77 寧音との別れ
ロープをほどく俺に、結生はたずねた。
「先輩、お姉ちゃんはどこですか?」
結生の声は震えている。
結生は寧音がステージから転落したことを気配で感じ取っていたはずだ。
そして、その後に続いた犬養の悲鳴とゾンビの咀嚼音。
あれだけ聞いていたら、最悪の事態しか想像できない。
「寧音は大丈夫だ」
そう言いながら、俺はロープを切り、ほどき続けた。
でも、指が震え、なかなかほどくことができない。
俺は自覚している以上に、周囲に轟くゾンビの唸り声に圧倒されて焦っていた。
結生は再び震える声で寧音を呼んだ。
「お姉ちゃん、どこ?」
血塗れの寧音は目をつぶり蒼白な顔で口を横一文字にしたまま、ステージ下のゾンビの群れの中、犬養を飲みこんだゾンビの塊の横に立っていた。
いくらゾンビの唸り声がうるさくても、結生の声は聞こえているはずだ。
だけど、寧音は返事はおろか身動きひとつしない。
ひょっとしたら寧音は具合が悪すぎて、もう動けないのかもしれない。
あるいは、心の中で渦巻く感染拡大欲求と戦っているのかもしれない。
縛られていた結生を、俺はようやく解放できた。
「よし。早く逃げよう」
「お姉ちゃんを置いていけません。お姉ちゃん、返事をして!」
だけど、寧音は返事をしない。まるで石にでもなったかのように身動き一つしない。
寧音にちゃんと意識があるのかすらよくわからない。
「寧音は大丈夫だ。とにかく、今は避難しよう」
そう言いながら、俺は周囲を見渡した。
だけど、すでに避難ルートはなかった。
結生を椅子から解き放った時点で、俺達がいるステージは完全にゾンビに囲まれていた。
まるでゾンビの海に浮かんだ孤島、いや、沈没しかけた小船のような状態だ。
ステージ正面のゾンビ達には直接ステージに上がる力はない。
でも、ステージ脇の階段2か所からゾンビ達が上がってくる。
フルフェイスヘルメットの自衛兵は、いつの間にか別の自衛兵のアサルトライフルを拾っていた。
そして、絶望的な声で叫びながら、階段を上がってくるゾンビ達に向かって発砲していた。
だけど、ゾンビは撃たれても、体の一部を吹き飛ばされても、それでも階段を上がってくる。
そして最前列の一人のゾンビが頭を撃ち抜かれて倒れても、その後ろには何十人ものゾンビが前に出るのを待っていた。
反対側の階段では、階段下でマルパンマンのお面をかぶった白衣のペッポー君がゾンビの群れを必死に押し戻そうとしていた。
あれは囮になる予定だった変装ペッポー君だ。いつの間にか俺を助けるためにステージまで来てくれていたらしい。
だけど、非感染者を前に興奮したゾンビ達は、ペッポー君なんてか弱いロボットは簡単に押し倒してしまう。
そして、まだ脱出用のバスが到着していない。
俺は中林先生に叫んだ。
「先生! バスはまだですか!?」
「今向かっている。自動運転バスは悪路に向いていない。安全運転システムは可能な限り解除したが……」
ようやくバスが見えた。
芝生の広場を苛つくほどゆっくりバスがやってくる。ゾンビをなぎ払うように。
でも、ゾンビはバスを避けようとはしない。
やがてステージ前に密集するゾンビの大群にぶつかり、バスはとまってしまった。
中林先生は冷静な声で宣告した。
「これ以上接近するのは無理だ」
バスはゾンビの大群の向こう側だ。
ゾンビの群衆の中をかき分けて行かなければ、たどり着けない。
すぐそこだけど、決してたどり着けない絶望的な停車位置。
一方、ゾンビと絶望的な戦いを続けていた自衛兵は、とどまることを知らないゾンビに押し倒され、体中至る所に噛みつかれていた。
さらに階段から上がってきたゾンビ達は自衛兵の体を乗り越え、口から涎を、銃創から血液をダラダラと流しながら、こっちに近づいてくる。
とても、俺一人で押し戻せる数じゃない。
だけど、やるしかない。
このままでは、結生がゾンビの大群に襲われてしまう。
俺は結生の前に立ち、強く強く心の中で誓った。
(絶対に、絶対に、結生を守るんだ。絶対にゾンビを結生に近づかせない)
今存在する唯一の希望は、ゾンビの感応能力だけだ。
影のように足もとに血だまりを作りながら負傷したゾンビ達がよろよろと、だけど確実に近づいてくる。
前に突き出された緑や紫の斑紋が浮かぶゾンビの指からは、絶え間なく感染源となる血液が滴り落ちている。
感応現象は起こっていない。
ゾンビを支配しているのは感染拡大欲求だけだ。
椅子を持ち上げた俺は、一番近くにいるゾンビを椅子で押し戻しながら、ひたすら強く願った。
(絶対に結生を守るんだ。結生に近づくな!)
