メダカリベンジ
一匹のメダカが僕に近づいてきた。
メダカは普通のメダカと違い人面的な顔をしていた。
メダカの顔と人間の顔を調和させたような顔で、非常に不細工な顔をしていた。サイズにも違和感がある。サメにしては小さく、メダカにしては随分大きい。とにかく、普通ではないメダカが僕に近づいてきたのだ。
「こんにちは」とメダカが言った。
「こんにちは」と僕は言った。
「随分大きいんだね」
「君も人にしては随分と小さいね」メダカは僕にそう言った。
確かに見上げる空はあまりに広大で、渓流沿いのブナ林は僕が知る以上に壮麗な印象を与えた。
「そうかもしれないね」と僕は言った。
「どうして君は大きくて、僕は小さいんだろう」
「ここではそういう風に作られているんだ。メダカは大きくなって、人は小さくなる」
「どうして?」
「自然がそう決めているんだろうね。自然から生まれたものは大きくなる。何よりも大事に、尊大に扱われる」
「人間は自然から生まれたものじゃないの?」
「きっとお気に召さなかったんだ」
「なるほど」
なるほどだった。
「ところで君は何をしているんだろう」メダカが言った
「何をするも何も、何をしたらいいのかとんと見当がつかないんだ」
「それは困ったね。暇を持て余すのはとても良くないよ。健康にも良くないし、精神的にも良くない。暇だと余計なことばかり考えてしまうしね」
そこでメダカは熟考するように考えた。見るからに頭を使っていた。頭の血管が浮き上がってくるんじゃないかというほどに。口元を歪め、左右の鰭を組むようにして、まるで人がものを考えるときをデフォルメしているかのようだった。顔をあげたメダカは名案を閃いた顔をしていた。
「一緒に泳ごうじゃないか!」
「泳ぐ? 君と?」
「そうだよ。君泳ぎの方はどうなんだい? 少しくらいは泳げるんだろう。なんだって人間様なんだから」
「僕は泳げるタイプの人間じゃないんだ」
「泳げない? 少しも? 全く?」
メダカは丸い目を更に丸くしたような顔をした。豆鉄砲を食らったわけでも鳩でもないくせに。嘲笑の色はなく、あるのは心底不思議で理解できないといった風だった。
「今時の人間は学校で泳ぎ方を教えてもらえると聞いていたんだが」
「そうだね、確かに学校で水泳の時間がある。なぜかみんな水泳の時間じゃなくて、プールの時間って言うんだけど、まあそれはどうでも良いや。とにかく僕は教わったけど泳げないんだ。カナヅチなんだ」
「金槌は道具だろ」
「スラングっていうのかな。まあそんなことはどうでもいいんだ。話が進まない。僕が言いたいのは、とにかく僕は泳げないっていうことだけだ」
「それはオイラにはなんとも理解し難い。教わってできないなんて。こんなに簡単に気持ちよくなれるのに。セックスや薬なんかじゃ味わえないものだよ」
「君が泳ぎができるのは君が魚だからだろ。僕たちは肺で呼吸をするんだから」
「肺呼吸だとか鰓呼吸だとか、そんなことはどうでもいいけど、魚だなんて一括りにするのはやめてくれ。オイラは魚としてじゃなくて、メダカとして生きているんだから」
彼には彼の、メダカとしてのプライドがあるらしかった。
「確かにそうだね。申し訳ない」
「分かってくれるならそれでいいよ」
「とにかく君は泳げないんだね」僕は肯いた。
「なるほど」そこでメダカはまた腕を組むように、鰭を組むような動きを見せて考え始めた。
「じゃあ君も泳げる生き物になろう。この際人間なんてやめちまうんだ」
「そんなことはできるわけがないだろ」
「どうして」
「君には君に、メダカとしてのプライドがあるように、僕には僕の人としのプライドがある」
「そんなちっぽけなプライド捨てちまえよ。確かにプライドは大事だよ。オイラにだってプライドはある。メダカとしてのプライドだ。でもオイラと違って君は人であることにそれほどの興味も執着もないだろ」
「そうかもしれない」そうかもしれなかった。
「だったらそんな弱々しい姿を晒していないで、一緒にメダカになって泳ごうじゃないか。それに君はどのみちその姿のままではここからどうすることもできないよ」
