どうしたって、分からない
楓君と弥生君って全然似てないよね、双子なのに。
周りがこんな風に言うのを、私は嫌っていた。もしそれがとくに、意識もしないただの事実を言うのなら我慢できる。でも、その台詞はいつも弥生を貶めるような響きをもっていたから、私はいつも聞くたびに怒りと悲しみで頭がいっぱいになった。
双子の弟の弥生は、双子の弟ではなく、ただの個人だ。それを周りが勝手に貶めることを、幼なじみの私は本当に苦しく思っていた。
私の家は一般家庭だったが、母親が私を出産したのは地元の高級路線の産婦人科医院だった。「子供を産むときぐらいは贅沢させてほしかったのよ」と後ろめたそうに母は言う。
そこで母は双子の母親と出会った。
「はじめ見たときはこんな人子供産めるのかって疑問に思ったのよ」
双子のお母さんはまだ10代で、がりがりに痩せていた。幸いにも双子の父親は母から見てえらくしっかりしてそうに見えたので、安心したそうだ。
母は出産時何人かと友達になったそうだが、最も親しくなったのは双子の母親の棗さんだった。
「私って駄目なのよね。なんかああいうのをほっとけないし」
母のお節介さは、悪癖と一緒かもしれないが、娘の私としてはとても好ましいと思う。
そしてほとんど同時期に、双子と私は生まれた。
小さい頃の私の遊び相手と言えば双子だった。といっても、私と弥生がいつもぐちゃぐちゃになって遊ぶのを楓がいつも尻拭いしたり片付けたり。弥生と喧嘩すれば楓が、ものすごい説得力で仲裁してくれた。
ケーキを分けることで喧嘩すれば、まだ5歳の楓が「弥生がケーキを分けて、弥生が分けたケーキをみっちゃんが選んだら良いよ」と静かに言う。そして楓は自分もほしいのにケーキを一口だって食べないのだった。
今考えれば幼少期から今まで続く仲の良さは、明らかに楓の自己犠牲の上に成り立っていた。
楓は飛び抜けて優秀だった。存在自体の性能が私に比べて上だった。そしてその能力を行使しても良いと思うくらい、精神性が高かった。
幼少期の頃はそんな楓が大好きで大好きでたまらなかった。一緒にいたら自然と甘やかされ、居心地が良かった。
弥生と私はいつも楓の取り合いをしていた。
小学生の頃になると、それも少しずつ変化してきた。弥生がことあるごとに楓につっかかるようになってきたのだ。
「楓はあっちいけよ!」
三人で遊んでいると突然強い口調でそんなことをいう。そんなとき弥生に私は怒って「なんでそんなことばかりいうの? 楓はなんも悪いことしてないのに!」と責めると弥生は不機嫌そうに黙り込み、部屋をよく飛び出した。私が楓をおいて追いかけると弥生は膝を抱えながら座って「僕が悪いって分かってる。でも楓見てたらなんかすげえイライラする」と言うのだった。弥生の気持ちがそのときはよく分からなかったけど、ずっと横に座ってとりとめも無い話をした。
弥生が授業中突然立ちあがった時の話。弥生は蝶が窓にいてよく見ようとしたのだという。
課外授業のとき、弥生が突然いなくなってみんなで探すと、ベンチで気持ちよさそうに寝ていたこと。あまりにも風が気持ちよくて、横になったら絶対気持ちいいとおもって我慢できなかったのだ。
二人でそんなことを話した。
しばらくすると、弥生はすっきりするのか、部屋に戻った。楓は戻ってきた私たちに何も言わず、何事も無かったようにさっきまでのゲームの続きをしようという。そんなときの楓は、ほとんどさっきまでと変わりないのに、何か違うようなそんな気が私はしていた。
「楓は弥生に腹が立たないの?」
私がそう聞くと、楓はいつも口だけで微笑んで「弥生の気持ちが分かるんだ。弥生が僕を腹立たしく思うのは、僕が悪いことをしたとかそんなことじゃなくて存在が気にくわないからだ。弥生が弥生以外になれないように、僕も僕以外にはなれない。だからこれはどっちが悪いとかそういう話じゃない。僕にできることはずっと待つだけだ」
