中編
私と春香の入学式から二ヶ月が経ったころ、深刻な顔のお母さんとソファーに隣り合って座っていた。時刻は夜十一時半のことだった。今日も遊び疲れたのか、春香はぐっすりと眠っていた。
お母さんから一枚の紙を手渡され、視線を落とす。そこには、可愛らしいポップな字体で要件が書かれていた。
『保護者参観日のお知らせ』
一秒……二秒……三秒……。
たっぷりと見つめた後、怪訝な顔で隣のお母さんを見上げてしまった。
「この日、どうしても外せない仕事があるの。春香の頑張る姿が見られない」
今にも倒れそうなほどに、お母さんの顔は絶望に染まっていた。うるうると瞳には涙が溜まっている。
慌ててティッシュを取ろうと私は立ち上がった。すると、お母さんに腕を強く握られる。引っ張られるままに、浮き上がった腰をソファーに落とした。
「秋葉が、代わりに行ってあげて」
「えっ?」
想わず呆けた声が出てしまう。お母さんは少しムッとした顔で私を見つめてきた。小さくだが頬を膨らませるところは、春香と同じだった。
「秋葉は、春香のお姉ちゃんだよね?」
「はい」
「お姉ちゃんは、春香の保護者の一人だよね?」
「……はい」
「秋葉は、私の代わりができるよね? 保護者参観に行ってくれるわよね?」
「…………はい」
有無を言わせないお母さんの迫力に、私の背筋はピンと伸びる。視線から逃げるように、手元の紙を読み始めていた。
『参観日 六月十三日 午前十時~十一時半』
『テーマ 私の家族』
心の中で小さくため息は吐き出す。学生として通いたかった場所に、保護者として行く。春香のためだとわかってはいても、正直に言って行きたくなかった。
胸の奥深くへと重苦しい感覚が襲いかかってくる。どこか息苦しさを感じてしまった。
保護者参観日当日の朝、春香は明らかにウキウキとしていた。
苦手なミニトマトも嫌がらずに食べ、歯磨きも率先して行い、何度も何度も鏡の前で制服姿を確認する。
玄関で見送る際には、満開の笑顔で大きく手を振っていた。十歩ほど進むたびに振り返って手を振る。それを通りの角へ差し掛かるまで繰り返していた。
「仕事、行きたくないな~」
隣で春香を見送っていたお母さんが、ガックリと肩を落とす。肺の中の空気全てを吐き出したのではと想うほどに、大きなため息を吐き出していた。
「秋葉~、私の代わりに仕事へ行って~?」
「お母さん、バカ言わないで」
妙に間延びした声を出すお母さんをジト目で見つめる。お母さんは「わかっているよ」とつぶやき、再び大きく息を吐き出していた。
十分後、スーツを着たお母さんが玄関でパンプスを履く姿を見つめていた。私は中学校の制服を着ていた。
「秋葉、春香のこと、お願いね。お昼は渡したお金で、何か二人で美味しいものを食べて来ていいから」
「わかっているから、大丈夫。お母さんも、お仕事頑張って」
軽く背伸びをして身体を解してから、お母さんは手を差し伸べてくる。私は持っていたビジネスバッグを手渡した。
「秋葉、春香のことは任せたわ」
そう言ってお母さんが優しく私の頭を撫でる。コクリと私は大きくうなずいた。
数秒後、ポンポンと軽く私の頭を叩いた後、お母さんは言った。
「いってくるわ」
「いってらっしゃい」
玄関から外に出てドアを閉めようとしたところで、お母さんは突然動きを止めた。私は想わず首をかしげてしまう。
「秋葉、春香の言葉をしっかりと聞きなさい。お母さんとの約束だからね」
お母さんがどこか得意げな顔でサムズアップする。私はさらに大きく首をかしげていた。
私に疑問を残したまま、お母さんはドアを閉めてしまった。
