青年の地獄のような一日が始まる
階下に連れられ、さらに廊下の奥に進んだ。電気もつけない。 理由を聞けば、
「ばあちゃん、明るいの嫌いやねんな」
とだけ答えた。階段では風呂上がりの女性の匂いしか感じなかったが、突き当たりにある扉の前に近づくほど沼の藻のような臭いを嗅いでいる気がした。
案内されているにも関わらず、道を間違えている予感がした。廊下は久しく使われていないように凍てついていた。
扉の向こうから、カッカッと喉を擦るような咳が聞こえた。吐き出した量の息を吸うが、器官に空気が流れ込むと咳がでるようだ。耳鼻咽喉科あたりの受診を勧めたいところだ。
「驚くなって言っても無駄だろうから、先にトイレに行っといた方がいいかも」
何を今さらと、秀太は苛立った。
サキはiPhoneのライトをつけた。
そして襖は開けられた。
秀太は橙の光の中の影を、人と認識できなかった。しかしサキが言うにはお婆ちゃんだそうだ。
もしこの老婆が受付に来られたら、院内はパニックになるだろう。男は黒のセカンドバッグを強く抱えて肋骨が折れるほど恐れおののき、風邪を引いた女児は肺で煙が焚かれているのかというほど泣き咽ぶであろう。
老婆の顔面は崩壊している。眼球のあるべき場所は、ただの空洞。鼻はへしゃげて、頬は腐って液状化し、そのまま涙のように流れている。老婆は卵白をかき混ぜたような唾と痰を吐くと、血の筋が混ざっている。それなのに息苦しそうに咳をし続けている。真冬にもかかわらず女性用の肌着のみであった。
悲惨としか形容できない異様に秀太は絶句した。自分一人だけではないことで安心しようと隣にいるサキを見つめた。
彼女は深いため息をついた。癇癪持ちに呆れるかのような口振りは、日頃のことなのだろう。もがく老婆の皺々の手の指のどれも正常なものはなく、最も長いものは薬指であった。それも爪がめくれている。両手合わせて6本の指である。
秀太は肩に何かを感じたので、ビクりと震えて振り向いた。単にサキが肩に手を置いただけであった。
すると彼女は悪戯がばれただけのような軽さで謝った。
サキはそのまま部屋に入った。
せめて自分に一声かけてからだろと文句を言いかけた。この女を、いまひとつ信用できずにいた。
近くによると、その異様さは際立つばかりである。皮膚が抉れて骨まで見えている箇所がいくつもある。死んでいる方が自然である。
それなのに喘息患者のような激しい咳が止まらない。
秀太は自分が何を見ているか分からない。
とにかく恐ろしい。
先ほどまでの空腹はすっかり忘れていた。
「じゃあ、一緒にお婆ちゃんの世話をよろしく頼みたいんだけど」
トンと背中に押し当てられる手が心臓を掌握したかのような心地であった。冷たい風がヒビの入った窓を叩く。




