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凡庸ギター少年と車椅子少女

作者: サラダ

 四月一日。そこは自分の部屋だった。何もしないわけにはいかないのでギターを眺めてみたが、手を伸ばしたいとは思えなかった。それでも自分の心をどうにか静まらせて、ギターに触れる。音を鳴らす。聴いたあの曲とは全くの別物が出力され、耳の中を引っ掻き回す。それは、原曲を貶める醜い音だった。

 手を止めると、音は徐々に減衰し、やがては消えた。その音をもう覚えていない。あまりに汚かったから。

 ああ、この春、俺は何をするんだろう。何もできやしないか。いっそ結果だけ教えて、俺を六月まで飛ばして欲しい。でもそんなことはなおさらできるはずもなくて、今日という日もどこかの一ページに確と挟まって、結局は今後もずっと続くのだ。目の前には只々、茫漠な時間がどうしようもなく横たわっていた。







 三月十五日。何度か来たことのあった楽器店。底冷えする寒さが涼しい春風に変わりだす頃。ギターを買った。過去に吹奏楽部に所属していた経験を生かせば、こんな平凡男子高校生にも特別が手に入ると思ったのだ。


 模試の帰りに大阪のCDショップまで行った時に、たまたまインストアライブをやっていたシンガーソングライターがいた。

 人気アーティストであればCDを買った人だけが見られるライブだったのだろうが、売り出し中というものだったのだろう。誰でもそれを聴くことができた。

 音楽は好きだった。先が分からないから。人の意思を強く感じるから。そして、自分には作れないから。そんな俺に彼女の声は突き刺さるように響き、届いた気がした。だからギターを買った。胸を焦がすような憧れは、少しだってそれに後悔なんかないよな、と俺に伝えてきた気がした。


 だがそれも結局は幻想で、所謂(いわゆる) “弾いてみた“ を目指した俺は直ぐにネットの海の才能たちに潰されて自信を失った。部屋の隅にあるギターには手が伸びなくなっていって、遂には只のインテリアと化した。俺のギターはそうやって終わった。そのシンガーソングライターの曲には多くのコメントがついていた。


 その時も、それからも、学校が始まる日の朝も、結局はこんな停滞した日々が無限に続くと思っていたのだ。




 四月八日。朝。桜が舞っていた。ということは風が吹いているのだ。

 俺は、少し見慣れない景色を通り過ぎていた。

 今年でもう三年生、年度初めの始業式。折角だしいつもと違う風景が見たい。そう思って、少し遠回りして裏門へと歩いていた。それでも時間には余裕がある。むしろ早すぎるぐらいだ。


「始業式だからって早すぎか……」


 学校はまだ過疎状態だろうな、と思いながら、イヤフォンを装着してスマートフォンに目を向ける。あの曲だ。別に俺が何者という訳でもないのに、増えていく再生回数に心臓がドクドクと音を立てる。


「……やっぱ、この曲、最高すぎるだろ」


 よく考えると、割と過激な歌詞をしている曲だ。でも共感できて、苦しくて、今一番好きな歌だ。共感止まりならまだいいのかもしれない。しかし、まるで自分が作ったみたいに思えるなんて、やっぱり俺は凡人以下で怠惰な奴なのだろう。どうせ俺はこれからも当たり前のような日々を、脱色され切った平凡な日々を続けるのだろう。新しい教室で新しい教科書を受け取り、メンバーの入れ替えが起きたクラスメイトと授業を受ける。俺こと佐藤智明の高校生活なんて、つまらなくて音楽にも小説にもできやしない。そんなことを考えていると鳴り響く曲が目眩しくて止めてしまった。

 同じ景象に参っている。判で押したような日々の中に、ずっと変化を求めていた。


 前方に人影が見えた。


 石畳の彩度が揺らぐ。タイヤが回る音がする。


 その人物は、車椅子に乗っていた。

 桜の花びらが舞い降る道を、ゆっくりと車椅子の車輪を転がして進んでいる。車椅子の背もたれから少しだけ頭部が見えた。

 少し乱れて膨らんだ髪の毛が高度を作っている。

 真っ直ぐに進んでいる。手はブレずに動き続けている。力強さを感じた。"車椅子"なんてイメージにはまるで似つかない感想だけども。一瞬かどうかも分からないその一コマの中、吹く風は鮮明で、光の差し込む気配も違って感じるほどに、俺は何故かその車椅子の人に心を奪われていた。


「あぁ……」


 そうやって意識を向けていたからだろうか、微かに声が聞こえてきた。車椅子のその人は上を見上げて、くぐもった唸り声を漏らしていた。

 学校への道の途中の、少し急な傾斜の坂がそこに在った。

 その人の操作する車椅子のタイヤの音だけが聞こえる。登るのを助けるべきなのだろうか。分からなかったから体が硬直した。

 けれど、俺がアクションを起こす前に、車椅子の車体がゆっくりと回った。先程とは違って、まるで頼りなく、他の誰かの存在を探しているかのように回った。

 振り返って俺を見つけたのは一人の少女だった。目が合ってしまったので俺は足を前に進めて話しかけた。


「……登るの、難しそうな感じ?」

「……」


 同じ学校の制服だ。しかし、胸ポケットに学年章を着けていないし見覚えがない。新入生なのだろうか。車椅子を後ろから押す時に介助人が握るグリップの部分には、小さなスヌーピーの人形がぶら下がっている。その少女はスクールバックを肩にかけて膝に乗せ、タイヤの横に付いたハンドリムを握りながら口を真一文字に結んで俺の方を見ている。黙秘権の行使は全国民に認められてるけど、こうも鮮やかに無視られるとやっぱり来るものがあるわけで。というか、先に振り返ったのはそっちじゃないか。


「……わかりません」


 相変わらず俺をじっと見ながら黙り込んでいた少女が、何の拍子にか一言だけ声を発した。声色は何故か少し震えていたが、それを表に出さないようにして振舞っているかのように見えた。視線は真っ直ぐで背筋はぴんと伸びているんだ。強がり、そんな言葉が意味も無く脳裏に浮かんだ。


「なら、手伝った方がいいか?」

「ありがとう、でも一人でやってみます」


 そう言って彼女は背中を向けた。そう言うのなら、どうするのか見ておいてやろう。そう思って俺は少女の後ろをゆっくり歩いて行った。

 彼女はハンドリムを握る手に力を込めて、坂に挑みかかった。

 しかし、車椅子の進みは無情にも重力に負けてしまう。

 ゆっくりと、進みが遅くなり、速度は逆転した。


「あっ!」


 少女はタイヤを押さえようとするが間に合わず、音を立てながらかなりの速度で滑って来る車椅子を、俺はぶつかるように受け止めた。


「ご、ごめんなさい!だ、大丈夫!?」

「いや、全然……てか、そっちこそ大丈夫そう?」


 無事に停止した車椅子。それでも傾きに従って回転しようとするタイヤを、俺はグリップのブレーキで押さえつける。中学校の頃、全生徒が交代で車椅子で過ごす車椅子体験というイベントがあった。その時の体験が役に立った。