最後のほう楓は言い聞かせるようにそういうのだった。楓の話は難しかったが、楓は弥生の苛立ちを幼いのに受け止めているのだ、と切なく思った。
20を過ぎた私は、思い出すたび、そんな幼い楓に罪悪感がわく。私はきっと弥生の側にいたことで、弥生の力にはなったかもしれない。でも楓の力にはならなかった。楓は知っていたのだ。何でもできる、何でも知っている自分が、弥生にプレッシャーをあたえていたこと。そして楓は大人だったから、子供の無神経さで弥生につっかっかったりはできなかった。ただ弥生が“自分は自分だ”と認めてくれる日を待つしか無いと知っていたのだ。
双子の顔はそっくりだったが、それ以外は全て似ていなかった。成長するにつれ弥生は劣等生と言われるようになり、楓は完璧な優等生と持て囃された。
顔は似ているのに、誰も二人を間違えることはないくらいに二人は異なっていた。
弥生の八つ当たりは楓だけじゃなく、私にも向けられることが多くなったのは中学生ぐらいのときだった。クッキーを焼いて二人の家にもっていくと、弥生は驚くことに酒を飲んでいた。
驚いた私にすさんだ目で「告げ口するなよ」というのだった。弥生は所構わず反抗ばかりしていたが、私に対してだけは不器用ながら優しい面があったので、ショックだった。
私は立ちすくんで、なんとか弥生に言葉を届けようと必死になった。そこで思い出したのは、楓のしゃべり方だった。楓の言葉にはなぜか分からない魔力があり、説得力があった。教師や親にもない正当性がその言葉のなかにあるのだ。
「弥生、私はね弥生のことが大切なの。だからお酒を飲むのが悪いことだからだめなんじゃなくて。弥生に自分を大切にしてほしいの」
私の必死な言葉はばっさりと切り捨てられた。
「楓みたいなしゃべり方するんじゃねえよ! きめえんだよ」
呆然と間抜けのようにクッキーを持つ私を鼻で笑い、弥生はクッキーを粉々に砕いた。
弥生なんか大嫌いだ、中学生の頃は何度かそんな風に思った。だけどそれを私はいつもすぐに否定した。
弥生の良いところを二番目に知っているのは私だから、と。一番目は勿論楓だったが、この世で二番目に弥生の良いところを知っているのだ。そんな私がどうして弥生を嫌いになれるだろう。
そして言い聞かせた。優秀で何の欠点もないように見える兄の存在が、弥生にとってとにかく苦しくて苦しくてたまらないのだ、と。
二人の一番の友人として、苦しい弥生のそばにいるのが私の役割だ、と中学生ながら決意した。
私は二言目には弥生の良いところをいうようになった。弥生は最初きめえとかうぜえとか言っていたが、だんだんと苦笑するようになっていた。
一度だけ楓が弥生に対し、血相を変えて怒ったことがある。珍しく三人で帰っていたとき、何の話か弥生が私に対して「お前みたいな女」というような言い回しをしたのだ。
楓は「弥生」と低く言い「今の言い方は何だ?」と厳しく言った。初めての怒気に弥生は気をのまれていた。
弥生がすねて、一人でさっさと帰ってしまった後、
「あんなので怒らなくて良いのに」
と私が言うと、楓は足を止めた。
それから私を振り返り、「俺は、大概のことは許せる、と思う。でも今のはどうしたって許せない」
いつも言いたいことはしっかりという楓の言いよどむ姿に首をかしげると、
「人って自分の中で、一番大切なものがあるだろう? どんなに汚れても、それだけでも守りたいもの。俺は自分が馬鹿にされても、罵倒されても、何をされても別に平気だ。俺にとって一番大切な物は、俺自身じゃないから。自分の中の唯一無二のそれだけが守れてきれいであればそれでいいんだ。
弥生はみっちゃんの一番優しい部分の心をあたえて貰ってる、と俺は思う。それは誰も汚しちゃいけないんじゃないのか? みっちゃんの一番美しいものを捧げて貰って、それをあんな風に言うなんて俺は許せない」
私はその言葉の情報量に驚きながら、ちょっと沈黙して「弥生のことが好きなの、気づいてたんだね」と言った。
