11 帰宅
俺が家にたどりついた時には、日が暮れていた。
マンションの階段をのぼり、俺は家のカギを開けて中に入った。
玄関に入ると、キッチンの方から母さんが料理を作っている音が聞こえた。おいしそうな匂いが漂っている。
いつも通りの家だ。
俺は安心して玄関で崩れ落ちそうになった。
俺はドアの鍵を閉め、洗面所で手を洗うと、自分の姿を見られないようにそっと自分の部屋に入った。
いつも通りの自分の部屋。
机の上には、受験勉強のための問題集が積まれている。
まるで、あの異様な学校、街、すべてが夢だったかのようだ。
いや、きっと、あれは夢だったにちがいない。
ベッドに倒れこみ、俺は目をつぶった。
それから、しばらくして目を開けて、自分の手を見て絶望した。
ゾンビマークは消えていない。
むしろ、悪化している。
最初の頃は、ゾンビマークは手にはひろがっていなかったのに、今は指先にまではっきりと不気味なアザが浮かんでいる。
俺は学校と街中で色んなゾンビを観察してきた。
症状の進行の仕方は、かなり個人差がある。今のところ、俺には皮膚症状しかでていないけど、単に進行が遅いだけなのかもしれない。
橋本にゾンビウイルスをうつされたのだとすると、もう10時間はたっている。
通常はゾンビウイルスに感染してから24時間以内に脳が完全にウイルスに侵食される。
でも、逆に言えば、24時間程度、正気をたもっている人もいるってことだ。
つまり、俺はまだ安心できない。
俺も明日の朝までには症状が悪化して、他のゾンビみたいになっているかもしれない。
ひょっとしたら、後1時間後には、俺は完全なゾンビになっているかもしれない。
いったい、俺には、あと何時間残っているんだろう?
俺が不安に沈む中、俺の部屋にまで、おいしそうな匂いが漂ってきていた。
そろそろ母さんが夕飯に呼びに来るかもしれない。
だけど、この顔を見せるわけにはいかない。
俺は母さんに、俺がゾンビになったと知られたくなかった。
母さんを心配させたくなかった。
しっかり者で頼りになる父さんと違って、母さんはおっとりしていて優しくて心配性だ。
俺がゾンビウイルスに感染したと知ったら、母さんはショックを受けるだろう。
ちなみに俺は、みんなには信じてもらえないけど、母さん似で繊細な心の持ち主だ。
俺は、この顔の言い訳を考えてみた。
「文化祭でお化け屋敷をするために特殊メイクの練習をしていたんだ」
「美術で大失敗して、こんな顔に」
こんなウソで、切り抜けられるもんか!
俺は自分につっこんだ。
でも、おっとりしている母さんなら、意外と騙されるかもしれない。
だけど、ウソをついていいのか?
俺は、なにか大事なことを見落としているような気がする。
枕で頭を挟みながら考えて数十秒。俺は何を見落としていたのか、その単純な答えに気がついた。
家庭内感染だ。
もしも俺が完全にゾンビになって正気を失ったら、まちがいなく、母さんに感染させようとするはずだ。
ゾンビウイルスは空気感染はしないけど、噛みつかれたら終わりだ。
俺が完全なゾンビになったら、かなりの確率で母さんも感染してしまうだろう。
俺のせいで母さんがゾンビになってしまう。
それだけは、絶対に嫌だった。
選択肢は一つしかない。
正気をたもっている今のうちに、俺は家を出ないといけない。
俺はベッドから起き上がり、リュックに必要なものをつめだした。
荷物をつめ終えた時、すでにいつもの夕飯の時間からかなり遅れていた。
普段だったら、とっくに母さんが俺を呼びに来ているはずだけど。
俺はリュックを手に持ち、帽子を目深に被り、マスクをしたまま居間にむかった。
最後に母さんの作った夕飯を食べてから、家を出るつもりだった。
行くあてはないけど。ここには、いられない。
俺がリビングに入った時、不思議なことに、母さんはまだキッチンに立っていた。
テーブルの上には、テーブルいっぱいに沢山の料理が並んでいる。
二人では、どうやっても食べきれないほどの量だ。
一瞬、俺は父さんが帰ってきているのかと思った。だけど、父さんが家にいる気配はない。
俺がいつもの自分の席に座っていると、母さんは大皿一杯のロールキャベツを持ってきて、テーブルに置いた。もう皿を置く場所が十分になく、テーブルから落ちそうだ。
その間、俺は母さんの顔を見ることができず、うつむいて皿を見ていた。
俺は無言でマスクをはずし、箸を手に取った。
母さんにどう切り出そうか、考えながら。
やっぱり、何も言わずに、家を出ようか……。
それが、一番じゃないか?
何も言わずに家を出れば、母さんは、俺がどこかで元気で生きていると信じていられる。
いや、でも、俺はもうマスクをはずしている。
母さんはもう、ゾンビマークに気がついているはず。
でも、母さんは何も言わない。
何も言えないのか。それとも、母さんのことだから、気がつかないのか。
(気がつかれなかったら、このままやりすごそう)
俺はそう思いながら、唐揚げとサラダを皿に取り、食べ始めた。
おいしい。母さんの料理は、いつもおいしい。
「唐揚げ、おいしいね」
俺は声に出して言った。
母さんは何も言わない。
この沈黙は、やっぱり不自然だ。
やっぱり母さんは気がついているのか?
今、どういう顔をしているんだ?
俺は顔をあげて、母さんの顔を見た。
俺の手から、箸が落ちた。
母さんの顔には、うっすらと、でも確実にゾンビマークが浮かんでいた。