「助かりました。……手伝おうとまでしてくれたのに、迷惑かけてごめんなさい」

「あんまり無茶しない方がいいよ」

「……はい」


 まあ無事そうなら良かった。にしても驚いた。多分、人生で二度と出会わないハプニングだ。気落ちしている彼女に指示を仰いで、俺は車椅子を方向転換させ、グリップから手を離した。


「もうちょっと緩やかな道から行こうと思います。助けてくれてありがとう」

「俺が後ろ押してってあげようか?」


 調子に乗っていただろうか?でも、親切心もあって俺は彼女にそう提議した。彼女は少し驚いたようにして口を開いた。


「そこまでは迷惑かけられないです、でも、本当にありがとう」


 ぺこりとお辞儀して、少女は道を戻っていった。

 多くの学校と同じく、津波対策ということで高台に置かれているこの学校は、裏門から行くと急な坂があるが、正門は比較的なだらかだ。俺が今日裏門の方から登校したのも、普段通らない道から非日常を感じたいと思ったからであって、ふつうは正門から登校する人が多い。なんで車椅子の彼女がわざわざこっちから登ろうとしたのか分からないが、俺は彼女の後ろ姿を見つめていた。そして、もう一度坂を見る。

 急な坂とはいえ、普通の人にはなんてことない坂も、彼女には越えられない坂だ。


「こんな普通の公立の学校で、大丈夫なのか?」


 エレベーターもないのにな、と思っていると、後ろから人が来ているのを感じた。イヤフォンを付け直して学校に向かう。そして、さっき気づいて気づかないふりをした()()を思い出す。


 (……見間違いかな)


 俺がグリップから手を離した時。彼女が車椅子のハンドリムを掴み直した、たった一瞬のこと。

 俺に「ありがとう」と言って裏門を諦めた彼女が、折れそうに細い手首でハンドリムを、縋る様に、しがみ付く様に強く握っている瞬間だった。




 学校。靴箱で履き替えて、俺は新しいクラスに向かった。

 これから一年間お世話になることになる3-3の教室に向かう。

 半開きの引き戸をガタガタと音を立てて開けた。中には数人の生徒が居て、ノートに手を動かしていたり立って話をしていたりする。皆知ってる奴だ。三クラスしかないこの高校において、大体の顔と名前はすでに一致している。


「佐藤、お前が早く来るとは珍しいな」


 話しかけてきたのは、友人の加藤。


「加藤、また同じクラスか」

「これで十二年連続ってわけだ」


 加藤とは小学校の頃からずっと同じクラスだ。奇跡的な確率である。


「また一年よろしく」

「こちらこそ」


 俺はそう返して、加藤の机を見た。開かれたノートには数字の群れ。うわぁ、勉強かよ。そう思いながら俺は隣の席に座った。初日の席は自由らしい。やることもないので加藤のノートを覗き込む。


「cosθ+isinθ+1を極形式にせよ……極形式って字面怖いよな。極刑みたい」

「お、いい問題に目をつけるじゃん。これはさ……」

「やだよ聞きたくない」


 勉強オタクなこいつは、全青春を勉強に注いでいる。無差別に問題を解説してくることで有名だ。捕まったら酷い目に合う。


「じゃあこっちは?1/(x^4+1)の積分」

「……積分って何だっけ」


 俺の頭の悪さに項垂れる加藤。わざと勉強の話題を振ってこいつを弄ぶのは結構楽しい。それにしても、文系になればよかった。数Ⅲや数Cなんかと決別できるんなら。

 と、引き戸を開けて一人の男子が入ってきた。


「よう公平、おはよう」

「おう、おはよう」


 多くの人からの挨拶に応えながら、その男子はドアを閉め、机に鞄を置いた。

 明るく表裏のない笑みを放つ。寺島公平。吹奏楽部の部長としてよく表彰されている男子だった。

 加藤が溜息をつく。


「公平もこのクラスかー」

「イケメンだな」

「ふざけんなって感じだよな」

「いや、そこは知らんけど」


 恨み言を漏らしながら、加藤は怨嗟の眼で公平を見ていた。いつも加藤は彼女が欲しいなどと妄言をほざいており、それ故イケメンは彼の敵である。


 クラスの人口密度がだんだんと増していく。そして、チャイムが鳴り、先生が入ってきた。一,二年の時も、時たま授業をしに来た数学教師だ。担任は「これから一年よろしくな」などと簡単に挨拶し、その後教卓に手をつき、生徒たちの顔を見回して言った。


「えー、三年生になっていきなりだが、このクラスに転校生が加わることになった」

「……転校生?」「高三でとか珍しいな」「転入試験とかどんなんなんだろ」


 クラスメートたちは周りを見回し、自然と教室が沸いていく。


「さっそく紹介しよう。入ってきて」


 担任が廊下に声をかけた。視線が教室の扉に向かい、ゆっくりと引き戸が開かれた。転校生が現れる。


 皆の視線を一身に受けて3-3の教室にしずしずと入って来たのは、車イスに乗った少女だった。病弱そうな細い手足は俺たちと比べるとあまりにも弱弱しく見え、でも存在感のある少女。車イスのグリップには、スヌーピーの人形がぶら下がっていた。俺が坂で出会った、さっきの子だ。


 両腕が車椅子を動かし、教室へとタイヤが回った。ただ少女だけがその時間の中を動く。静かな教室に車イスの軋む音が静かに響く。少女は車イスを半回転させてみんなの方を向いた。


 零すように、誰かが呟いた。


「車椅子……」


 転校生はどんな奴だと期待して教室の入り口を見詰めていたクラスメートたちは、面食らったような顔をしていた。クラス替えに重なる新たなイベントにワクワクしながら待っていたのが嘘だったかのように、何も言えずに少女のことを見詰めていた。日常で触れることのなかった、「障害」と言う二文字の可能性を考えては、別の世界に入り込んでしまったかのように困惑している。


「東京からの転校生、田中彩華(いろは)さんだ」


 そんな空気を無視して、担任は強引に話を進めた。


「見ての通り、田中は足が不自由で車椅子を使っている。とはいえ、少し不便なことがあるぐらいでみんなと大した違いは無い。結局同じクラスメイトだからな」


 先生の入れたフォローにも関わらず、俺は、田中さんが廊下で車椅子を進めている場面を想像してしまった。みんなが当然のように歩いている中、車輪を持った椅子が動けば意識はそちらに向いてしまうだろう。ただ移動しているだけなのに、視線で追ってしまうだろう。その視線の粘着自体が、俺にはひどく忌まわしくて恐ろしいものに思えた。

 周りからの薄っぺらい興味と疎外感が取れない傷跡となって永遠について回ると思うと、ずっと苦しみ続けるんだと思うと、安全地帯なんてないように感じる。

 そして、その原因が自分の足にあるのなら、どれだけ醜く目に映ってしまうのだろう。

 