(絶対に結生を守るんだ。結生に近づいてはいけない)
俺の声以外に誰かの声が響いていた。
俺は再び強く願った。
(絶対に、結生に近づかせない。結生を守るんだ)
すぐ後で誰かの声が再び俺の脳内に響いた。
(結生に近づいてはいけない。結生を守るんだ)
俺は気がついた。
これは、寧音の声だ。
同時に、俺はゾンビ達の動きが遅くなったことに気がついた。
感応現象が始まりかけていた。
(結生を守るんだ。結生に近づいちゃいけない)
(結生に近づいてはいけない。結生を守るんだ)
俺達は願い続けた。
声は重なり、どちらがどちらの声かわからなくなっていった。
(結生に近づいてはいけない。結生を守るんだ)
近づいてくるゾンビの動きがとまった。
まるで時間が停止したように。
俺の目の前で、血を滴り落としながら、虚ろな瞳のゾンビが腕を伸ばしたまま停止している。
ステージに上がったゾンビ達はもう誰も動かなかった。
「ほう。ゾンビの精神感応は、感染拡大欲求を上回るのか。興味深い」
俺の耳に中林先生のつぶやく声が聞こえてきた。
だけど、中林先生の声が俺の集中力を乱すことはなかった。
むしろ、俺自身が何かに取り込まれたように、俺の脳内で同じ言葉が大きく反響し続けていた。
(結生に近づいてはいけない。結生を守るんだ。結生をバスへ)
ステージ下のゾンビ達が、ゆっくりと動き出した。
まるで奇跡のように。
ステージ上の俺達からバスにむかって、海が二つに分かれ道を作るように、ゾンビ達が両脇に避けていった。
俺は急いでステージ下のゾンビのいなくなった空間に降り、ステージの端を手で叩いた。
「結生、ここからステージを降りよう。ステージはけっこう高いから気をつけて」
何も見えていない結生は、ゾンビの大群がいるステージ下に降りることに恐怖を感じていなかった。
いや、たとえ見えていても、結生は恐れないのかもしれない。
結生は何事もないかのように、一度ステージの端に触れて場所を確認すると、こちらに背をむけ足から地面に降りた。
ゾンビ達は動かない。
手を伸ばせば結生に触れられる距離にいるのに、ゾンビは手を伸ばさない。
(結生に近づいてはいけない。結生を守るんだ)
その声は俺の脳内に、そしてゾンビ達の脳内に響き続けていた。
俺と結生は自動運転バスに向かって歩きだした。
ゾンビ達は左右に1メートルくらいの空間をあけ、とどまっている。まるで小声で合唱するように小さな唸り声をあげながら。
ゾンビ達は手を伸ばすこともなく、静かに結生が歩いて行くのを見守っている。
(結生に近づいてはいけない。結生を守るんだ)
俺は歩きながらも必死に脳内に響く声に合わせて唱え続けた。
もしも感応現象が途絶えたら、その瞬間に、ゾンビが左右から結生に襲いかかる。
結生は犬養と同じ運命をたどる。
その恐怖が俺の集中力を途絶えさせようとする。
でも、俺のものではない声が、しっかりと俺の声を裏打ちし、俺の心に響き続けていた。
(結生に近づいてはいけない。結生を守るんだ)
まるで心がひとつに繋がったように、その声が響き続けていた。
近づく俺達を待ち構えていたように自動運転バスのドアが開いた。
結生を先にのせ、俺は後から中に入った。
永遠と思えるぐらいのゆっくりさで、バスのドアが閉まった。
その瞬間、俺は安堵の息を吐いた。
「たすかった……」
俺の全身が震えていた。
信じられない。
あのゾンビの大群の中を、非感染者が歩いてきたなんて。
(結生に近づいてはいけない。結生を守るんだ)
バスが動き出した時、あの声はまだ響いていた。
結生は心配そうな声で俺に言った。
「先輩、待ってください。お姉ちゃんを置いていけません。お姉ちゃんが来るまで出発するのを待ってください」
「寧音はあそこにいるけど……」
俺はバスの窓から、ステージ付近の様子を見た。
寧音はゾンビの群れの中に立ち、こちらを見ていた。
険しい表情のまま、寧音は身動きひとつしない。
俺はその時気がついた。
(結生に近づいてはいけない。結生を守るんだ)
響き続けていたあの声は、ゾンビ達に語るだけじゃない。
寧音は自分自身にもそう言い聞かせていたのだ。
感染を悟った寧音が一緒に来ることは、絶対にない。
それに、寧音は刀を置く直前に言った。
「結生のことを頼む」と。
「寧音は、後から来るよ。大丈夫。後で会える」
バスは向きを変えゆっくりと芝生の上を走っていった。
脳内に響く声は小さくなり、聞こえなくなっていった。
だけど、その頃には、もうほとんどのゾンビが非感染者を乗せたバスに興味をなくしていた。
バスはもうステージから十分に離れていた。
後部座席からステージの方を見ると、いつの間にかステージ上に橋本ゾンビと女子生徒ゾンビ達が立っているのが小さく見えた。
橋本ゾンビ達は踊っているっぽかった。
ステージ前のゾンビ達も手をあげてゆらゆらと楽しそうに踊っていた。
寧音がどこにいるのかは、もうわからなかった。