「どういうこと?」
「ここからどうしたらいいのか分からないと言ったね。でもそれをオイラが知っているとしたら、君は知りたくはないのかい?」
「知っているの?」
「もちろんとも。オイラはここで生きているメダカなんだから。自分が住んでいる場所の作法はしっかり知識として備わっている。本当は市役所に行かないといけないんだけど、今回はパスだ」
「市役所に行くの?」
「本当はね。ちゃんと市役所に行ってめんどくさい書類を書いたり、長い時間待たされたり、そんなこともしなくちゃいけない。住民税や年金もちゃんと払わなくちゃいけない。オイラたちだってそれはおんなじだ。でも君は行っちゃいけない。多分君は向こうでちゃんとした手続きをしていないから。君は本来ここにいてはいけないんだ。何がどうして迷い込んだのかは分からないけど。オイラがキッチリ救って見せようじゃないか。それに別にずっとメダカの格好のままでいてもらうつもりなんてない。ちゃんと元の人間様の姿にだって戻ることが出来る」
「そんな上手い話があるかな」
「あるんだから仕方がない。オイラは嘘はつかない。嘘をつくのはよっぽどエネルギーを使うことだ。一回ついた嘘はその辻褄合わせでより多くの嘘をつく羽目になる。エネルギーは自然から分け与えてもらっている。そんな罰当たりなことはできない」
僕はこのメダカの話を信じていいものかどうか悩んだ。確かに僕はここから先どうしたらいいのか分からない。でも、このメダカは確かに何かを知っていそうだ。そして僕には知識がなかった。
答えはすぐに出た。
「分かった。君を信じてみるよ」そう言うとメダカの広角は人の口元のように上がった。まるでパズルのピースは揃ったと言わんばかりの探偵のような広角の上げ方だった。
「それはよかった。じゃあ早速だけど、まずは君を人間から別の姿にしよう。どんな姿になるのかは、申し訳ないけどやってみなくちゃ分からない。やってみなくちゃ分からないこともある。でも間違いなく君は水中をスイスイと気持ちよく泳げる生きものになる。この気持ち良さで射精しちまうなんてことはよしてくれよ。連帯責任でオイラも怒られるなんてのは御免だ」
「僕はどうしたらいいの」僕はメダカの話を無視して質問をした。
「そのままでいい。君は何もせず、そこで呆けたように突っ立っていればいい」
そういったメダカは僕に向かって思いっきり水をかけた。身体を目一杯使って僕の小さくなった身体全体を覆うほどの水量をかけられた。僕はかけられた水と一緒に水中へと流れ込んでいき、水面から飛び出していた背中は徐々に水中に沈んでいき、吸い込まれるように水中に溶け込んでいった。腕は鰭に、脚は尾鰭に、体は鱗が覆っていた。睾丸はどこかに消えていた。そして気がついた頃、僕は人ではなくなっていた。
確かに僕は人ではなくなっていた。体は鱗で覆われ、手の代わりのように鰭があり、肺呼吸ではなく鰓呼吸になっていた。鰓で呼吸をするという感覚は、人では絶対味わえないものだった。まるで自分の及びもつかないところで呼吸が行われているようだった。
呼吸の仕方がわからなくなるという表現があるが、まさにそれだと思った。
気づいたら呼吸をしている。鼻や口で空気を取り込むのではなく、まるで耳が勝手に空気を取り込んで、その取り込んだ空気を心臓に運んでいるような感覚だった。僕は人であった時の感覚で鼻や口から息を吸おうとするが、気づけば鰓から空気が入り、鰓から空気が出ていた。不思議な感覚だった。
「どんな気分だい?」メダカが僕に言う。
「なんだか変な気分だ。突然の尿意をずっと味わているかのような気分だよ」
「なんて緊張感のない発言なんだ」
メダカは体の向きを上流の方へと向けた。
「あっちの方に小さな滝がある。まずはそこまで行こう」
泳ぎ始めたメダカの後についていく。僕は初めて泳ぐことが出来ていた。何も考えず、人が二足歩行をするように、魚になった僕は自由に泳ぐことができていた。