 教室内は何とも言えない空気に満たされていた。クラスメイトたちは戸惑い気味にひそひそと小声で喋りだした。小さなざわめきが、さざ波のように教室中を行き交う。


「……怪我してんのかな」

「めずらしー」


 車椅子をまったく知らないわけではない。見たことが無いわけでもない。でも、それは街でたまたますれ違ってそのまま通り過ぎる程度の関係性だった。一部の人は車椅子体験なんてのをやったこともある。でも、実際に車椅子で生活している人と直接関わるわけでは無かった。それが、今日からクラスメイトになるのだ。自分と同じ学校、そしてクラスに、車椅子の身体障害者が転校してくるとは思ってもいなかった。ざわめきが聞こえる教室で、俺は田中さんのことを見つめていた。


「はい、君からも挨拶して」


 担任がそう促した。田中さんは頷き、みんなの顔を見回した。背筋を伸ばす。


「私は……」


 その時、田中さんと俺の目が合った。びっくりした。田中さんは驚いたように目を見張っていた。

 そして、彼女は目を全体に向け直して大きく息を吸い込み、自己紹介をした。


「東京から来ました、田中彩華です。みなさんには色々と迷惑をかけると思いますが、よろしくお願いします」


 田中さんは膝に手を置いて、深々と頭を下げた。小さな声だけどよく響いていた。


「みんな仲良くなー」


 担任が拍手をして転校生を迎え入れ、それに釣られるように俺たちも拍手をする。


「それと、田中は階段の上がり下りも一人では出来ないし、トイレに行くのも難しい。だから困っている時は同じクラスメイトとして助けてやってくれ」


 車イスに座る彼女に視線が集まって、居心地悪そうに田中さんは目を下に向けた。いや、俺でも絶対居心地悪い。みんなにとって自分が迷惑かもしれないって感じる時が一番堪えるよな。


「それじゃ次、配布物配るぞー」


 そう言って先生は話を切り上げ、プリントを配り始めた。田中さんは先生に言われ、扉の近くの席に向かっていった。近くの席のクラスメイトが、よろしく、などと話しかけている。

 彼女の席は予め椅子が撤去されていた。彼女は自分の席に車イスごと納まっていた。もし俺が田中さんだったら、今どんな気持ちなんだろう。他のクラスメイトとは違う彼女に、俺はこれからどう接していくのだろうか。階段を登るのを助けることが俺にできるのか。

 前から配られたプリントを後ろに回す。体感では少なく感じて、枚数は足りたか少し不安になりながら、目を向けるとそれは保健調査票だった。健常かどうかを問う質問。まだ書き込まれる前の空欄が嫌にでかく見える。こんな軽い紙でさえ、激しくたった一人を弾く。

 裏門前の坂で会った彼女を、遠く感じた。


 その後の自己紹介で、俺は無難に名前に加えて好きな曲と好きな本を話してよろしくと締めた。もちろん好きな曲はあのシンガーソングライターの曲だ。誰にも伝わらないだろうけど、それ以外ありえなかった。自称何々とか言ってないとやってらんないんだ。田中さんも、二度目な気もするが、自己紹介の番が回ってきた。


「田中彩華です。好きな漫画はピーナッツ、スヌーピーの漫画です。一年間よろしくお願いします」


 好きな漫画でスヌーピーが出てくるとは思わなかった。と言うか漫画だったとさえ知らなかった。四コマ漫画とかなのだろうか。読〇新聞のコボちゃんみたいな。


 といった具合に、俺の三年一日目は終わりを告げようとしていた、のだが。




「あのさ、佐藤君」


 放課後。小さいけどよく通る声が俺に向かって投げられた。つまり田中さんが俺に話しかけているってことだ。

 朝と比べるとちょっと柔らかい喋り方だな、てか俺、この子の事助けたんだよな……、なんて無駄な考えばかりが回る頭の中。いや、こういう時なんて答えればいいんだっけ。


「えっと、田中さん……?」


 ―――コミュ障にもほどがあるだろ、俺。もっと普通に答えろよ。


「朝、助けてくれてありがとう」

「それはどうも。気にしないでいいよ」


 本当に律儀だ。だが要件はそれだけではないらしい。田中さんは再度口を開いた。


「あとさ、あの曲……自己紹介で言ってた曲、私も好きなの」

「えっ、マジで⁉」


 田中さんが⁉俺は驚愕して田中さんに詰め寄った。


「まだ十万再生も行ってなかったと思うけど、マジで知ってるの⁉」

「うん……あの、ちょっと、声大きい」

「あ、ごめん」


 いや、だってどうせクラスの誰も知らないもんだと思ってたからさ。やばい、めっちゃ嬉しい。曲の良い所とか話しまくりたい。


「やっぱ、ギターがいいよね」

「わかる!夢中で弾いてる感じがしてめっちゃ刺さるんだよな」


 あのギターの音色が、重なる音が、俺にはひどく鮮やかだった。それを共感してくれる人がいたなんて。話が弾む。田中さんも俺と同じくかなりの傾倒具合だった。やっぱり聴いた人には分かるんだろう、この良さが。


「……もし大丈夫だったらなんだけど」


 ふと、田中さんが意気込むような顔を見せた。


「学校案内、してほしいです」




 その後。何というか、田中さんが思っていたよりアグレッシブだったので驚きはしたけれども、断る理由などあるはずもなく、一つの共通の話題を持った俺たち二人は学校を歩き回ることにした。

 一階の端っこにある保健室や、避難訓練で火元となることでおなじみ理科室などを見せる。見慣れた光景だが、曲の話をしていれば退屈にはならなかった。


「で、ここが音楽室」


 扉がすっと滑らかに開いた。たくさんの肖像画や大きなピアノ、いくつかのギターが並んでいる音楽室。真っ白な壁には均等に穴が開いており、窓からはよく晴れた青空が覗く。

 入口の小さな段差を乗り越えて、俺たちは中に入った。


「わ、ギターだ」

「うちの学校、ギターマンドリン部が有名で、それもあって置いてるんだと思う。文化祭とか特に凄いんだ」


 そう言いながら俺は、興味津々そうな田中さんを見る。教室で一人ぼっちの様に見えた時と違って、生き生きとしていて嬉しくなる。ギターの種類なんかを呟いている彼女は、少し魅力的に見えた。


「でも私、ギター弾けないから憧れるなぁ」


 種類とかだけは無駄に詳しいんだけどね、と笑う田中さん。車椅子の上だと弾きづらそうだ、と思ったが口には出さなかった。


「俺、ギターちょっとなら弾けるよ」

「えっ、本当」

「まあね」


 やっててよかった。初めてギターに意味が付けられた気がする。少し自慢げになりながら言った。


「あの曲を聞いて始めたんだよね。近くの楽器屋で買って」

「へぇ、すごい」


 実際のところ俺はただの初心者で、コードさえも忘れるところばかりだ。その上、最近は練習もやめてしまっていた。でも、同じ趣味を抱える彼女に、すごいと思ってほしかった。


