26.『無限』の代償
「快君? 本当に大丈夫なんですか?」
イアンナも年頃の、しかも相当な魅力を持った女子だ。快が自分に向ける表情が、その他の要素も含んでいることも含めて、ある程度の好意を含んでいるということは察しがついていた。
しかしそれは途中までだ。途中から異様に瞳孔が開きはじめた快の表情は、全く何を考えているのか何を感じているのかを察させることのないものだった。
その明らかな異常にイアンナが不安を抱きはじめたところで、快は苦痛に口の端を歪めた。瞳孔の開いた瞳は充血し、カッと見開かれている。だんだんとくの字に曲がっていく身体。髪を掴み唾液を口端から垂れ流す長田快のその表情には、常の彼の所作の端々からうかがわれる上品さのかけらも無く、ましてや聖光騎士団の支部を一つ潰した強者の品格のかけらも無かった。
「快君っ! 快君!? ニンガルさん! いつものように出てきてくださいよ!」
低い声で唸りはじめた快を抱いて支えるイアンナ。イアンナの触れたあたりの快の身体はそのイアンナの与える圧によって若干だけへこんだ。それだけの感情を抱き快を抱くイアンナ。
「もう…………どうしてこう私の周りばかりっ……!」
悲痛に涙を浮かべたこの世界で最大の被害者が、そこに美しく咲いていた。
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イアンナは本当に美しい。彼女の造形を美しいと感じるこの心は、この感性だけは何があっても失われない。快はそう確信していた。自分としてはこういった芸術的なものに対する感動を重じてきたつもりだ。それは余すところなく彼女に対しても発揮されている。
と、美しい華のような彼女を見つめ考えていると、快の中でまた別の心惹かれるものが手招きしてくる。それが内包している美しさと深い思索と哲学は、やはりものを学び考えることに重きを置いてきた快の人生分だけ魅力的だった。
快は胸の内でイアンナに無礼を詫びてその甘い空間に身を投げる。ほんの一瞬だけ。ほんの一瞬だけその甘美な感覚を味わいたいと、自己の内側に潜っていった。
快の身体は一瞬のうちに無に還る。そこに広がる彼岸花畑は唯一の存在として快の意識を『他者』として引き留めるが、それと同時にその植物としての受動的な存在形式は快の意識を吸い取る。
しかしその吸い取られる感覚すら快にとっては心地よい。
ここに来るのは久しぶりだなと、ぼんやりとした意識の中でそう考えた。
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しばらく、といっても現実世界ではほんの一、二秒のことではあるが、快はその有と無の中途半端な空間を漂っていた。
しかし次の瞬間、その楽園は突然の侵略に襲われた。
この空間に突然誰か人間が現れるということは、珍しいことではあるものの前例がないわけではない。だが今回は違う。それは文字通りの侵略だった。
快が今まで命を奪ってきた人間が、一から十まで、全く完全に全員が湧き出るように現れたのだ。快が人生で初めてその命を奪った大男やコールに始まり、誘拐してプレート保護の生贄に捧げた一般市民やフォールカのウル・ディーメアに服従させられていた獣人、聖光騎士団員、さらにはウル・ディーメアまで現れた。
「ーーーーーーッ!」
彼らは男も女も子供も、皆同じように絶叫しながら花畑を荒らす。
自分が今までその存在を無にしてきた『他者』が、今度は自分に無を感じさせるこの神聖な空間を破壊し始めたのだ。無が無の花園を荒らすとは。
絶叫はうなり、快の頭を締め付ける。彼らが踏み荒らした花々は、折られて潰され地面にへばりつく。そんな様子が三百六十度完全に自分を取り囲むように広がる。
快は突然現れた『他者』の存在によって明らかとなった自分の存在というものに若干の嫌悪感を覚え、そして何よりも彼らに対する困惑と怒りに飲み込まれる。これだから他者は要らないのだ。人間は皆各々で完結するのが最も良い。だから俺はそうして生きてきた。
そして、快はその怒りに身を投げた。
自分が明らかになったのと同時に手元に現れたナイフで自らの腕を斬り裂く。そこからどくどくと溢れ出る血液を吸い、異能によって塞がれる傷口を舌をねじ込むことで維持する。
そして自分の中を駆け巡る勢いを、実際的な効果のあるものに変換する。
視界に存在する他者を完全な方法で排斥する。この他者を排斥するという行為ほど人間的なものはない。
目の前でいくつもの人間の身体が爆散し内臓と血液が飛び散る様子を眺めて快は興奮する。さらに爆散の勢いは強まり、そのまま自分の周りに存在する他者は完全に除かれた。