人が水中で目を開けると、見る景色は随分ボヤけて見えるが、魚になった今の僕は、水中でも澄み切った視界を保っている。天気の良い日に青空を見上げるような感覚だった。見上げると光り輝く水面がある。僕は鰓を使って空気の通りを塞ぎ、空気を溜め込んで外に出さないようにする。水面に上がってみると視界はぼやけて見えたし、人が水中で息が出来ないように、陸にある酸素を吸うことが出来なかった。
だが、それは人が水中で息を止めるのとはわけが違った。それよりもずっと苦しかった。陸に上がった魚があれほどビチビチ跳ね上がるような動きを見せるのも頷けた。ただただ苦しいのだ。それを見ていたメダカが僕に言った。
「随分と無茶をするな。生まれたばかりの魚にも、そうやって興味本位で水面に顔を出す奴がいるけど、それはとても危険な行為なんだぜ。下手したら心臓に致死的な負荷が掛かって死んでしまう奴も少なくない。君だって生まれたてのようなものなんだから気をつけた方がいい」
メダカはまた泳ぎ始めた。僕もまた彼の後をついて行った。
「ところで僕はどう言う種類の魚になったんだろう」僕はメダカに訊いた。
「少なくともメダカじゃない」とメダカは言った。
「魚の種類なんてよく知らないんだ。そんなに頻繁に色んな種類の魚に会うわけじゃない。でも少なくとも淡水魚の類だと思う。鯉とかかな」どうやら僕は鯉とかの淡水魚になっているらしい。
水中には反射するものが何もない。水面が日の光を跳ね返すくらいだ。だから自分の姿がわからない。多くの魚は生まれてすぐみた群の姿をみて、自分もこんな格好をしているのだと知るらしい。メダカが教えてくれた。
「ところでどうだい? 初めて泳いでみた感想は?」
「実はさっきからずっと射精を我慢しているんだ」僕がそう言うとメダカは笑った。
「それはいい。そうだろうそうだろう。泳ぐというのはとても気持ちの良いものなんだ。つまらない女と寝るよりも、身体を蝕む薬なんかよりも、泳ぐ方がよっぽど気持ちが良い。身体も丈夫になって、その上セックスよりも悦に浸れる。こんな愉快な気分になれるのに、君たち人間は自由に泳げないのだもな。それは辛い。オイラだったら発狂してるね。そしてつまらない女に手を出して、酒と薬とギャンブルに溺れていくんだ。魚だったら溺死なんてありえない」
「怖くないの?」
「怖い? 何が?」
「人間がだよ。だって君たちの命は人の命よりもずっと儚いものだ。僕たちとは違う儚さだ」
「確かに怖くないわけではないよ。でもそれは人間も同じだよ。確かに君らは僕らよりもずっと長く生きるんだろうけど、長いから良いとか短いから悪いとか、そんなのはないだろ。長く生きたからこその酸いも甘いもあるし、それは短命でもおんなじだ。どんな姿になろうと、どんな環境に身を任せようと、生きている限り同じだよ。みんな等しく同じ命だ。オイラたちを捕まえようとする人間もいるけど、賢い頭を持っていると案外捕まらない。大体捕まるのは頭の悪い奴らだ。そういった脅威から逃れる方法だって、この世の中にはちゃんと存在しているんだ」
いたく真剣に話すメダカに僕は聞き入ってしまった。
しばらく進むと小さな滝があった。滝行がせいぜいといった、スケールの小さな滝があった。滝の後ろには森が広がっていて、さっきまでのブナ林とは違い、森は明らかに深く濃い色で覆われていた。密度も濃度も増した危険な森だった。間違いなく一層深いところに来ている。
「君は今からこの滝を昇らなくちゃいけない」とメダカが言った。
「昇るってこの滝を?」
「他に何がある。それに忘れたかい? 君は今人ではないんだ。もう立派な水棲生物だ。多分鯉だ。ここを昇って、君は龍となる」
「いや、僕は別に龍になりたいわけじゃないんだ」
「じゃあ君はどうしたいんだ?」
そうメダカに言われても、何も答えることはできなかった。どうしたいも何も、何をしたらいいのか分からないからついてきたのに、何をしたいどうしたいと訊かれても困るのだ。
僕はすっかり黙りこくってしまった。
するとメダカは言った。