「まあとりあえず学校紹介はここで終わりかな。1階より上は俺だけじゃ移動手伝えない気がするし」

「……本当にありがとう、佐藤君のお陰で楽しみになってきたかも、学校」


 そう言って田中さんは笑った。眩しい笑顔だった。俺は直視するのが難しくて、少しだけ顔を逸らした。


「そういえば、文化祭があるって言ってたけど」


 思い出したように田中さんは口を開く。


「え、ああ、クラス展示とか、文化部のパフォーマンスとか、それに有志のライブとかあって結構楽しいよ」

「ライブ……佐藤君は出るの?」

「俺は……」


 出るわけがない。ていうか、出れるわけがない。いつもみたく反射的な否定、防衛ラインが反応した。

 だって当たり前だ。俺は碌に努力もしてないし、バンドやライブにとって俺は観客でしかないから。


 そういえば昔、クラスメイトに「佐藤、一緒にバンドやらね?」と誘われたことを思い出す。

 ギターを買う前。それどころか一年生の一学期。妙に現実感がなかったことを覚えている。そこでOKすべきだったのに保留にしてしまった。アニメ化が失敗したラノベの様に、無理に形にしたばっかりに残念で終わってしまうのを恐れたのだ。

 そしたらいつの間にかその話は空中分解していた。メンバーが集まらなかったらしい。


 それ以降の高校生活だってそうだった。何となく吹奏楽部に入った。パート割も望み通りだったし、みんな優しくて良い部活だった。けれど、自然と部員は二つのグループに分かれていた。市民楽団にも所属するような格好いい奴ら。練習もせず喋ってたり、上達が遅かったりして主戦力になれない奴ら。俺は後者だった。憧れを実現している。そんな目、強く真っ直ぐ響く音が、自分の存在をぐらつかせた。だから嫌気が差して辞めた。結局ワナビでしか無かった。


 頭の中では何度でも描ける。けれど現実は貴重だった。だからその価値を台無しにしたくなかったし、だから悔やむしかなくて諦めきっていた。努力が無駄になるのはまだ良かった。でも、自分が無駄な人間でしかないって気付くのが何よりも怖かった。実現できないって分かってしまったらそこで終わりだから。そうやってずっと、全ての青春を取りこぼしては無駄にし続けてきたんだ。


 でも、今日の心象風景はそれだけじゃないらしい。

 少しだけ、すごく見られたい。そう思ってしまった。

 曖昧な表現ならいいかなと思った。あの曲の話でしか俺たちは繋がれないのなら、ギターができない俺の価値はいずれどうなってしまうのか。それが怖いから。

 腹に泥が溜まったような感覚がした。俺は口を動かしてしまう。


()()()()()()()、と思ってる」


 いつの間にか嘘をつくことに抵抗がなくなっていた。 


「え、すごい!」


 田中さんは驚きと期待のこもった目を俺に向けた。その視線が痛かった。やらかした、と思った。


「スタジオとかレンタルするの?一回2、3000円はするって聞いたことあるけど」

「ま、まあ、そんな感じかな」


 やばい。どうしよう。もう引っ込みがつかない。

 だから、俺はここで行き当たりばったりに決意をした。


「まだ、出場予定って感じなんだけどさ。

 とりあえずの間はここで練習しようかな、って思ってて」


 六月頭、文化祭までに上手くなって、この音楽室で、田中さんの目の前であの曲をギターで演奏して、その後に嘘をついてごめんって言うのだ。そうすれば、努力したって分かってくれる分、許してくれるんじゃないだろうか。


「応援してる!」


 田中さんが笑ってそう言った。


 こうして、俺の高校三年生の春はギターに費やされることが決定した。とりあえず今は、文化祭の出場申し込みの期限が過ぎていることが田中さんに気付かれないよう祈るばかりだ。




 四月十日。


「おい田中、テスト終わったな」

「そうだな、本当に終わった」


 もはや真顔で加藤にそう返す。多分過去一の結果になる予感がするのだ。悪い意味で。

 でも、春休みの膨大な課題から出されるテストは暗記ゲーに近しいものだった。数学や理科はともかく、古文漢文や英語の長文を丸覚えしたところでどうせ忘れるのがオチ。だったらしてもしなくても一緒だ。だから大丈夫。別に本気でやればできないわけじゃない。……そうやって俺は自分を保っているんだろうけど。


「おいおい受験生、そんなんじゃやばいんとちゃいます?」

「うるせえ、地理は完璧なんだよ」

「そこだけできてもなあ」


 耳に痛いお小言を聞き流して、俺はするりとバッグに手を伸ばした。ギターの入った縦長のバッグを担ぐ。


「ギターか?やってた覚えはなかったけど」

「ちょっと理由があってこの春だけやるんだよ」


 その理由は完全に自分の愚かな過ちにあるわけだが。阿呆すぎてもはや笑えてくる。


「じゃあまたな」

「おう」


 音楽室に向かう。エレキギターとはいえそこまでの重さではないが、大きさが大きさだ。セミハードケースに背中を占領されながら向かいの校舎へ歩いていくと、窓越しに音楽室の中に誰か居るのが見えた。


「……お疲れ」

「お疲れ様」


 田中さんだった。いや、なんで居るんだよ。


「私放課後はいつも暇だから、来たんだけど……邪魔だったかな」

「いや、そんなことは無いよ」


 実際はかなりヤバい。初心者当然のギターを聴かれたら完全に嘘だったって分かってしまう。かと言って、今更「一人でやりたいから出て行ってほしい」なんて言えるわけも無い。しょうがなく、俺は背負ってきたギターをじゃんじゃんと鳴らし始めた。へったくそだ。特別に振り回されてる俺が一番ダサいよな、と思いながらも必死で弾く、あの曲を思い出しながら。


「すごい、格好よかった」


 だが、田中さんは褒めてくれた。アンプに繋がないとはっきりと音が出ないから、意外とうまく聞こえたのだろうか。或いは、壁一面の有孔ボードが要らない音を吸い込んでくれたのかもしれなかった。 ……でも、なんか無性に嬉しい。


「いや、今はめちゃくちゃ下手くそだよ、でも文化祭までに絶対上手くなるから」


 それは、下手な言い訳というよりも自分への宣言という面の方が大きかったかもしれない。

 自分にもできることがあるらしい。だから頑張ろう。少しだけそう思えた。




 四月十五日、土日の間もギターを試行錯誤して迎えた月曜日。やっぱりその日も田中さんは居て、俺たちは音楽室でさほど上手くないギターを聴きながら話をしていた。

 車椅子についての話も、遠慮することなく、かと言って勿論絶対に傷付けることは言わないが、普通に話すことができるようになっていた。日常で困ることや、全力で漕いだらどれぐらい速いのかについて。 あと、後ろから誰かに押されることが意外にも酷く怖いってこととか。

 普段、段差などで困っている時には力を貸している。一人では五センチの段差も登れないことを知った。この()()()()()()を少しは理解してあげられていると思った。だから、田中さんが周囲からの視線とか、障壁だらけの自分の人生とかに苦しんでいるなら、それを共有してあげられる(自分と重ねられる)と思ったんだ。

