30.ウル・ディーメア≒神子
つい先ほどまでは存在していなかったように思われるその通路は、濃密な空気に満たされているような感じがする。
『こんなのありましたっけ』
疑問をすぐ口にする癖のある快は、今回も例外なくそう尋ねる。
『簡単な陰魔法でカモフラージュされていました。なのでそれを破ったまでです』
快がそう問うと、ニンガルは入り口の隣のあたりの壁面を撫でてそう答える。魔法陣でもあったのだろうか。
しかしつい先ほどにも述べた通り、この先進むのも憚られるほどの嫌な空気。それがこの通路に充満しているのを入り口の目の前にいる一行は感じとる。
空気なのにドロドロとしたものを感じる。それはおそらく侵入者の肺を侵し、脳を侵し、意識を侵し、そして生まで侵してしまう。そんな何かを感じる。
『エレシュ、私たちに瘴気耐性を』
『はい』
クローヴィスが指示すると、エレシュは全員の背中をポンポンと叩く。快は叩かれたときに特段何かを感じたわけではない。若干不安になるが、エレシュがやったのだ。信頼できる。
そうして全員が陰魔法の影響を受けなくなり、先に進むことになった。前からニンガル、クローヴィス、エレシュ、イアンナ、快の順番で通路に入る。
通路の中は酷いものだった。鼻をジリジリと刺激する異臭に加え、空気が重かった。
その空気が重いというのは比喩ではなく、実際に重いのだ。水中にいる時のように身体の動くのを阻害するような重さ。エレシュの対瘴気の魔法がかけられているのにもかかわらず、体の動きが明らかに悪い。
この空気には明らかに通常の何万倍もの質量がある。もはやそれは否定のしようもない事実であり、一行の不安を一気に掻き立てる。
次の瞬間。
「なっ! なんだっ!!」
その空気が形を持った。それは固体になってだとか、液体になってだとか、そういった話ではない。空気のまま形を持った。
それは無数の蔓のようなもので、一行を一人ずつ通路の空中に縛り上げる。ニンガルのみ絡みつかれる寸前に一行の最後尾に転移し逃れることができた。
他の全員は首に蔓を巻かれ、動くたびに絞められる強さが強くなっていく。つまり、見事罠にかかったのだ。当然ニンガルも含めて、誰もこの状況を打開できない。
「どうですか? 皆さんお揃いでそこに縛られて」
自分たちの観察力不足に悔しげに口元を歪ませる一行の目の前に、ニンガルと全く同じ姿形、口調のウル・ディーメアが現れた。しかし『彼女』が纏っている雰囲気は明らかにニンガルのものとは違い、また立った姿勢にも若干の違いが見受けられる。
『彼女』は先頭で縛られているクローヴィスに近づくと、その顔を撫でた。
「ああ、あなたがクローヴィス=タイラーゲートね。私の同僚を二人も殺しておいてよくのこのこと私のところにまで来ることができましたね、感心します」
快のところからはクローヴィスがどのようなリアクションをとっているのかよくわからない。だがしかし、狭い通路で響き渡るニンガルの声はあまりにも不気味だった。
と思っていると、ウル・ディーメアはクローヴィスを転移させた。
「なっ! どこへ送ったんだ!」
クローヴィスの後ろにいたエレシュが、それに対して声を上げる。しかし、当然『彼女』がそれに取り合うはずもなく。すると快の後ろでニンガルが何かを呟いた。
その瞬間、快たちの首を締める蔓が一気にきつくなる。視界がぼやけてくる。黒い斑点が浮かび上がってくる。頭に溜まった血液が血管を破裂させてでも飛び出ようと抵抗することすらしなくなると、そこには安らかな死が訪れる。
「クケケケケッ! バカだねぇ」
意識が朦朧とする中、快は先ほどまでニンガルが立っていた場所に何かが現れたことを感じる。前方ではニンガルが歯軋りをしている。快はなんとか横目で後ろの存在を確認する。
そこにいたのは、人のような生き物だった。