「君は何も分かってないな。何をするにも、どうなるにも、君はとにかくこの滝を登る必要があるんだ。これは義務教育みたいなものだよ」
「義務教育?」
「確かに君は、別にこの滝を登らなくてもいいかもしれない。でも登ったほうがいい。いいかい、大体の魚はこの滝を登ることができる。大体の魚ができることは、君もできた方がいいんだ。これはね、淘汰されないためなんだ。人は漢字も計算も、ある程度は当たり前のようにできるだろう。それがどうだい、漢字も書けない、計算もできないなんて人間はどうだろう。この先何ができるだろう。確かにそれ以上に素晴らしいことができるかもしれないし、その人にしかできないことがあるかもしれない。でも大抵の人間にそんなものはない。そして大抵な人間たちは大抵な人生を歩むしかない。大抵な人たちから淘汰されないために、せめて大抵になるために、君はこの滝を登らなくちゃいけないんだ」
なるほど。僕はこの滝を登るしかなさそうだった。
「分かったよ。君がそこまでいうなら僕はここを登るよ」メダカの口角がまた上がった。
「うれしそうだね」僕は言った。
「そりゃそうさ。もうじき君は救われる。君を助けるために君を鯉に変えたり、この場所まで連れてきたりしたんだ。君が救われてくれないと、ただの徒労で終わってしまう。それに安心してくれ、僕も一緒にこの滝を登るから。僕は滝登りのスペシャリストなんだぜ。完璧なサポートを約束するよ」
僕はメダカの姿をみた。もしかしたら、このメダカが通常サイズよりもかなり大きいのは、滝登りのせいなのではないだろうかと思った。滝に登り続け、徐々に大きくなっていき、顔付きまで変わっていったのではないだろうか。負荷の強い筋力トレーニングが、彼の身体をパンプアップしていったようだ。それでも、どれだけメダカがマッチョになろうとも、彼の姿はメダカと形容するのが一番正しい。
決して龍ではない。
彼はどこまでもメダカだった。
僕は滝を登り始めた。メダカは確かに滝登りに慣れていた。滝の勢いはかなり強いもので、人が強風に晒されて前に進めないのとではまるで違った。踏ん張れる土もなく腱もない。ただただ前へ進むという推進力だけが、唯一の支えになっていた。
しかし、鯉になったばかりの僕は、まだ他の魚のように上手に速く泳ぐことが出来ない。そんな僕を、メダカが後ろから押してくれたり、滝から放り出されそうになる僕をメダカが受け止めたりしてくれた。確かに完璧なサポートだった。
ようやっとの思いで登り切った時にはかなり疲弊していた。それはメダカも同じだった。僕たちは息を整えるためにゆっくりと泳いだ。止まるというのは逆に疲れるもので、消費した体力を回復するには、軽い泳ぎが必要だった。それはメダカに教わるわけでなく、鯉となった僕が本能的に理解していたことだった。
それは、僕が徐々に鯉として定着してきているような実感もあった。もしかしたら、鯉の姿になり過ぎると戻れなくなるのかもしれない。疲れた体を慣らしながらそんな不安に駆られた。まるで休憩にならなかった。
「もう行かないかい?」僕がそういうとメダカは頭を振った。メダカも頭を振るのだ。
「こんなに疲弊したのは久々なんだ。そんなにすぐ動けないよ」
「でも急いだほうがいい気がする。君が行かないなら僕一人で行くよ。だからここから先の道を教えてくれ」
「分かったよ、行くよ。まったく、メダカに鞭打つとはこのことだよ」メダカはブツクサと言いながらも先導してくれた。
そこから先はそう時間はかからなかった。メダカの行く先には、水位が上昇し、人の出入が不可能になった洞窟があった。その入り口から中の様子を伺うことはできない。穴の八割は占める嵩の水面に洞窟の天井が映し出されているが、そこには蝙蝠がビッチリとひしめき合っていた。
蝙蝠は出入口から三百メートルまでのところにしか生息しない。蝙蝠あるところに出口がある。逆説的には入り口にも蝙蝠はいることになる。とメダカが教えてくれた。
「最初の三百メートルは一気に駆け抜けないと死んじまうぜ」
「死んでしまう? どうして?」