 そうやって、特別には成れない俺はなんとなく誰かの価値になれているってことに満足しながら、それを手放さないように必死で練習を続けていた。




 四月二十日。親に遂に怒られた。課題考査の結果が見つかったのだ。ギターが家ではできなくなり、勉強漬けが始まった。あまりにも分からないところがあってびっくりした。みんなは既に始めているのに、凡人以下の俺がやらないで成功するわけがなかった。




 四月二十二日。勉強から逃避するようにギターに放課後を詰め込んだ。逃避することに躊躇いは無かった。ただ、少しの劣等感を感じた。それでも俺にはギターがあって、それで償却できてるんだったらそれでよかった。それぐらいには俺に必要になってたんだ。何故かは分からないけれど。


 あと、その日の夜に夢を見た。顔も無い誰か(のっぺらぼう)が俺のことを馬鹿にして、そのくせ興味なさそうに消えていく夢だ。一生、一笑に付されたまま暗い所で枯れていく。どうしようもなく凡庸な俺だ。夢なんか見るもんじゃないな、と夢の中でさえ思っていた。




 四月二十三日。この日も音楽室だ。田中さんが口にした言葉。


「私もギター、やってみていいかな」


 希望と不安を孕んだ声、そして意志を感じる眼が印象的だった。俺はギターを買いに楽器屋に行った時を思い出した。真っ暗な闇の中で一歩目を踏み出すような、逡巡と覚悟だった。


 田中さんにギターを聴いてもらうのは楽しい。だって、上手い演奏ができるようになればなるほど、俺は自分を肯定できるような気がしていたから。田中さんに認められることで、このどうしようもない自分が何者かになれる気がしてひどく心地よかった。だから、田中さんともっとこのギターの音色を分かち合いたかったし、技術を教えて尊敬されたかったし、いつか二人で一緒に弾ければそれはまるでバンドみたいだと思って胸が躍った。



 俺よりも上手かった。



 田中さんには俺と違って、音楽の、ギターの才能があった。 圧倒的に。

 いや、今はまだ勝っているだろう。でも、来週は?再来週は?

 俺は、田中さんに負けるのか?なら、この練習の意味は?何もできない俺が勉強を捨てて今しているこれの意味は?最悪じゃねえか。それだったら俺のギターに意味はなくなる。田中さんに負けるなら。車椅子で弾き辛そうなのに―――


 堂々と飾られた一級品のギターじゃなかった。俺が一年の頃に授業で使った安物のおんぼろギター。音楽室の片隅にある量産品。それがきれいな音を鳴らしている。

 俺はそんなことできなかった。自分で買ったギターでさえ、何十倍もの時間が必要だった。俺が俺の理想を追い求め、いずれ諦め、妥協しながらようやくある場所に辿り着いた時、田中さんは遥か先に居るのだろう。


「すごいねこれ!めっちゃ楽しい!」


 そう言って笑う田中さんのためにギターがあるんだと思ってしまった。


 だから俺は最低なんだ。意味がないと分かった瞬間、逃げ道を探そうとする。何か諦める理由はないか探して、すぐに諦める。何もやってないやつが同じ土俵に立って偽って()()()()()ふりをするのが一番痛ましいと思うから。

 できないのに手を伸ばすんだ。だから、届かないことを何度も知ってしまう。直視してしまう。自分と憧れの距離を。

 手元のエレキギターが証明してくれるはずの努力は、空白に塗り替わっている。そうして意味を失った自分の線引きが、雑なラフ画の様に曖昧になっていく。ほつれて、隙間が空いて、境界は消え去って自分のテリトリーが狭まっていく。その苦しさの所為で一揆が起きて、希望を捨てろ、努力を辞めろと愚かな領主を責め立てる。


 ぐしゃりと音が鳴った気がした。潰れて、そこから自分の汚い部分がどろどろと露見した。その場の状況全部を放り投げ、逃げるようにして帰った。


「こんなこと聞くのも野暮だけどよ、田中とお前、デキてるって噂あるけど本当なのか?」


 だから、翌日に加藤がそう言ったのに反応して田中さんと距離を取るようになったのは、結局は俺の弱さのせいだと、分かっていた。やる気が失せていたんだ。みっともなく。


 四月頭、あの日の俺と一緒だった。





 価値、価値、価値、音を立てて時計の針が俺を置き去りにしながら進んで行く。





 五月二日。ゴールデンウィーク真っ盛りの間にぽつんと置かれた平日は、休日中の旅行などの会話で溢れていた。俺は特に何もない。適度に勉強をしたくらいだ。あれ、これじゃあ田中さんと一緒にいたときの方が頑張ってるような気がする。なんで頑張れたんだろう。でも、結局はあんな風に頑張っても意味無いよな。勉強の方が大事なんだから。

 どうせできないんだから。


 なのに、気づいてしまった。


「おい、押しすぎだろ」


 廊下の先。男子の声。スライドするようにあっけなく滑っていく車椅子。


「車椅子カーリングとか見つかったらやべえだろ」

「一瞬ちょっと押して遊ぶだけだよ、本人も誰が押したかは分かんねえだろ」


 ―――やっぱ、ギターがいいよね


 ―――学校紹介、してほしいです


 ―――佐藤君のお陰で楽しみになってきたかも、学校


 瞬間、幾つもの声が鮮明に戻ってきた。それらは頭の中でぐるぐると回り、消えることなくしっかりと頭の中に残った。それでも俺は、その時男子たちに何かを言うことはできなかった。ただ、田中さんを見るだけだった。何もなかったかのように、しっかりと車輪に手をかけて進んでいく田中さんの背中を。


 ギターは嘘だった。けれど、これも嘘にしてしまうのか。


 自分の中の何かが泣き出しそうになっているのを感じた。

 俺は同じになりたかった。価値のある奴らと。でも、結局俺は、すぐに剥がれ落ちたそれを目障りに感じているんだ。


「田中さん」


 下校中、正門の近くで出会った。歩道に影法師が伸びきっている。まだ話す内容も決めていない。ただ、田中さんの背筋はぴんと立っていて、俺の方が無様だった。


「あ、佐藤君」


 手を止めて田中さんは俺の方を見た。何もない時間が流れる。


「本当にごめん」


 頭を下げれるだけ下げた。一生分使い切るぐらい。


「音楽室に行かなかったのは、俺が馬鹿で、弱いからだ。

 ギターが下手だからって、すぐに逃げて、最低なことをした」


 田中さんの気配は動かずそこにあった。


「でも、田中さんともう一度、ギターをしながら話したい」


 文化祭に出るって嘘だって、今日見た最悪な光景だって、全部変わらないままだ。

 でも、このままの自分をそのままにしたくなくて、ひとつひとつ変えたいと思った。


「いいよ、そんなに真剣に言ってくれるなんて」


 田中さんは微かに笑って言った。


「一緒に帰ろうよ」




 正門から田中さんの家の方へ向かう。裏門の坂の下にあるらしい。俺たちは緩やかな道を進む。たわいもないことを話しながら、俺はちらりと田中さんを見た。いつもと変わらないように見えた。