県内でも有名な附属小学校だけあり、保護者参観に参加する父兄たちは立派な服装をしていた。敷地内の附属中学の制服でもない、別中学の制服を着ている私は悪目立ちしていた。
敷地内に入った私は足早に小学校の校舎へ向かう。ちらちらと視線を感じ、気分は悪かった。
「――お前、一ノ瀬か?」
唐突に大きな声を掛けられ、肩が跳ね上がる。聞き覚えのある男性の声だった。
「やっぱり、一ノ瀬じゃん。小学校の卒業式以来だよな」
「……竹島くん、久しぶりだね」
急に喉が渇いてくる。答える声は小さくなっていた。学校に何か用事があったのか、竹島くんは附属中学校の制服を着ていた。
「一ノ瀬もこの学校だと想っていたけど、違ってびっくりしたぞ。学校で一番頭が良かったから、余裕で受かると想ってたんだよ。俺なんて自己採点したら、ギリギリでさ、落ちたと想ったんだけど、受かってラッキーだったぜ」
一方的に話す竹島くんの言葉一つ一つが、私の弱い心をズタズタにしていく。噛み切る勢いで、下唇に歯を立てて我慢していた。ここで、泣き出すわけにはいかなかった。
「それでさ、一ノ瀬は中学どうよ? 別中学になったけどさ、俺、一ノ瀬と遊びとか行きた――」
『――保護者参観は、午前十時より開始いたします』
小学校から大きく放送の音が響き、竹島くんの声を遮る。腕時計を確認すると、九時五十分を示していた。私はスカートを両手で強く握りしめ、弱々しく口を開いた。
「……私、保護者だから行かないと」
竹島くんに頭を下げ、小学校の校舎へと駆け出す。後ろから声が聞こえてくるが、足を止めるつもりはなかった。
小学校の玄関で荒れた呼吸を整え、手早く涙を拭う。そして、靴をスリッパに履き替えて受付へ急いだ。受付名簿にサインし、春香の教室を確認する。一年二組は受付から左に真っすぐ進んだ場所だった。
受付で貰った名札を首に掛けながら、小学校の廊下を進む。私が春香の教室へ入ったのは、九時五十八分だった。
教室後方の扉近くに立ち、視線を左から右へと動かして春香の姿を探す。見つけた瞬間、私は声を出していた。
「――春香、ここで見てるから! 遅くなって、ごめんね!」
保護者たちも子供たちも、一斉に私を見つめてくる。しかし、気にかける余裕はないし、どうでも良かった。
今にも泣き出しそうな顔で、春香が顔を俯かせているのだ。私を探していたのか、椅子を後ろに向けて春香は座っていた。
「ほら、秋ちゃんが来たよ!」
「秋姉ちゃん、おせーぞ!」
春香の幼馴染二人が続いて声を上げる。夢ちゃんとタケシくんが、春香を囲むように立っていた。
のろのろと顔を上げた春香が、私をジッと見つめる。数秒後、安心したように笑う春香を見て、私はホッと息をつく。幼馴染二人も安心したのか、ニコニコと笑い出していた。
夢ちゃんがハンカチで春香の涙を拭っていると、タケシくんがバンバンと春香の背中を叩き出した。それに春香が怒り、夢ちゃんもタケシくんに怒り出す。女の子二人に怒られ、タケシくんは平謝りをしていた。
それは私がよく知る、春香と幼馴染たちの関係だった。とりあえず、もう春香は大丈夫そうだ。夢ちゃんとタケシくんに、心の底から感謝する。今度遊びに来たときには、お菓子を豪勢にしなければならないだろう。
夢ちゃんとタケシくんのお母さんを探し、私は深く頭を下げる。二人のお母さんは、笑顔で小さくうなずいてくれた。
「先生!」「先生、来た!」「先生だ!」
教室へ担当教師が入り、子供たちが想い想いに声を上げる。夢ちゃんとタケシくんは自分の席に急ぎ、春香も椅子を前に戻し出す。
ちらりと私へ振り返る春香に向かって、私はこっそりと手を振る。すると、春香は嬉しそうに笑ってから、顔を前に向けた。