「暗くて見ただけでは分からないけど、三百メートル付近までは蝙蝠の糞が沈殿している。蝙蝠の糞は菌の繁殖スピードが半端じゃないし、とにかくいろんな危ない菌を持っている。人だろうと魚だろうと、汚い病原菌をもらって身体を壊しかねない。当然死ぬやつも出てくる。蝙蝠の糞はそれだけ危険なものなんだ」
「死ぬ危険があるなんて聞いてない」
「言ってないからな」
「他に道はないの? 方法は?」
「そんなものないよ。君が元の姿に、元の世界に戻るためにはこの穴を通るしかないんだ」
「でも死ぬかもしれないんだろ」
「考えすぎだよ。それに言ったろ、ずっと続くわけじゃない。せいぜいが三百メートルまでだ。それからは死ぬ危険なんてない。その三百メートルを一気に駆け抜ければ、あとはゆっくり自由気ままにマイペースに進んでいくことができるんだ。なんでも初めが怖いものさ。最初が一番大変なんだ。君はまだ子供だったから知らないだろうけどさ」
「大人だからとか子供だからとか、人間だからとか魚だからとか、そんなこともどうでもいいんだよ。もしかしたら死ぬかもしれない。僕は君のように泳ぎも上手じゃない。それはさっきの滝登りで君も痛感しただろ。魚だから泳げるようになったけど、他の魚のようにとはいかない。結局僕はどんな姿になろうと、どこまでいっても僕自身でしかないんだから。鈍臭い僕が三百メートルを必死こいて泳いだところで、生きて戻れる保証なんてどこにもないじゃないか」
「保証なんてどこにもないよ。そんなものはこの世の中に存在しない。僕たちが今いるこの世界にも、君が元いた世界にも」
しばらく微妙な空気が流れた。ここで折れるべきなのは僕の方であることはよく分かっていた。それでも僕には、死ぬかもしれない恐怖を払拭することはできそうになかった。死ぬ思いをしてまで戻るべき世界であっただろうか。僕はそんなことを考え始める。それこそ、価値ある世界などないのかもしれない。メダカの言った、保証のある世界がないのと同じように。
洞窟内は静まりかえっっていた。上昇した水位のせいか、風が通る音すら聞こえない。僕は洞窟の奥を見続けた。暗く何も見えない穴の先が一体どこにつながっているのか、今の僕には何も分からない。その洞窟からは、死の匂いしか感じられない。希望を見いだせない。希望のないところで人は生きていけない。
ああ、もう僕は人ではないのだ。その考えは僕の足を蔦が絡まるように動けなくする。泥濘に嵌るように深く僕を侵食していく。
「死ぬのが怖いのかい?」沈黙を切り裂いたメダカの質問は、今の僕にはあまり的を射ていなかった。でも僕はそれを上手く言語化して説明することが出来そうになかった。だから僕は頷いた。
「君がそれを思うのかい? 僕を殺した君が」メダカは確かにそう言った。聞き間違いかと思ったが、メダカは確かにそう言っていた。僕がメダカを殺した?
「まあ覚えていないのも無理はないよ。君は今よりもずっと子供だったものな。君がまだ小さかった頃の話だよ」
メダカは水面から跳ねるように飛び出して、またそのまま水に潜り込んだ。だが潜り込んだメダカの体はみるみる大きくなっていった。気づけばメダカは人間の姿になっていた。少し小さめに作られた、奇妙な大きさの人間の姿。僕は開いた口が塞がらなかった。
「オイラは君を鯉に変えたんだぜ。自分の姿だってそりゃ変えられるさ」メダカは言った。
「そら、君はこの穴の中に入るんだ。自分だけがのうのうと生きていけるんなんてまさか思っていないだろ。君もその身を持って、命を感じる時が来たんだ。オイラが感じたあの時のように」
人の体になったメダカは僕を捕まえようと手を伸ばす。メダカの奇妙な手から必死で逃れようとしたが、僕が鯉になっても泳ぎが得意にはならなかったように。メダカも、人の姿でこそあれ彼はメダカだった。水中での動きに彼に敵うはずがなく、僕はあっけなく捕まった。
「まあ、安心してくれ。別に復讐がしたいわけじゃない。だったらオイラはもっと違う方法で君に復讐している。もっと残虐で冷酷な方法なんていくらでもあるんだ。そうしないのは君を殺したいわけじゃないからだ。ただ、オイラは君に命を感じて欲しい。ただ生きているだけでは命を感じることなんてできない」