 劣等感。田中さんにギターで負けた日から、いや、ネットの音楽の海に吞まれた日から、それ以前からも俺がずっと感じてきたもの。俺が田中さんだったとしたら、あんな目にあったらどうだろう。俺なんかよりよっぽど辛いはずなのに。足の所為で出来ないことなんていっぱいあるはずなのに。田中さんがギターに挑戦した時の、決心の込もった目を思い出す。自分に言い訳なんていくらでもできるはずなのになんでそんなに強くいられるんだろう。


 俺は田中さんの過去を少しでも知りたいと思った。


「唐突に変な質問して悪いんだけど……田中さんはどういう理由で引っ越してきたんだ?」

「うーん……」

「あ、言いたくないなら大丈夫」

「……ちょっと長くなるんだけど」


 それは、田中さんの病気の理由、家族についてなどたくさんの根幹に関わることだった。

 田中さんは車椅子に乗った細い足を指さした。


「この足、遺伝なの。遺伝性けい性対麻痺っていう」


 足が突っ張ったり麻痺したりして、思うように動かせなくなる遺伝性の病気。

 車椅子に乗る理由は様々で、先天障害と後天障害の二種類がある。少しなら歩ける人やものすごく力んでやっと短時間立てる人、全く立てない人など様々な人がいて、完治できるものもあればできないものもあるらしい。

 俺には知る由もない世界だった。


「治療のためにバクロフェンはしてるんだけど」

「バクロフェンって?」

「筋肉がつっぱるのを和らげるための薬」


 腹部に薬とポンプを埋め込み、ゆっくりと薬液を投与するという。3か月ごとの来院が必要となる。


「まあお母さんも通った道だし。手術はちょっと怖かったけど」

「それで治るの?」

「まあ、和らぐって感じかな」


 その言い方からして、多分それは完全に治るようなものではないのだろう。車椅子に乗っているならあり得ることだった。でも、目の前の田中さんが一生自由に歩けないと思うとどうしようもなく辛かった。


「でも、それで引っ越す必要は……」

「実は、お父さんがこの前ガンで亡くなっちゃったんだ」




 俺たちの傍らを自転車が通り過ぎた。その音と生徒たちの明るく楽しげな話し声だけが、いやに大きくうるさく聞こえる。聞かなければよかったと思った。


「……そうなんだ」

「気にしないでも、もう大丈夫だよ」


 俺を見て困ったような顔を浮かべた。

 俺は今、困らせるような顔をしているのだろうか。分からない。

 でも分かることは、俺の今の感情は田中さん本人のものと比べると何処までも薄くて浅いってことだけだ。悲劇を見て外野が感じるのはあくまでもインスタントな共感。だから、田中さんの苦しみを俺なんかが理解できやしない。俺には到底抗いようのない絶望で。


「それにこの足も、遺伝だからってお母さんのせいだなんて全く考えられないし、むしろお父さんとお母さんに憧れてるの」


 田中さんは言った。


「お父さんとお母さんも、この学校に通ってた。お父さんがお母さんの車椅子を押して」


 その目に宿すのは、憧れだった。


「二人の家が裏門近くにあって、だから二人は裏門の坂から登校してたらしいの」

「だから、あの坂を一人で登ろうとしてたのか……」

「別に手伝ってほしくなかったってわけじゃなくて、これから一人で登校するならひとりで行けるかどうか試してみたくて。思ったより急で、呆然としちゃったけど」


 そう言って田中さんは笑った。俺は、坂の下でのあの出来事を思い出した。ハンドリムを握りしめていた一瞬を。内心は苦痛で溢れていたと思う。憧れの坂さえ登れない自分に対して。でも、田中さんは今、笑っている。

 障害自体を「個性」だなんて言えない。でも、それとともに生きる田中さんの在り方は、限りなく強い。

 車椅子に付いたハンドルのスヌーピーが、くるりくるりと舞うようにして揺れていた。

 風が吹いている。


「まあそこはともかく、お父さんが亡くなってお母さんは色々と介護が必要だから、支援施設にお世話になるし、私だけこっちに引っ越すことになったの」


 私がお母さんを介護できればよかったんだけどね、と呟く。田中さんのお母さんの方が症状が重いのだろうか。今田中さんが住んでいる家はお父さんの実家らしい。家を譲り受けた叔父も既に亡くなっており、叔父の奥さんが住んでいるという。


「東京の時みたく養護学校に行ければよかったんだけど、結構距離もあるし、叔母さんにこの学校に入るよう言われて、断れなかったから」

「……それは、理不尽すぎだろ」

「そんなことないよ。叔母さんも急に来た私をどうすればいいか分かんなかったんだと思う」


 でもさ。唯一頼れる人にそう言われたら断れないだろ。頼れる人は叔母さんしか居ないのに、自分の障害の事を考えてくれずに望まない学校に入れられて、多分めちゃくちゃに不安だった筈だ。

 あの日、タイヤはどれだけ重かったのだろうか。

 坂の上の学校は一体何に見えたというのだろうか。

 一切当てもなく知らない街に放り出されたような。圧し潰されて、酷く怯えるような自己喪失感。


 だから、無理にでも坂を上ろうとしたんだろ。何もできないまま学校に行きたくなくて。

 初めて会った時、田中さんは気負ったような顔をしていた。でも、不安そうでもあった。力強くタイヤを動かしていたのに、吞まれて消えてしまいそうだった。矛盾して見えた。

 今まで自分が認めてきた車椅子(じぶん)に、居場所がなくなるなんて、怖いに決まっていたから。

 だから挑んだんだ。なのに届かなかったんだ。

 どうしようもない。見込みの無い自分なんて切り捨ててしまえばいい。

 特別なんかじゃないって、代わり映えもないのは自分自身だなんて、平行線の様な毎日がとっくに暴いていた。

 嫌いなら見なければいいだけだ。

 

 けれど、田中さんはやっぱり俺の想像と真逆の顔をしていた。


「でも、私は別にこの学校に居ることを後悔してないよ」


 何度も、何度も折れるような思いをしてきた筈の田中さんは、折れていない。

 空がずっと曇天でも、雨を楽しんでしまえそうな。そしたらいつの間にか晴れている。そんな笑顔だった。


 どうしたらこうなれるのだろうか。俺には優れた他人の姿が嫌でも目に映る。


「……どうしてそんなに頑張れるんだ?」


 だから率直に聞いてしまった。

 田中さんはぱちりと瞬きをした。


「別に私はそんなにすごくないけど……じゃあ、ピーナッツって知ってる?」

「田中さんが自己紹介の時好きって言ってた漫画だよね?」

「そう、私の足が麻痺し始めた時、スヌーピーの色んな言葉に救われたんだ」


 そして、田中さんはこう言った。


 ―――YOU PLAY WITH THE CARDS YOU'RE DEALT. WHATEVER THAT MEANS.