楓は苦笑して「二人のことは俺が一番よく知ってるから」と言った。
弥生が変わったのは高校生になってからだった。楓だけは違う高校に行った。
弥生は先輩の強引な勧誘で、なぜか吹奏楽部に入った。私はなぜ吹奏楽部に入ったか最初分からなかったが、弥生の様子をみて気づいた。
勧誘してきた先輩に、弥生は強く惹かれたのだ。破天荒でおおらかな女の先輩だった。光り輝く太陽の様な存在。
その人に強く憧れひかれていく弥生を見るにつれ、認めざるを得なかった。
弥生に必要だったのは根気強く優しく見守る楓でも、側にずっといた私でも無く、弥生の悩みを「そんなこと」とおおらかに笑い飛ばし、強引にでも明るい世界に引っ張っていく存在だったのだ。
それにもっと大きかったのはその先輩が楓に何の興味もひかれなかったということだろう。
一度だけ楓と二人で吹奏楽部のコンクールを見に行ったことがある。楓は気を遣って「本当に見に行っても良いのか?」と私に何度も確認した。
弥生が照れながら「二人で来いよ」と言っていたことを告げると、少し安心した顔になった。
楓の存在はそのころ地域では有名だったし、コンクールに行くと楓の知り合いという人に何人も話しかけられた。楓は弥生の迷惑にならないか、ということばかり心配していた。
コンクールが終わって、不機嫌そうな顔の弥生がこちらに来たとき、女の先輩もいた。
楓はいつもの通り、ほどよい距離感で誰もが不愉快にならない会話をして、女の先輩に誠意のこもったお礼をした。
私は楓の会話が好きだった。穏やかでトゲトゲしたところがない、優しい会話。誰もがほっとできるような気遣い。
女の先輩は、楓の会話にどんどん表情を無くして「で、あんたの本音は何なの? さっきからどうでもいいことばっかり話してるけど。なんか、あなたよくわかんない人だね」と言って、「いこ」と弥生の手を引っ張っていった。弥生は手を引かれながら、まぎれもない驚きを持ってその先輩の顔を見ていた。小さく先輩の声が聞こえた。「あんたが苦手なのもわかるわ」と。
横の楓の顔が見られなかった。珍しいことだが、あの先輩を大嫌いになっていた。今の会話のどこに、楓に対する無礼を行える要素があったのだろう?
そのときやっと私は昔、楓が弥生に対して怒った理由が分かった。私は楓のこの誰もを平等に大切に扱う心を愛している。できる限り自分の周りの人間を気分良く過ごしてもらおうという心。それは誰も傷つけてはいけない、本当に美しいものだ。それをあんな風にどうでもいい、ゴミのように扱う権利は、だれであってもないんじゃないのか?
私は手が震えたけど「楓、わたしちょっとあの人に、言ってくる。どれだけ今の行為が無礼なのか」
「いや、いい。いいんだ。弥生はあの人に救われているんだろ? 俺のことはいいさ」
楓は目を細めて弥生の後ろ姿を眺めていた。口にはいつも浮かべている苦笑のような、よく分からない笑みが浮かんでいた。
「前言っただろ。俺は本当に一つだけなんだよ大切なものは」
「弥生?」
私が少しだけ茶化して聞くと、楓はじっと私を見た。
「言えないくらい大切なんだよ」
と返事があった。
女の先輩と弥生が付き合いだしたのは、私たちが高校三年生になったときのことだ。女の先輩は大学生になっていた。
楓は高校の時留学して、大学は推薦でいけることがほぼ確定していたので、いつも通り優雅に過ごしていたが、弥生は先輩と同じ大学に行こうと必死になっていた。
私と弥生はまとめて楓に勉強を見て貰っていた。
私は割と成績は良かったが、弥生は悲惨だった。まず基礎力が全くないのだ。先輩の大学は都内でも名門の私立なのでかなりの努力が必要だった。
勉強している最中、すぐに集中力が切れる弥生はよくどうでもいい話をして、勉強から逃れようとした。
「なあお兄様。あんたって彼女いねえの」
