29.無自覚の自覚と自覚の自覚
快とニンガルは無事例の洞穴についた。そこで彼女は岩製の扉の前を数歩歩いて様子を見た。おそらくあの異常な量の魔法陣を見て不審に思っているのだろう。
「ジアの住人はここに入った人たちが狂うのをみて、このように封じたそうですよ」
事前に得ることのできた情報は惜しみなく共有する。中に入ったら気が狂う。原因として考えられるのは、中のウル・ディーメアがまさに絶望的である可能性。それから精神汚染的な攻撃を用いる可能性。
事実が後者であればこの情報の価値はとてつもなく大きい。ニンガルはなるほど、と呟いて快のほうに振り返る。そのままつかつかと歩み寄ってくる。帰還か。快がそう考えると、目の前の風景が一瞬にして入れ替わった。
「ってあれ、こっちなんだ」
快は思っていたのと違うところに出てきたことに不満げな声を漏らす。
「何だその言い方は」
すると、漆黒の長剣の手入れをしていたルーツェが顔も上げずに叱責した。ニンガルはまあまあといった様子で二人を落ち着かせようとする。
「快君がジアに行ってきてくださったので、情報を交換しましょう。近況報告も含めて」
なるほどそれが目的か。たしかにルーツェからすれば、つい先日に聖光騎士団に監禁・拷問されていた二人の状況はかなり大きな不安要素だ。それを払拭するための時間。残念ながら快の報告はあまりいいものにはならなさそうだが。
「ほう、ならば俺から。と言っても俺はいつも通りだ。エンリル神のためならば前に立ちはだかる障害はどんなものでも斬り捨てる」
元気なことだ。だがしかし、仮面まで付けたこの漆黒の騎士が斬り捨てるなどと口にするとなかなか凄みがある。快はルーツェとの間に今まで感じたことのなかった溝を感じた。
「私もいつも通りです。全く問題ありません。……強いて言うならもう聖光騎士団とは顔を合わせたくありませんが…………」
ニンガルがなんとも言えない表情と声音でそう言う。そんなこと、当然だ。
「それは心配いらぬだろう。俺と長田快が排除してみせる」
ルーツェが力強く言い切った。特に彼の場合何かの恨みが聖光騎士団にあるのだろうが。しかし快は若干の不安感を覚えた。その原因は明らかだ。
「……えと、まあ僕も特には。いや、ナイフは折ってしまったけど異能があれば十分じゃないかな」
ルーツェは快の言葉遣いがいつもと比べてかなり柔らかいことに眉を潜める。もっとも快とニンガルの二人はそれに気づくことはないが。
快はまさかこの場で言えるはずがない。もう今までのようには人を殺したくないなどと。あそこでナイフが折れたのは自分の甘い覚悟を少しでも現実に近づけてくれるのではないかと思っているなどと。
「……長田快。今日はお前が誘拐する日だ。屈強な男を狙え。プレート回収もあと五日だ、体を動かしておけ」
快はルーツェの仮面を見る。どうしてこう彼の考えを読みたいときに限ってそうはいかないのだろうか。
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快は黒い戦闘服にローブを羽織った状態で路地裏を歩く。下層の路地裏にある飲み屋は常に開いている。むしろそれは開いているというよりも開け放されているという方が正しいか。
とにかく、ガラの悪い男たちが入れ替わりで集い続けるような危険地帯が幾つもあるのだ。快は左袖の中に仕込まれている鎖分銅の存在を確かめる。生贄なのだから殺してはいけないのだ。
店の近くまでやってきた快は、飲み屋と大通りの間にある特に狭い路地に身を隠す。そこでしばらくターゲットの出現を待つつもりだったのだが、幸運なことに数分で足音が聞こえ始めた。
足音を聞く限り、それは一人。飲み屋からこちら側に向かって危なっかしいリズムで歩いている。狙いどころだ。外すわけにはいかない。
癖だろう。路地から出て男の前に立ちはだかるその姿には、数え切れないほどの殺人を犯してきた者の、獲物をいたぶるような醜悪で冷徹な笑みが浮かんでいる。
否、これは癖などではない。長田快自身の心根にーーーー
いや、そんなことはどうでもいい。
「なんだテメェ喧嘩売ってんのかゴラァ!」
異能は使わない。つい今日の午前にそう決めたのだ。鎖分銅だけで終わらせる。
快は自らが来ているローブの中に潜り込むように、一瞬で体を沈める。男は酒を飲んだあとの脚で、突進してくる快を蹴り飛ばそうとする。右足を上げて、全身を使って思い切り。
だがそれは不発に終わった。むしろ命取りだった。快は男が脚を上げたとみると軸足に向けて鎖分銅を投げ、巻き付けた。しかし、ここで快が鎖を引いたところで体重差的に何も起こらない。
しかしそれは、男には、だ。快には、大きな力が働く。男の足がちょうど真下に来たあたり。快は真上に跳躍する。すると、快の跳躍による上向きの力と慣性による前向きの力、そして鎖による向心力。三つの力が合わさる。
それによって快の身体は美しい半円を描いて、右足を思い切り前に蹴り出した男の背後に回った。
そこからは一瞬だった。首元に飛びつき両眼をえぐり、体をひねって男を転ばせ、顎を殴り意識を飛ばす。