「配られたカードで勝負するっきゃないのさ、それがどうゆう意味であれ」


 俺に向けられたのは、強い意志を感じる目。


「思い通りにならないことがあるのは東京でも同じだったけど、負けたくないって思ったとき、この言葉を思い出すの」

「配られた、カード……」


 例え足が動かなくても、田中さんはそんな自分自身を諦めたくないのだろう。自分の持っている唯一のカードで勝負することを。


 分かっていた筈だった。

 全部思い通りに行くわけがない。

 何かに憧れて()()になろうと思ったって、下手くそな自分だけが浮き出てきて、憧れた完璧にはなれなくて、いつもどうしようもなく苦しくなっていた。

 叶えたいことに限って、自分が凡庸だと思い知らされる。

 叶えたいからこそ余計、自分が凡庸なのが嫌になる。

 力強く裏門への道を進んでいた姿も、坂を呆然と見つめて、独りぼっちの子供の様に見えた孤影も。

 五センチの段差が遠回りしなければならない大きな障壁となる、そんな境涯も。

 苦しいのも脆いのも。多分田中さんは俺と同じだ。


 捨てたほうが楽なことばかりだ。でも―――

 

 俺たちの歩く道にぽつんと立ったバスの停留所。穴だらけのダイヤグラムが目の端に映る。

 過ぎ去っても、その欠落が残像となって目に焼き付いたまま消えない。


 何度も夢を見て、失敗した。できるのはいつも駄作だった。

 自分に無いから憧れた。俺が触れると、忽ちに価値を地に落とした。

 でも憧れた歌は脳裏に響き続けた。リフさえも再現できないくせに、憧れだけは忘れられなかった。


 それは全部、どうしようもない俺の世界だった。

 そこには確かに意味があった。初めからあったんだ。

 途端に、ぼろぼろで不格好な世界が、新しい色で回り始めていく。


 ―――欠点を挙げれば終わり無い程に不完全なままでも、いいのなら。


「他にもいっぱい名言があって、例えば……」


 田中さんが紹介する名言を聞きながら思った。俺は俺にしかなれないのかもしれない。でも、そんな自分を諦めてしまうより、それを認めてやった方がきっと良いはずだ。




 五月七日。ほとんど使われずに物置になっている埃っぽい空き教室。田中さんを取り巻くいじめについて相談を持ちかけようと、おれはここに寺島公平を呼んだ。

 加藤に相談したところ、不機嫌そうながらも公平に頼むのが一番だと勧められたのだ。

 俺がまだ吹奏楽部だったころ、公平と話すことも何度かあった。公平は今や部長である。頼りがいがあることを知っていた。


「頼む、田中さんへのいじめを止めたい。手伝ってほしい」


 一人で何か言っても、田中さんとの噂が立っている自分だけでは効果が薄いと思った。車椅子を突き飛ばしていたのはよく公平と一緒に居る奴らだったんだ。勝算があるかは分からないが、やらないよりはマシじゃないか?


「ごめん、俺には無理だ」


 しかし、公平はそう言った。罪悪感を滲ませながら俯いていて、いじめを快く思っていないと分かった。そういう奴だから力を貸してくれると思って相談した。だからこそ、こんなにもはっきりと断られるとは思わなかった。それでも俺は何とか説得しようと思って言った。


「別に公平に直接注意してほしいわけじゃない。ただそれとなく言ってほしいだけで」

「……俺じゃあいじめは止めれないよ」

「いや、公平は影響力強いだろ。俺も出来る限りやる。だから……」

「それでも、俺よりも適任がいるだろうし。申し訳ないけど俺は協力できない」


 曖昧さを一切孕まない拒絶の後、公平は秘密を打ち明けるように零した。


「中学校の時、こんなことがあってさ」



 公平には三人の友人がいた。

 名前をA、B、Cとしよう。

 公平と三人は仲が良かった。

 公平とAは親友ともいえる間柄で、常に一緒にいた。

 もちろん、BとCとも仲の良さは変わらない。

 ただ、BとCの二人が一緒のクラスになることは少なく、BとCの関係は乏しかった。


 ある日のことだった。

 Aと公平は、CがBを叩いているのを目撃した。些細な事で喧嘩になったらしく、Aはすぐに止めに入り、その時は大きな喧嘩にはならなかった。だが、翌日から二人はお互いを無視するようになり、次第に喧嘩する頻度も増えていった。

 Bは喧嘩になっても暴力には手を出さなかったが、Cは怒りやすく、すぐにBを叩いたり、蹴ったりしていた。Cは幼稚園の頃から絵に描いたようなガキ大将で、子分を使ってBに嫌がらせもするようになり、それはもう喧嘩ではなく、ただのいじめだった。


 見兼ねたAはBのことを庇うようになり、そのことを快く思わなかったCはターゲットをBからAに変更した。最初の頃はノートを隠されたり、授業中に消しゴムの破片を投げられる程度だったから、Aはそこまで気にしていなかったが、日が増すほどそれは酷くなっていき、Cの命令でBもAへのいじめに参加するようになった。

 学年が上がるにつれていじめがエスカレートしていき、殴られたり、石を投げられたり、川に突き落とされたりするのが当たり前の毎日を過ごすことになった。

 そして、Aは不登校になった。


 公平は、ただ見ているだけだった。

 Bがいじめられたときには怒りを感じて、Aが動いたときには安堵を感じた。

 だが、Aがいじめられ始めて、公平は強い恐怖を感じた。

 そうやって、結局公平は何もできなかったのだ。



「俺なんかが首を突っ込んでもいじめを止めれるとは思えない。それにさ、虐める奴って、一番に目につくやつを虐めるわけだろ?そんなリスクがあるのにわざわざ意味無いことしたくないし、俺なんかよりもっと正義感あるやつがいるはずだからさ」

 

 普段のクラスでの明るい姿や、部長としてリーダーシップを発揮している公平とは違っていた。でも、その俯き顔はひたすらに本音だった。

  公平は行動するのが怖いと言う。いじめを止めようとして逆に標的にされたAの姿がフラッシュバックするから。首を突っ込んだってAのようになるだけで、何もしないのが一番なのだと。

 不可抗力だったと、そう言っていた。


「……」


 何もできないのは俺も同じだった。

 公平は、自分と同じ正義感を持っていじめを止めようとして逆にいじめられたAを見て、行動することへの恐怖を感じたのだろう。そして、怖くて無力だった自分が間違っていなかったと思うためには、自分にはそもそもいじめを止めることはできないと認めてしまうしかなかった。俺と同じだった。ギターさえ失って何の意味も持たない自分を肯定するには、諦める理由を探して自分を見限るしかなかった。

 弱い自分に怯えて、先回りして諦めて、自分を隠してしまった。

 目を逸らしたかったから。可能性を見出そうとするほど、凡庸な自分が目に留まるなら。

 捨ててしまえばいいんだ。出来ない事に挑むなんて苦しい以外の何物でもなかった。

―――その筈だった。


『思い通りにならないことがあるのは東京でも同じだったけど、負けたくないって思ったとき、この言葉を思い出すの』


 俺は田中さんの言葉を思い出した。田中さんにとって、思い通りにならないのは当たり前だった。でも自分を貫くことを諦めなかった。自分の(カード)で、人生(ゲーム)に立ち向かっていくことを決めていた。