弥生の言葉に、楓は参考書をめくりながら「いないよ」と答える。
「留学先にいなかったの? いい女」
楓はため息をつき「今日までにはこの参考書を終わらせるのが目標だから、集中して」
「みなは? 彼氏つくんねえの?」
ついには私にまで絡んでくるので「そりゃ土をこねて作れるなら作るけど、そういうわけにもいかないでしょ」と返すと、珍しく弥生は面白そうに笑った。
「みな、男紹介しようか?」
楓が参考書を机にたたきつけた。
「弥生、お前がそんなんなら勉強を見ないぞ」
「何怒ってるんだよ」
弥生は少しすねて「悪かったよ」と言った。
勉強が終わった後、いち早く弥生がどこかへ行くので楓と話す機会がその頃とても多かった。楓は勉強を見てくれることになってから、少しだけ遠慮がちになっていた。
「弥生とレベルが違うから、申し訳ないな」
「教えてくれてるのに、そんなこと全然思わないよ。また楓にお返しさせてね」
楓は弥生のレベルに合わせて授業をすることに申し訳なさを感じていたが、私は基礎的なことからしれるのでむしろありがたく思っていた。
お礼代わりに、よく二人でケーキを食べにいった。弥生は私たちが二人でいることをよく知っていたので時たま「つきあってねえの?」と不可解そうに確認した。楓は私に「弥生に気持ちを伝えないのか?」と一度だけ質問した。私は少しだけ、迷ったあと、「大学に受かったら、一度伝えるよ。でも弥生はきっと、彼女に夢中だから断られる。でも、それでいいの」
と答えた。楓は穏やかな顔でそうか、とだけ言った。
大学に合格したときは、弥生と抱き合って喜んだ。
しかし大学生活の初っぱなから弥生は絶望したようだった。弥生の彼女だった先輩は、他に付き合っている人がいたのだ。
最初弥生は躍起になって別れさせようとしていたが、どうやら先輩の本命は弥生では無かった。
私はそれまで誰とも付き合ったことも無ければ、恋愛感情を向けられたことも無かったので、恋愛には詳しくなかった。
けれど付き合っていると言うことは、お互い唯一の存在でありということぐらいは知っていた。だから先輩が他の人と付き合っていたという事実が判明したとき、意味がよく分からなかった。
だから弥生が彼女に怒りながらも、必死で彼女を取り戻そうとすることがわからなかった。
彼女は弥生を裏切ったのだ。信頼を愛情を裏切ったのだ。
それをどうして、許せるのか私には全然検討もつかなかった。
私は自暴自棄な弥生に告白するきっかけを失っていた。
結局弥生は先輩を取り戻すことはできなかった。私はいつも通り、荒れに荒れる弥生に付き合った。やっと3ヶ月ほどたったとき、弥生は「ありがとう。側にいてくれて」と私を抱きしめた。
信じられないでいる私に「付き合うか?」とぼそっといった。
楓は私たちが付き合うということを喜んでくれた。私は長年の片思いが叶ったことが信じられなかったし、すごく嬉しかった。
弥生は我侭な質だったが、私はそれも嬉しかった。弥生の自由さに私は惹かれていた。
そして、今、私の目の前には信じられない光景が映っていた。
横にいた友人は気遣わし気な表情を浮かべている。
「大丈夫?」
正直なところ大丈夫ではなかったが、なんとかうなずく。
私がいたのは大学の近所のコーヒーショップ。弥生のバイト先だ。そこには元彼女と働く弥生がいた。
「同じ店で働いてる子が、弥生君と高梨さん付きあってるって言っててさ」
言葉が出ないでいると、「その子嘘つくような子じゃないんだ。だから」
友人は言葉を切った。きっとそんなことを言いたくなかっただろうが、隠しておくこともできず、言わざるを得なかったのだろう。酷くこわばった顔をしている友人に、私は頷いて「ありがとう、教えてくれて。一度確認してみる」となんとか笑みを浮かべていった。
友人はホッとしたような表情をする。
私は二人を見ていた。
私と弥生は付き合っている。だから高梨先輩と付き合うわけがない。