メダカは僕の身体をしっかりと両手で掴んでいた。ぬめり気のある感触なんてお構いなしに掴んで離さない。身をくねらせたり暴れたりと、様々な方法で彼の手から逃れようとしたが、どんなに抵抗しても彼の手から逃れることはできなかった。
「君は勘違いしているけど」と僕はメダカに言った。
「僕はあの時のことを覚えている。忘れてなんかいない。不思議と忘れられないんだ。いつまでたっても頭にこびり付いて離れない。ずいぶん自分本位な生き方をしていたんだ。今も昔も。でも多分僕はその性格を変えることはできないと思う。どれだけ命を感じても」
「それは君が命を感じたことがないからだ。それを感じた人間とそうでない者との差は計り知れない。人としての成り立ちから違ってくる。感じたものの違いが人を強くする。人の性格や才能が、生年月日や血液型で全部決まるわけじゃないように。鯔のつまりはまだ何も決まってなんかいない。変わり続けるわけじゃないけれど、決定付けられる瞬間なんてのもまた存在しない。君は今、この場所から、勇気と膏血を振り絞って水面に浮かび上がるんだ」
メダカは人としての身体を存分に活かせるように、野球の投球フォームに入った。
振りかぶったメダカは鯉としての僕を思いっきり洞窟に向かって投げ放った。正しいフォームで見事なファストボールを放たれた僕は、そのまま洞窟目掛けてまっしぐらに推進する。もう止まることはできない。止まった瞬間僕は死んでしまうかもしれない。その恐怖が僕を前へと進めた。彼が投げ放ったおかげで、泳ぎが苦手だった僕にもなかなかな推進力があった。そして呼吸も止めた。息をするのが怖かった。それは生きることへの恐怖だった。死ぬことへの恐怖ではなく、今生きていることに恐怖を感じている。そしてこれからも生きていく恐怖。
これが生きるということなのだろうか?
人としての僕は、百メートルを十四秒で走り切る。もちろん全力で走った場合だ。だが鯉としての僕が一体百メートルを何秒で泳げるのかはわからなかった。一体どれだけ一気呵成の如く駆け抜ければ僕の生命は助かるのか、今どれだけ泳いでいるのかもわからない。恐怖は僕を突き動かし、慟哭をあげる身体機能を知らんぷりして全力で泳いだ。
先の見えない道は永遠にも思える。延々にこのまま泳ぐ羽目になるのではないかとも感じられた。やがて息を止めるのにも限界がきた。泳ぎながら息を止めるのはかなりきつい。
僕は堰き止めていた空気の通りを解放する。死に物狂いでその場で呼吸を繰り返す。僕は水面から顔を出してみた。洞窟の天井に蝙蝠がいるのか確認をしたかった。だがこの洞窟の中は暗すぎて、天井の高さを図ることもできない。僕は水底に潜ってみた。蝙蝠の糞が沈んでいるとメダカは言っていた。底の方を見たらこの場所がまだ危険かどうかが判断できる。もしもまだ危険地帯を抜け切っていなかったら、僕はかなりまずいことになる。
水底には何もなかった。どれだけ目を凝らしてみても、ボコボコで歩きにくそうな地面があるだけだった。その瞬間僕は膨らむことを忘れた風船のように、体の力が抜け切っていくのを感じた。萎み切った僕はまた前に進み始める。今度は時間をかけてゆっくりと、体の疲れを回復させる。
洞窟はどこまでも続いていた。この先が行き止まりでないことを願うばかりだった。どこかにつながっているつもりで、光が差し込む時を信じて泳いでいる。一向に出口が見つからないまま、僕は洞窟の最奥に来てしまった。
一見すると何もない、来るもの全てを拒むかのような壁だった。後戻りなんてしたくはなかったが、もしここで何も見つからなければ僕は引き返す羽目になる。引き返してどうなるものでもないが、ここに居続けることが良いことにも思えなかった。僕は手探りに壁を虱潰しで調べていくことにした。もちろん僕の身体に手はなかった。
