30 判断ミス
下り坂になると、台車は勝手に加速して進みはじめた。
すぐに台車を押す必要はなくなり、台車が俺の手を引っ張るようになった。
坂の傾斜はゆるやかだけど、もともとスピードが出ていたため、台車の速度はかなりのものだ。
動きの遅いラグビー部ゾンビ達はついてこられなくなって、俺から離れていった。
俺も台車においていかれそうになり、俺は今度は懸命に走りながら坂を駆け下りた。
だけど、坂の中腹あたりで、俺は転びそうになって、台車から手を離してしまった。
俺は台車に追いつこうとがんばって走ったけど、台車には追いつけなかった。
結生をのせた台車はどんどんと加速していく。
(まずい!)
もしも途中に瓦礫かなにかが落ちていたら、台車は転倒して、結生は投げ出されてしまう。
結生は目が見えない。台車のコントロールどころか、何が起こっているのかすら理解できていないかもしれない。
俺はとにかく台車が転倒しないことを祈りながら、後ろから追いかけていった。
台車は不安定に左右にゆれながら、坂の下の交差点にかなりのスピードでさしかかった。
そして、その行く手には、倒れた看板が……。
「結生!」
結生を乗せた台車は、路上に倒れたジャンプ台のような看板の上を進み、そのまま宙をとんだ。
空中で台車にたてられた結生の白杖が揺れていた。
台車は道路に着地し、巨大なスケボーのように爆走し続けた。
再び上り坂がはじまってしばらくしたところで、台車はとまった。
俺は大きなため息をつきながら、速度をゆるめて走っていった。
台車の傍にたどり着くと、俺は即座に結生に謝った。走り続けたせいで呼吸するのも苦しかったけど、俺は申し訳なさでいっぱいだった。
「ごめん。台車のスピードが出すぎちゃって……。俺がちゃんと掴んでないといけなかったのに」
俺は激しく後悔していた。
結果的には台車は転倒せず、華麗なジャンプを決めただけだったけど。もうちょっとで結生が大ケガしていたかもしれない。
だいたい、今になって考えれば、ただ走って逃げればよかったのだ。
結生の走るスピードは速くないけど、鈍いゾンビを撒くには十分だった。
なんで俺は結生を台車にのせちゃったんだか。
上り坂ではゾンビに危うく追いつかれそうになったし、完全に俺の判断は間違っていた。
結生は、台車から降りながら無邪気に笑った。まるで、ちょっとしたいたずらをしでかした後みたいな笑い方だ。
「ジェットコースターみたいで楽しかったです」
「楽しかった……?」
命がけの逃避行だったわりに、結生は能天気だ。見えないから危険を認識していなかっただけかもしれないけど。
「はい。宙を飛んでましたよね?」
認識していた。
「うん。ごめん」
「楽しかったです。いつもは、あれもダメだ、これもダメだってお姉ちゃんが言って、何もさせてもらえないんです」
「へぇ……」
「先輩、お姉ちゃんはどこにいますか?」
結生に尋ねられ、俺は来た道をよく見た。寧音の姿は見えない。
ゾンビ達は下り坂になってすぐに追跡をあきらめたらしく、坂の上の方でぼーっと徘徊していた。
坂の上のゾンビ達は、のんびり散歩でもしているような雰囲気で、ラグビー部ゾンビ達も、今はスクラムを解き、ぼーっとつっ立ったり座ったりしている。
あの様子からすると、非感染者はあの付近にはいない。
「……いないな」
寧音はまだ喫茶店の中にいるんだろうか。
寧音が店外にいるとしても、坂があるからここからでは見えない。
台車で一気に進んできたので、俺達は喫茶店からけっこう離れていた。
寧音はたぶん結生のスマホにGPS追跡アプリを仕込んでいるから、追いかけてこられるだろうけど。
でも、坂の上付近のゾンビ密集度はかなりのものだ。俺が上り坂でゾンビ達を引き付けた後で一気に置き去りにしたので、ゾンビがあそこにたまってしまった。
いくら寧音でも、あの坂を通り抜けるのは無理だ。
結果的に、俺が結生を台車に乗せて逃げたことで、寧音がすぐには追ってこられない状態になっていた。
せっかく結生が寧音と会えたのに、また離れ離れにしてしまった……。
そう考えたところで、俺は気がついた。
そもそも、台車の前に、俺は喫茶店で判断を間違えた、と。
俺は喫茶店で、結生と寧音が一緒に逃げられるようにすればよかった。
俺が喫茶店マスターを引き受けて、寧音と結生を逃がせばよかったのだ。
そうすれば、すべてが解決していた。
なのに、俺はなぜか結生を連れて逃げてきてしまった。
(まいったな……。なんで、俺はこんなに判断を間違ってばかりなんだよ)
まるで、俺が本当は別のことを考えているかのように、とっさの判断が俺を裏切ってばかりだ。
まるで、俺が本当は結生を寧音に渡したくないかのように……。
ぞくっと俺の背筋に冷たいものが流れ、同時に体の中心を熱いものが流れていくような感じがした。
俺は結生を見た。
なぜか俺は突然、抱きつきたい衝動を感じた。
まるで、俺がただのゾンビであるかのように。
結生に抱きつき、あのマスクを剥ぎ取り、口に……。
俺の脳内に危険な妄想が浮かんだ時。小さな唸り声が聞こえた。
逃げてきたのとは別の方角から、ゾンビが迫ってきていた。
それを見て、俺は正気に戻った。
今は結生の安全を確保するのが最優先だ。
俺は平静を装って結生に声をかけた。
「行こう。またゾンビがやってきた」
「はい。案内してください」
結生はむしろ嬉しそうに手袋をした手を差し出した。
俺を信用しきって。微塵も疑っていない様子で。
自分を信用できない俺はうしろめたさを感じながら、同時に小さな違和感に気がついた。
(なんか、へんだ……)
ゾンビに追われているのにも関わらず、結生からは悲愴感や必死さは感じない。
荒廃した絶望的で凄惨なこの町で、なぜか結生だけは幸せそうで楽しそうでまるで場違いに輝いている。
何かがおかしいと思いながら、俺は結生の手をそっとつかみ、ゾンビのいない方へと誘導した。
3章終わりです。
ありがとうございました。