『これで人を殺したくないなど、よく言えたものだ。貴様は明らかな狂人ではないか。幻想から脱却し早急に己が役目をはたせ』
快はその男を拠点の地下で生贄に捧げている間に聞こえた声を、なんとかして振り払った。太腿に痛々しい痣を作ることによって。
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その日の夕飯も快とイアンナ、そしてニンガルの三人で食べた。快は今日一日で様々なことをした。朝一でジアへ馬車で向かい、洞穴探し。次いでリベロー草を探して収集。そのあと足首を折ってニンガルを呼び出し、第三者が見たら気が狂っているとしか思えない方法で異能を引き出した。
そのあとは神子の拠点で近況報告。そして酔っぱらった大男の誘拐。そうしてケースリットについた頃には、もう空は赤く染まっていた。
「快君、お疲れのようですけど何かありましたか?」
心も体もあちらへ行ったりこちらへ行ったりと忙しかった。さらには神の要らぬ一言で気分を害された。そんなもの疲れるに決まっている。しかし、彼女にだけは心配をかけてはいけない。
「いや、低気圧が近づいているんじゃないかな」
元の世界では使える場面が限られているこの言い訳だが、この世界では容易に通じる。特に快のどこで生まれたかを知る人に対しては。なぜならば、
「低気圧? 気圧とは?」
気圧という概念が存在しないからだ。
「うーん、俺の世界でも全員はそれを感じることができなかったからね。説明するのは難しいな」
またこうして普通の顔をして虚言を嘯く。本当に自分は何なのだろうか。自分で自分を理解することができない。あの日、イアンナの、他人の温もりを実感したというのに。それに気がついたというのに。彼女には、この閉じ切って腐敗した心を少しだけ晒してもいいのではないかと思ったのに。
いや違う。だからこそ、自分が初めて『受け入れる他者』として認めたからこそ、拒絶されたくない。この奇跡的に掴んだものを絶対に離したくないから、自分は彼女に嘘をつく。
『そして自分自身にも嘘をつく。貴様には無理だ。他者は排斥するものだ。他者を貶めることで貴様は自分を保ってきた。このままでは貴様は全てをうしなーー』
「五月蝿いぞ下臈」
目を丸くするイアンナとニンガル。そして快自身も驚く。エンリルに対して下臈など、自分が口にしていいものではない。
「三人とも、今のは申し訳ない」
謝るところは謝る。それが快の今までの生き方だ。
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夕食後、快は自室に戻り四次元チューブから大量のリベロー草を取り出した。そして大量に作っていた火の魔法陣の内、鍋を熱するのにちょうど良いものを選び出す。
厨房から無断で借りてきた鍋をその魔法陣の上に乗せ、これもまた自作の魔法陣で水を注ぐ。その中にリベロー草を限界まで入れる。
「デューリ」
火の魔法陣に手を当ててそう唱える。実はこのテクニックも魔法陣の本のコラムで見かけたのだ。これを唱えれば、魔法陣の効果を継続的に発動させることができる。つまり、何時間も鍋の前に立ち続ける必要がないのだ。
これが実にありがたい。この間快は、ずばりエンリルに謝罪に行くつもりなのだ。円滑な人間関係は、謝るべきタイミングで素直に謝るところから始まる。菓子折の一つでも持っていくことができれば良いのだが。
そうして快はベッドに横になる。エンリルに謝罪する。そう考えた目を瞑ると、快は重苦しい空気に目を開いた。すると眼前にまで伸びてくる指がある。
眼球がえぐられないよう、反射的に目を閉じる快。しかしその手は自分の頭の上にまで伸びてきた。そして髪の毛を力強く掴まれる。
「……ぐっ!」
「己が主に向かって下臈とは何事だ!」
エンリルは快の髪の毛を掴んでブンブンと振り回す。快は吐き気を催してきた。
「だっ! だから謝罪に……!」
快は全力で喉を振り絞り、そうエンリルに伝える。すると彼は手を離し、無言で快にその先を求める。
「先ほどの無礼、誠に申し訳ありませんでした。自分でもなぜあのようなことを口にしたのか分からないのですが、今後は一切あのようなことが起きないように努めます」
エンリルは快のつむじを見て一人考える。あの下臈という響きにどこか懐かしさを感じるのだ。と、それ以上に重要なことがある。ここが運命の分かれ道だ。
「ほう、そこまでして謝るのならば許そう。しかし次は無いからな。ところで、貴様は何をここ数日迷っているのだ。あの娘はタイラーゲートの人間なのだぞ? エンキとつながっている可能性も十分にある」
「……」
快は黙ったままだ。本当ならば反論したいところだが、今の自分の立場を考えてそれが許されないと理解している。
「しかし、今すぐにあの娘と迷いを棄てろとは言わぬ。せめて今後自分で考え敵と判断した者には容赦するな。確実に殺せ。良いな?」
快は顔を上げてエンリルの顔を見る。彼がこれほどにも優しい選択肢を与えてくれるとは。ここで頷かずにどこで頷こう。
「仰せの通りに、我が主」
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