34 正常な世界の住人
俺は荒い息で壁にもたれかかって休んでいた。
でも、結生は息切れをしていない。今回はけっこうなスピードで走ってきたのに。
「結生は意外と体力あるんだな……」
てっきり、結生は走るのが苦手だと思いこんでいたけど。
結生は明るく言った。
「お姉ちゃんとマラソンしてますから」
「へぇ。意外とアクティブ……」
「先輩が体力なさすぎです。……具合が悪いんですか?」
結生は心配そうに俺にたずねた。
心配してくれるのはうれしいけど、心配には及ばない。
「いや、俺はこれが標準状態。インドア派だから。……それにしても、なんで広瀬が火炎放射器を?」
俺がつぶやくと、結生は首をかしげた。
「美羽先輩が火炎放射器? 砂糖を焦がすバーナーのことですか?」
俺は口をつぐんだ。結生には詳しいことは言わないほうが良い。
広瀬が子どもを焼き殺していたなんて恐ろしいことを、純真な結生に言うことはできな……。
いや、でも、結生は知っているのか?
俺と同じ高校に通っていたなら。あのパンデミックが始まった日に何が起こったのかを知っているはずだ。
広瀬美羽と高木寧音が学校でゾンビを殺してまわっていたことを。
でも、結生はまるで何も知らないみたいにのんびりしている。まるで天使のような無邪気さだ。
それとも、結生はすべてを知っていても平然と明るくしていられる恐ろしい人間なのか?
もしそうなら、寧音以上に恐ろしい、広瀬なみに狂った人間だけど。
……この子、そもそもゾンビが何かすら知らないからな。
「なぁ、結生は今日までどうしてたんだ?」
俺はためらいながら質問をした。
結生は、のほほんと答えた。
「家にいました。お姉ちゃんに外にでちゃいけないって言われて。危険な感染症が流行しているから外出自粛しないといけないんですよね?」
「ああ。でも、俺と同じ高校に通っていたんだよな? 感染爆発の日も」
「感染爆発の日? よくわからないですけど、一日、風邪で休んだんです。そしたら、その日、お姉ちゃんが遅くに帰ってきてから、もう学校には行っちゃいけないって言ったんです。学校は危ないって。がんばったんだけど、学校を安全な場所にすることはできなかった。通学路も危ない。だから、これからは家で外出自粛してないといけないって」
「……そうか」
俺は結生の状態を理解しだした。
結生は、あの日、学校にいなかった。
だから、あの惨劇を目撃していない。……いや、たとえ学校にいたとしても、結生は何が起こっているのか目にすることはなかっただろうけど。
とにかく、結生は学校で起こったことを何も知らないままなのだ。
それどころか、ひょっとしたら……。
俺が質問する前に、結生が真剣な様子で俺にたずねた。
「そういえば、危険な感染症はゾンヴィルスという名前だって聞きました。ゾンヴィルスのゾンは、あのゾンビと同じなんですか?」
ゾン……。そりゃ、そういう省略方法もあるかもしれないけどさ。
俺はちょっと裏返った声で答えた。
「ゾンじゃなくてゾンビだよ。ゾンビ・ウイルスだから」
この調子じゃ、やっぱり、この子は……。
「それじゃ、先輩がゾンビなのは、今流行している感染症のせいなんですか?」
「ああ。そのせいだよ」
こんなことすら知らなかったなんて……。
「そうなんですか。先輩は前からゾンビなのかと思っていました」
「ちがっ……」
「ありえないだろ!」と俺は叫びかけたけど。結生にとってはありえるのかも。
結生は、俺が生まれた時からゾンビで、赤ちゃんゾンビから幼児ゾンビになって、ゾンビのまま小学校、中学校に行って、ゾンビ高校生の日常を過ごしてきた、とか普通に想像していたのかも。
俺は思わずたずねた。
「……テレビやニュースを見ないの?」
「うちにテレビはないんです。それに、お姉ちゃんがニュースは近頃デタラメだらけだから聞かない方がいいって言って、聞かせてくれないんです」
「なるほど……。あいつのせいか」
結生が誰もが知っている情報すら知らないのは、寧音のせいらしい。たぶん。結生がド天然なわけじゃなくて、寧音のせいだ。たぶん。
過保護な寧音が、全てを隠し通してきたんだろう。
たしかに、結生を悲惨な現実から守りたくなる心情はわかる。
だけど結局、寧音は情報を与えないことで、結生を危険な目にあわせていた。
情報は今この世界で自分の身を守るために一番必要なものだ。
結生は話を続けた。
「でも、避難勧告が出たから、避難することになったんです。すごく久しぶりに外にでたら、なんだか、町の様子がおかしくて。変な人達が近寄ってきて、途中でお姉ちゃんともはぐれちゃって。変な人達に追いかけられていたら、先輩が助けてくれたんです」
結生の言う「変な人」はきっとゾンビのことだ。やっぱり、結生はゾンビに襲われかけていたこともわかっていなかった。
そもそも、結生は「ゾンビ=歌って踊れるアイドル?」って思っていたわけだから、気がつくはずもないけど。
「そうか……。わかったよ」
俺は全てを理解した。今まで結生に感じていた違和感の正体を。
結生は本当に何も知らない。
学校や町がゾンビであふれていることも。
寧音達がゾンビを殺してまわったことも。ゾンビ達が殺されていることも。
結生は、この地獄みたいな世界を全く知らないまま、ひとりだけ昔の正常な世界の中に生きている。
誰も殺されず殺しもしない日常。
勉強、スポーツ、部活、友情と恋愛、そんなのがあったりなかったりするだけの、平凡で退屈だけど、今となっては幸せすぎて噓みたいに羨ましい高校生活。
この狂った世界でゾンビに囲まれながら、まるで一人だけパラレルワールドにいるように、結生だけはあの以前のまともな世界を生きていたのだ。




