思ったところでさくらんぼのような唇から声が発された。
「あら、ごめんなさい。気が付かなかったの。話に割り込んでしまったようね」
前言撤回。すごいいい人みたいです。見下しているんではなく、単にそういう表情の人なんだろう。
「あ、大丈夫です」おれはにやにやとした顔で答えた。心なしか隣の坂崎がおれをにらんでいるように感じるが。
「どうせ立たされていたし」
「それじゃあ」理事長は麻生を引き連れて去っていった。学年主任があわててその後を追った。おれたちは礼をしたまま一行を見送った。