顔を近づけてじっくり壁を見つめていると、やがて右側の方に丸い小さな穴を見つけることができた。近くで見ると明らかにそこには穴があるのに、離れてみていた時には、完全に同化して他の箇所との差異はまったくなかった。
僕はその穴に入る。鯉でもなければ絶対に入ることができない穴だ。穴の中はどんどん小さく狭くなっていく。引き摺るように前へ進んでいくと鱗が数カ所欠けているのがわかった。穴は更に狭くなっていき、僕はほとんど身をくねらせながら、匍匐全身の要領で前へ進んでいく。
次第に僕の目の前には、小さな一筋の光が差し込み始めた。自ら先頭切っていくカリスマの、煌めく銃剣の刃先のような光だった。
光に向かえば向かうほど狭く窮屈になっていき、しばらく進むと僕はすっかり動けなくなってしまった。身体の向きを変えては前へ進もうとするが、それもできないほど窮屈なところまで来ていた。やがて前にも後ろにも進めなくなってしまった。
学校の修学旅行で東大寺の大仏殿に行ったことがある。そこにある柱の穴に入って動けなくなった太ったクラスメイトがいた。みんなそれを笑っていた。僕は笑えなかった。自分がそうなった今、僕は笑うしかなかった。どうすることもできないまま、僕はただ光を正面から浴びていた。見つめる先には小さく確かな光がある。僕はただ、何をするともなくその光を見つめていた。
もしかしたらこの道ではなかったのかもしれない。本当はもっと違う道があって、僕はそれに気がつかないままこの穴の中に入ってきてしまったのかもしれない。
・・・・・・
一匹のメダカを育てたことががある。幼稚園の頃だ。
やることは簡単で、毎日水を変えては餌をやる。その繰り返しだった。でも僕にはどうしても、メダカの世話が出来なかった。水槽の水を変えてやる気にもなれなかったし、餌をやる気にもならなかった。
だから僕は不思議だった。
どうして他の子達は当たり前のようにメダカの世話が出来るのだろうと。僕の水槽の水は日一日透明さを失っていき、誰が見ても明らかに、それは火を見るよりも明らかに、汚い緑色になっていった。
案の定、一番最初に死んだのは僕のメダカだった。というか、誰のメダカも死ぬことはなかった。死んだのは僕のメダカだけだった。
ある日教室に入っていくと、みんなが僕の水槽の前に集まっていた。他のメダカたちが窮屈な水槽の中でもその生命を維持しているなか、僕のメダカの腹は上に向いていて、誰が見ても明らかにこときれていた。
それから僕は先生に外に連れて行かれ、地面に小さく穴を堀り、死んだメダカを埋葬した。その作業のほとんどを先生がやり、僕はただ手を合わせた。ただそれだけ。僕が手を合わせたのは先生がやっていたから僕もそうやったという程度のもので、それ以上のものはない。
なぜ僕のメダカだけが一直線の死に向かっていったのか、あの時の僕には分からなかった。思えば生き物が死ぬという倫理観が僕には欠けていたのかもしれない。生き物は割と一人でに生きていけるものなのだと本気で思っていたのだ。今思えばあの時から僕は一人だった。
・・・・・・
目が覚めると僕はメダカになっていて、どこかを悠然と泳いでいた。緩慢な水流に流されないだけの推進力で、ただ水の中を泳いでいる。
すると、一匹の鯉に出会った。
君は一人なんだね。
そうみたいだ。
そうみたい?
自分が群れていたのか、元々一人だったのかもよく分からないんだ。
でも君はなんだか楽しそうだ。
どうだろう。
いや、きっとそうなんだよ。大抵群れを離れた魚や、元々群れない魚はいつも不安そうにしているんだ。段違いな警戒心を持っている。まるで虐待で保護された猫みたいに。
君は猫を見たことがあるの?
うん。あるよ。でももう何年も見てないな。前はこんな格好じゃなかったんだ。こんな話するのも嫌さ、猫の話なんて……
でも君は猫で例える。
そう。僕は猫で例える。
どうして?
未知への真言だよ。
そう言ったメダカは次の瞬間に人の手によって捕まえられた。それを捕まえたのは園児のような、ふっくらとした小さな子供の手だった。無邪気さの衝撃で波紋は大きく揺れ、まるで大禍にあったような大渦で僕を飲み込んでいった。