しかし、一度確認しなければ、と思った。疑念を持ったまま接するのは弥生に対しても不誠実だ。
楓に相談することも考えたが、無用な心配をかけるだけだと否定する。
決意したものの、私は悩んだ。弥生を傷つけず、どのように聞くか。
悩んでいるうちに、丸山という男からある提案を受けた。
丸山は楓と同じ高校を卒業し、私達と同じ大学に通っていた。
丸山は高校の時に楓に出会い心酔したらしく、大学で楓にそっくりな弥生の姿を見て、声をかけてきたのだ。
しかしその頃の弥生は自暴自棄で酷い有様だったので、丸山に幻滅されて、よく嫌味を言われていた。
「楓さんとは似ても似つかない」とかそんなことだ。なので、最初弥生も嫌っていた。しかし丸山と私が交流するうちに「弥生のいいところがわかった気がする」と言うようになった。弥生も丸山を受け入れて、なんとなく仲良くしていた。
要するに、共通の友人だった。
彼は異様な鋭さで、私の異変に気づいた。私が問い詰められて、この間の経緯を説明すると「弥生の友達の一人に頼んで、聞いてもらうよ」と。「もし浮気してたとしたら、俺には本当のこと言わないだろうし。まあ無用な心配だと思うけど」とあっけらかんと言った。悩んだものの、丸山に頼むことにした。
結果を報告しにきた丸山の顔を見て、言われるまでもなく、この世でもっとも信用する人の裏切りを悟った。
「見損なったよ」
丸山は一言目にそういった。「あいつ浮気してるわ。言うにことかいて、みなとは別れるつもりだって、あんたならわかってくれるって嘯いてた」
丸山の言葉は耳に入っていたが、まったく処理できなかった。顔色をなくした私に「復讐するならマジで手伝うわ。あいつまじで馬鹿じゃねえの」と吐き捨てた。
私はぼんやりしたまま、ふと弥生との会話を思い出していた。
「なあ、お前が一番大切なものってなに?」
ある日唐突に聞かれた。しかし、弥生は聞くまでもなく、返答をわかっているという顔をしていた。
私が「弥生」と答えると思っているのだ。
私は真剣に考えて「秘密。言ったら軽くなるから」と答えた。
私が最も大切なのは、弥生ではなかった。
弥生と楓の心だった。
二人が持っている心を誰かが傷つけることがないように、それがただ一つの願いだった。
二人の愛情が、誠意が、報われてほしい、と私は常に思っていた。
だから弥生の心変わりを苦しく思ったけれど。涙が溢れ、喉からは嗚咽が漏れ、胸がぐちゃぐちゃに傷んだけれど、私が最も大切なのは、弥生ではなく、その心だから、と耐えることができた。
弥生があの先輩を切実に愛していて、その心が報われるなら、それで。
それで、いいのだ。
弥生から話がある、と呼び出された。個室のある居酒屋だった。
行くと、弥生と高梨先輩がいた。私が座敷の前で立ちすくんでいると、弥生が「入れよ」と言った。
なぜ高梨先輩がいるのか分からず、しかし聞くこともできず、恐る恐る弥生の向かい側に座った。高梨先輩が弥生の横にいた。
ラインでは場所と時刻が送られていた。別れ話であることは決意していたが、そこになぜ高梨先輩がいるのかいくら考えてもわからなかった。
そして、予想外に楓が来た。楓も全く予想もつかないメンバーにあ然としていたが、私の横に座った。
「なにが起こってるんだ? 彼女はなぜここに?」
楓は心配そうに私を見てきた。
私も分からないので、小さく首を振る。
「まずみな、最初に謝りたい」
弥生は畳に手をついて、がばりとこちらに頭を下げた。驚いて「どうしたの? 顔を上げて?」というと、弥生は少しだけ顔を上げて、こちらを見た。
「俺は、付き合った時からみなのこと女のコとしては好きじゃなかった」
座敷は信じられないくらいに静まりかえった。横の宴会も一瞬沈黙したくらいだ。
「俺みなに甘えてた。みなは何ももとめないし、いっしょにいてくれたし、安心できた。だから付き合ったんだ。」
横の楓は珍しく、驚きすぎか瞬き一つしていなかった。