 俺も、どうにもならないことばかりの中でも自分を認めたい。車椅子の田中さんと同じように、凡庸なギターを抱えた俺を捨てたくない。

 願ったのなら、叶えてしまいたい。


 だから、俺は穴だらけでもいいからと言葉を発した。


「君の笑顔しか知らない多くの友だちよりも、君の涙を理解する一人の友人のほうが、はるかに価値がある」


 それは、田中さんに教えてもらった、スヌーピーの名言の一つ。


「いじめとか、そういう時に助けてくれるやつだから、友達になれるんじゃないか」

「じゃあ、俺は、友達じゃなかったのか?」

「そういう訳じゃない。でも、自分がどうしたいかに拘るのは大事だろ」


 公平は俺を睨んだ。


「なんだよ、じゃあ佐藤なら虐めを止められたのかよ」

「それは分かんねえし、俺だって虐めを止めるのは怖いに決まってる。そもそも、俺なんかが簡単に全部上手くいくわけがない。何やっても下手くそで失敗続きで、なんで出来ないんだ、って自分が嫌いになるのを何度も繰り返してきた。

 けど、俺はいじめを止めたいって思ってる自分を捨てたくない」


 我ながら勝手なことを言ってるなと思う。でも、建前じゃない分マシだろう。


「思い通りにいかないことばっかだけどさ、憧れたものみたいになれないことばっかりで嫌になるけどさ、公平が今もこんなにいじめに関わるの怖がってるのって、本当は自分もいじめを止めたかったからなんだろ?自分が本当にやりたくないことだったら、()()()()を諦めたりなんかしない」


 公平が少し反応した気がした。


「自分にとって大切だから、諦めて、失敗する可能性ごと捨てたほうが楽なんだろ。でも、それじゃ絶対自分を認めれないと思う」


 俺は、ギターをやめたくはなかったんだ。直ぐに目を背けてしまっただけだった。自分の内心ごと封じ込めて自分の凡庸さに怖がっていただけ。逃げているって知りながらも見ないふりをしていた。それが悔しかった。


「俺はただ、自分が困ってるときに助けてくれるやつが一番必要なんだと思う。だから田中さんを助けたい」

「そうかよ」


 公平は下を向いて言った。俺からはどんな顔をしているか分からなかった。


「……少し、考えさせてほしい」


 重しをゆっくりと除けるかの様に、公平の口が動く。


 窓から入り込む光が埃を照らして、仄白く光っていた。




 五月八日。廊下。俺が教室を出たとき、小さな声が聞こえた。


「助けて」


 それは、田中さんの声だった。廊下には―――無人の車椅子が数人の生徒によって転がされていた。小さな、でもよく響く悲鳴はトイレから聞こえてくる。生徒たちの中には女子生徒もいた。トイレを手伝うふりをして、田中さんの車椅子を奪ったのだろう。


 俺は生徒たちに囲まれている車椅子目掛けて走り、息を吸い込んだ。

 結局、意味のない生活してるんならこいつらとなんか何の関係も無くなるんだ。

 そんな有象無象の言いなりになる必要は無い。

 結局、田中さんを本当に助けたい、それだけだ。


 無我夢中で何か叫んで走った。その時、声が聞こえてきた。先生を呼ぶ声だった。

 公平の声だった。




 結局のところ、いじめに加担するやつは少なく、公平が動けば周りもそれに同意するようにして、あっけなくいじめは沈静化した。そして、公平とあいつらが近くにいる様子は見られなくなった。悪い頼みごとをしたかもしれない。けれど、あの後から公平は満足げにしているような気がする。




 五月二七日。文化祭が近づいてきた。


「私、明後日に転校するの」


 担任の先生の助けを借りながら叔母さんと話し合い、田中さんは養護学校に行くことにしたらしい。

 実際のところ、この学校で田中さんが移動の度に苦労していることは誰の目から見ても明らかだった。二ケ月弱の学校生活で十分に、車椅子への配慮の無い学校に居ることが田中さんにとってどれほどの困難であるかが証明されてしまっていた。そういった事情があるからこそ養護学校というものがあるのだろう。

「これからも誰かに助けてもらい続けるのは申し訳ないし、やっぱり自分が出来ることは自分でしたいから」

 なんて笑って田中さんは言う。同情は要らないらしかった。


 正直去って欲しくなかった思いはある。別れが惜しい。でも、意志は固い。明後日に田中さんは居なくなる。


 文化祭は六月一日。バレない。俺が出るかどうか、田中さんは知らない。言う必要は無い。でも、言いたいと思った。


「実は俺、最初に嘘付いてたんだ。すごい人だって思ってほしくて、文化祭に出るって嘘付いてた。だから、その分練習して、田中さんの目の前で上手い演奏をして謝ろうと思ったんだ。嘘ついてごめん」

「……実はちょっと分かってたよ」


 田中さんは笑った。え、嘘だろ。


「あの曲を聴いてギターを始めたって言ってたでしょ。リリースされたのは三月初めぐらいだし、流石にそんな短期間で文化祭に出るのはおかしいと思ってたんだ。最初に出るって聞いた時は気付いてなかったんだけど」


 酷く恥ずかしくて、でも何故か清々しくて、衒う気持ちはすっかり失せていた。


「じゃあ、最後に二人で一緒に弾こうよ」




 五月二九日。よく晴れた青空が覗く窓、音楽室。俺たちはギターを再び手に取る。

 どろどろとしたものが詰まっていた筈だった。光を鈍く反射する、ただのギターになっていた。

 音を鳴らすためのギターだ。

 勢いに任せて弦を弾く。最初で最後のセッション。碌な演奏じゃない。未経験に近い田中さんと、ずっと逃げ続けてきた凡庸な俺。客観的に見れば、どうしようもなくへったくそなんだろうって分かってるけど、


「アハハ、ハっ、楽しい!」

「はは、マジで上手いな!」


 二人笑っている。


 奏でていたその曲は、シンガーソングライターのそれとはまるで違っていた。世の中のやつら皆、努力しているのだろう。みんな偉いと思った。でも、今の俺は下手くそな俺でいい。音を重ねる。夢中でピックをかき鳴らす。

 逃避していれば苦しい思いなんてしなくてよかった。それでも、鮮やかで汚い音を張り上げる。部屋を包み込んだその音は、いずれ減衰しようとも、俺の耳からは消えない。

 


 書くとき参考にした曲 聴いてみてね


 https://www.nicovideo.jp/watch/sm36300170

 シンダーシティの終わり方


 https://www.nicovideo.jp/watch/sm36984575

 理科室のアンコール


 https://www.nicovideo.jp/watch/sm22792311

 未完成タイムリミッター


 https://www.nicovideo.jp/watch/sm29425003

 シンクロナイザー



 どうしようもない自分に向き合っていけますように

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