54 研究所
研究所に到着したあくる朝、俺は研究所の屋上で、太陽光パネルの間に隠れるように腹ばいになって双眼鏡を構えていた。
恵庭隈研究所の窓にはすべてシャッターがおりていて、外の様子を観察するには屋上に上がるしかなかった。
屋上の出入り口には、神取さんがいる。俺の監視をするために。
今、この研究所には中林先生と神取さんしかいない。
神取さんは20代くらいでスタイルのいい、知的で妖艶な雰囲気の女性だ。
神取さんは東大の院生時代に中林先生の指導を受けていたらしい。その名残で中林亜覧のことを先生と呼んでいて、俺もなんとなく中林先生と呼ぶことにした。
研究所の人達がみんな避難した後も、神取さんは中林先生と一緒に研究所に残った。理由については、「避難するより生存確率が高そうだったから」と言っていた。
この研究所は将来的にこっそり国防関連の研究をする予定だったため、バイオセーフティーレベルが高く、防犯設備が充実、地下施設は核シェルターにもなるのだという。
研究所の建物は外から見える地上部分はこじんまりとしているけど、地下施設がけっこう広いらしい。
もともと宿泊するための簡易的な設備もあった。さらに、日本でゾンビウイルスの流行が始まる直前に中林先生が食料や必要な物の備蓄を行った。だから、余裕で長期間暮らしていけるという。
神取さんの不満は「ここには私に欲情する男がいないこと」だけらしい。
中林先生は、顔はハンサムで声も渋い。父さんの元同級生だから父さんと同い年のはずだけど、若く見える。30代にしか見えない。それどころか20代にも見える。
だけど、ちょっと会話をするとすぐに、この人は絶対にモテないな、と俺でも確信する。
それはそうと、昨夜、神取さんは申し訳なさそうに、でもきっぱりと俺に告げた。
「わざわざ来てもらっておいて悪いけど。ゾンビウイルスの影響がどの程度あるのかわからない現状、あなたをここで自由にしておくわけにはいかないの。知能と運動能力が正常って、つまり無症状で感染拡大行動を取る感染初期と同じ状態でしょ? あなたは一番危険な状態かもしれない」
言われてみれば、もっともなので、俺は神取さんが俺の監視をすることを受け入れた。
外側から鍵のかかる何もない部屋にいる時以外は、俺は神取さんの目の届く範囲で指示に従わないといけないことになった。
といっても、昨夜から今朝までの間で俺が自由行動を取れる時間なんてほとんどなかった。
昨夜のうちに早速、俺は色々な検査を受けさせられたから。
そして、俺が短い睡眠をとり、目が覚めたのが30分くらい前のことだ。
今朝、目覚める直前のうとうとしている時の夢に結生が出てきた。
だから目が覚めるなり、俺は結生のことが心配になった。
本当に寧音に結生のことを任せてよかったんだろうか?
そもそも寧音達が結生を守れなかったから、昨日結生は一人でゾンビに襲われていたのだ。あいつらにちゃんと結生を守ることができるのか?
しかも、寧音は自衛兵団と一緒にいるみたいだったけど、昨夜、速川達に起きたことを見ると、自衛兵団と一緒にいるのは、むしろ危険な気がする。
心配になった俺は朝食を急いで食べると、この屋上に上がり、双眼鏡で周辺を観察することにした。自衛兵団に見つからないように、借りた白衣とヘルメットで変装しながら。
俺は見つからないように腹ばいになった状態で、ゲートの様子を確認していた。
あちこち移動しながら双眼鏡を覗いてみて、俺は避難ゲートの1つがはっきりと見えるベストポジションを見つけた。
昨日のホテルから一番近い所にあるゲートだから、きっと結生はあのゲートに向かうはずだ。
最初はゲート前には誰もいなかった。
俺が観察をしている内に、ふたり人が出てきて警備を開始した。
あの二人は、たぶん警察じゃない。
迷彩服を着ているから国防軍の兵士だろう。
俺はその兵士を見た時に、何か奇妙な感覚を感じた。
(なんだろう、この感覚……?)