それと同時に他者のいなくなった空間によって再び快の身体は靄のようになった。そうなってしまえばここが死体で汚れている、もとい死体を用いた作品と化しているということは気にならなくなる。
そうなるはずだった。しかし、そうはならなかった。
どろどろとした、血液やその他の体液の混ざった、さらにぶよぶよとした内臓まで含んだものが、他者の残滓が、靄となったはずの快の身体に纏わりつき始めたのだ。
おかしい。
自分は今、靄となっているはずだ。つまり自分に干渉できる他者は存在し得ないはずだ。しかしこうして自分は不快な死の塊に纏わり付かれ、さらには段々と圧迫されている。
無い鼻をつく死臭に犯され、無いはずの感覚を痺れさせるほどに圧される。
存在しない身体は、受け取ることは立派に行なっているにもかかわらず発することができない。快はこの苦痛を逃すことができない。
朦朧とする意識。
この苦痛はそうだ、この世界に転移する直前にエンリルに味わされた苦痛よりも苦しい。
そして快は悟った。
これが、無限に他者を殺めることができる自分が求められている代償であると。
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「アアァァァァーーッッ!!!」
「キャァッ!」
突然耳元で叫ばれたイアンナは驚いてさらに強く快を抱きしめる。
快は激しい動悸による血圧の上昇で目眩を感じる。つい先ほどまで自分を殺そうとしていた圧力は、自らの体を取り戻したのと同時にか弱い全力に替わっていた。
「ハァ……ハァ……」
あの恐怖がまだ快の全身を痺れさせる。息は上がり全身の力は抜ける。そしてここで、自分のイアンナと抱き合っている状況を察した。
「……ごめ、イアンナ」
快は自分の突然の動きに驚いたイアンナに謝り、イアンナから離れようとする。しかし彼女は離れない。快の胸にいるイアンナは快の顔を見上げて、快の無事であるのを見て安心する。
「かいくん……よかったです。またわたしの周りから大切なひとがいなくなってしまうのではないかと……」
目に涙を浮かべて自分を心配してくれているイアンナ。快は今まで、誰も自分の内側に受け入れたことはなかった。そんな周りから見て壁のある快をここまで心配してくれる他人などいたはずもなく、快はイアンナに対してどのような言葉をかければいいのかさっぱり分からない。
さっぱり分からないけれど、この細くてか弱い、しかしあたたかい『他者』ならば心の奥底から受け入れても良いのではないかと、何も自分のものは損なわれないのではないかと、そう思えた。
「心配してくれてありがとう、クローヴィスさんもエレシュもあと少しの辛抱だから。それまでニンガルと一緒に三人で待とう?」
ここで、二人で待とうと言えないあたり彼の対人スキルの低さが窺われるが、それでもイアンナにとって一緒に、という言葉は何よりもあたたかかった。
「はい…………その、もーー」
「もう少しこのままでいい? まだ落ち着けてないから」
人の温もりを拒み続けていた快がこうその人の温もりに溺れるというのは矛盾しているようで矛盾していないようでもある。
「……ええ」
イアンナの温もりが全身の痺れを溶かす。イアンナの匂いが鼻にこびりついた死臭を取り除く。イアンナの息遣いが、たまに照れ隠しでしているのかの咳払いが、頭の中で鳴り響いている亡者の絶叫を忘れさせる。
彼女の全てが、先ほどの苦痛だけでなく、今まで快の中にあった固いものを溶かしていく。それはあの彼岸花畑で感じる開放感とはまた違うものだ。
ここでは自分の存在を認識することができる。だからこそ、自分が何か新しいものに生まれ変わったのではないかという感が強く実感させられる。
これが今まで自分が遠ざけていた物なのかと思うと悲しくすらなってくる。
これが、自分が目を遠ざけて正反対の死だけを見つめていた間にずっと自分の後ろに存在していたものなのか。
これは、生というものは、これほど死と同じほど甘美なものなのか。
いやむしろこれは死以上に甘美かもしれない。
なぜならばあそこにあるものは全て冷たいから。あそこは自分の魂と同じくらいに、冷たく、排斥的で、そして無責任だ。
だがここに存在するものはあたたかい。ここはイアンナの魂と同じくらいに、あたたかく、受容的で、そして互いの信頼の上に責任をのせている。
そしてもしやと思った。
自分は今まで大量の人間を死の世界へと押し出した。
しかしそれは、この生を、愛を、奪うということだったのではないかと。自分は今まで、とんでもないことをしていたのではないかと。
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あーあ。