「それに、楓も、ごめん。俺知ってたんだ。楓がみなのこと好きなこと。なんでもできる楓に劣等感があったから、正直嫌がらせみたいにみなに告った」
「殴ってくれてもいい。先輩に相談したら、きちんと謝って、解決しろって怒られた。みな、楓ごめん」
次の瞬間楓は血相を変えて、弥生の胸ぐらをつかんだ。
私は不思議に冷静だった。私が二人に分離して、一人が「もう、全て戻らない」という。もうひとりの私はガラスの綺麗な玉が割れるのを見ていた。
楓は殴る前はっとして、私を見た。驚くことに、楓の両目からはとめどなく涙が溢れていた。
私は大好きな弥生をはじめて憎んだ。
楓ほど、弥生に尽し、愛した人間がいるだろうか。全て我慢して、弥生のためになんでもしていた。
言葉でいうと陳腐になる。だけど、もし心が見えるなら、楓が弥生に捧げていた心はどんなものより綺麗なはずだったのだ。小さな小学生の楓は「待つことだけだ」と心の中で呪文のように繰り返していたのだ、傷つきながら。それを、弥生はあのときのクッキーのように、バラバラに砕いた。
私が弥生にどう扱われようがいい、でも楓の心はそんな風に扱っていいものじゃない、絶対に。
絶対に蔑ろにしてはいけないものなのに。
楓の家は誕生日はいつも外食だった。いつも弥生が店を決めた。
楓はほしいものがあまりないから、プレゼントに買ってもらったら弥生にあげていた。
受験のときは徹夜で、弥生の勉強ノートをつくっていた。
そして、それは全然見返りなんて求めない、ものだった。私は楓の気持ちが痛いほどわかる。
楓は何かあげたりしてあげたことがくずみたいに扱われてもなんとも思わないだろう、でもそれをしてあげた楓の心を弥生は踏みにじったのだ。
「お前は……みなのことなんだと思っているんだ? みなになんの罪がある? お前はみなの心を道具にする権利があったのか?
みなはただ、ただ俺たち二人を好きになってくれて、お前をずっと見守ってくれていた。どうして、その誠意に気づかない。お前は今となりに座っている女性に救われたと言う。前に言っていたな、みなはそばにいてくれだけだったと、なんの助けにもならなかったと。あのときのお前の横で、ただ愛情を示し続けることの、優しさに、どうして気づかないんだ? お前が誰を好きになろうが、構わない。俺をどう思おうと構わない。ただ、どうしてみなを」
楓は目が充血し、涙がとまらないために、言葉がでなくなっていた。
私が楓の背中をさすり「もういいよ、帰ろう」というと、楓は首をふって、言葉を続けた。
「どうしてみなの気持ちを利用した。お前には本当に見えなかったのか? みなが、お前になにか言われるたび、傷ついて、でもお前への愛情のために、ただ優しく横にいたのが、本当に見えなかったのか?
俺が、この世で一番尊いと、大切に思っているものが、ゴミに見えたのか?」
本当に私と楓は似ているな、と涙を流しながら思った。
私は楓の心を心配しているのに、楓は私を心配している。
私達二人は他の人からの視線を感じながら、居酒屋を出た。
「俺はみなの心を守りたかった。弥生はいつか、きっと気づくと、みなが報われると思っていた」
「もういいよ。私もね、いつか楓が報われたらいいな、って思ってたんだよ。私達似てるから」
弥生から連絡が入った。
【ごめん。でも許してもらおうとか思ってない。俺が全部悪いことはわかってる】
その文面をみていると、横から楓が覗いた。楓は何も言わなかった。
私も何も言えなかった。
一度壊れてしまったものは、二度と戻らないことを彼は、知らないのだ。楓が壊れないようにしていたから。
もう壊れてしまったのだ。
「俺はみなの心を拾い集めるよ。」
唐突に楓は言った。
「それで、それを俺は大切にする。何よりも」
噛み締めるように言う。
私は微笑んだ。
「嘘だと思うかもしれないけど、私も同じことを考えていたんだよ。」
そして、二度と壊さない。