妙な感覚だ。当たり前の感覚のような気がするけど、でも、何かがおかしい。
俺は兵士達の様子をよく観察した。
兵士達はヘルメットをかぶり、ゴーグルやサングラスをかけ、迷彩服を着ていて、手袋をはめた手で自動小銃を持っている。顔には迷彩柄のペイントをほどこしている。
見た感じ、特に変なところはない。
でも、だったら、なんで俺はあの兵士達に違和感を感じるんだろう?
俺は定期的に双眼鏡を動かし、ゲート付近の様子を確認した。
避難ゲートにむかって動いている人影が見えた。
寧音と結生だ。
結生の姿を見ると、俺の心の中に温かさが満ちていった。
(よかった。結生は無事だった)
結生は寧音に連れられ、避難ゲートにむかって歩いて行く。
避難ゲートまでの間にゾンビはいない。何もない。
結生はこのまま無事に避難できるだろう。
だけど、結生が歩いて行く様子を見ている内に、俺の心がざわつきだした。
結生は安全なはずなのに、俺の脳の無意識の領域が警報を出している。
俺はもう一度、避難ゲートの様子を確認した。
避難ゲート前にいるのは、見張りの兵士が二人だけ。他には何もいない。
俺はゲートの向こう側の様子を見ようとした。だけど、見えない。
ちょっと気になるのが、ゲートの入り口の地面が赤く見えることだ。たぶん、光の加減か、何かの印なんだろうけど。
俺はもう一度、兵士の姿を確認した。
どこかなじみのある感覚がする。でも、これが何なのか、思い出せない。
だけど、俺の心がざわつく。
何かわからないけど、この感覚をあの兵士達から感じるのはおかしい。おかしいのだ。
俺はもう一度上から下まで兵士の様子を観察した。
ブーツと迷彩柄ズボンの裾に、赤い染みがついていた。
(あれは血? なんで、血が?)
ゾンビの返り血だろうか? でも、ゲート付近にはゾンビの死体はない。
結生達と兵士達との間の距離が縮まっていく。
俺の胸の鼓動が早まっていった。
胸騒ぎと一緒に、なぜか妙な興奮を感じるようになった。
兵士の一人が、結生と寧音の方に近づいて行った。
突然、俺は激しい欲望を感じた。
突然、俺の頭の中に奇妙な声が響いた。
「ヤリタイ。あの女をヤリたい」
俺のものではない欲望で、俺の欲望が搔きたてられる。まるで目の前にいるかのように結生の姿が脳裏に浮かんだ。
そして、欲望と共に感じる感覚。何かとつながっているような奇妙な感覚。
俺は気がついた。
これはゾンビに会った時にいつも微かに感じていた感覚だった。
ほとんどいつも感じ続けていたので、気にしていなかったけど。
目に見えるでも耳に聞こえるでも鼻で嗅ぐでもない感覚。
どこか無意識のレベルでつながっているような感覚。
俺は確信した。
あの兵士たちは、ゾンビだ。
兵士達は顔の他はどこも皮膚を出しておらず、顔は迷彩ペイントでカモフラージュされている。ゾンビマークが出ているかはわからない。
だけど、俺は確信していた。
俺は震える手で電話を手に取り、結生にかけた。
結生と寧音は何にも気がつかず、兵士達の方へ歩いて行く。
(早く出てくれ!)
俺はスマホに向かって祈った。
結生がスマホを取り出すように動いた。
通話がつながった。俺は即座に叫んだ。
「結生! その兵士達はゾンビだ! 早く逃げろ!」
同時に俺はスマホを手にしたまま、屋上の入り口へ駆け込んだ。
驚いた表情の神取さんの前を通過しながら俺は告げた。
「神取さん、俺は出かけます」
俺は階段を駆け下り、荷物を取りすぐに外に向かった。
どんなに急いで走っても、今からでは結生を守るには間に合わないと知りながら。
走り続ける間、俺のスマホからは、ゾンビ兵士と少女達のやり取りと、銃声が聞こえていた。