それは真っ黒でツヤツヤと光っている肌を露出し、目の無い顔は唯一その顔面に存在する残忍な口を強調している。痩せ細った四肢を猿のように地面につき、そろそろと動いている。
どういうことだ。酸素の足りない脳でこの状況を理解することは難しい。しかし一つだけ分かることがある。
それは、今『あれ』に最も近い快が一番危険だということ。
快はもはや後ろを向き続ける気力もエネルギーも残っていない。縛られるがままに前方を虚な眼でボンヤリと眺めている。視界が少しずつ赤黒く染まっていく。
死を覚悟した瞬間、背中に手が当てられ、快は全ての苦痛から解放された。
<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<
快が目を開くと、そこには何もなかった。真っ暗闇で何も見ることができなかった。
ただ、背中に感じる硬くて冷たい感覚から、海蝕洞のどこかで倒れているのだろうと思う。先ほどまで首を締められていたことにより頭痛と目眩が快の平衡感覚を損なわせる。だんだんと立っているのか横になっているのか分からなくなり、逆立ちしているのではないかという疑念すら生まれる。
どれくらい経ったのか分からない、が頭痛が治まってくると、快は周囲を確認するために火球を発動する。それは大火力で快の視界を燃やす。なぜか火のついていない蝋燭があったようで、そこについた火は長時間の明かりを約束する。
快がいた空間は思いの外広かった。そして視界の端に明らかな不自然があった。
それは、長田快の方を見つめている長田快だった。おそらく、というより絶対にウル・ディーメアだ。思考力が復活してきた脳みそを回す。
おそらく、多分。ニンガルは何かを呟いた瞬間ウル・ディーメアを殺すために転移したのだ。しかしそれと同時にウル・ディーメアも転移した。結局入れ替わった形になり、何のためか本来の姿を現したウル・ディーメアがあの黒い生き物だった。そして再びニンガルを『借りた』これが快を転移させ、今は快を『借りて』いる。
となると今のウル・ディーメアが最弱。今殺すしかない。快はとっさに立ち上がる。
風の魔法陣を発動し快は『快』を斬ろうとする。『快』はそれに対して同じように風の刃を生み出す。当然相殺されたそれを気に留めず、快はナイフを二本構えながら『快』に向かって突っ込む。
右右下上下右左、距離を取りつつ火球を発動。すぐさま近づいて身を翻して背後をとり突く。水の魔法陣で相手の足元を滑りやすくして顔面を斬りつけようとする。
快はこの一週間で身につけた殺人の身のこなしを最大限に発揮する。しかし『快』は全く同じ動きをする。双方寸前のところで攻撃は当たらず快は不快感に顔をしかめる。
「あ、そうだ。君って神子なんだね。エンキ様が閣塔にエンリルの使者がやってきたって仰ってたんだけど、まさかクローヴィス=タイラーゲートと一緒に来るだなんて、僕たちからしたらラッキーだよ」
「っ! 何で分かるんだ?」
「何でってそりゃ、自分のことくらいわかるよ」
快はウル・ディーメアの明らかな挑発にのり、再び踏み込む。全身で突っ込み胸を一突き。
するとウル・ディーメアはそれを避けなかった。胸に刺さったナイフは『快』の生命を維持する心臓の壁を突き破り、赤黒い、否、灰色の液体を噴き出す。
「ひっ!」
ウル・ディーメアが避けなかったことに拍子抜けしたのと血液が出てくると思ったら先ほどの空気の液体化したようなものが出てきたのとで思わずナイフを引き抜く。
『快』はその場で倒れた。快は立ち竦んでいる。このままではいけない。そう直感しているのにもかかわらず身体は一切、ピクリとも動かない。
『快』は口から灰色のドロドロとした液体を溢れさせている。しかし胸の周期的な上下は弱まる様子を見せない。むしろそれは先ほどよりもずっと安定している。
「ゲホゲホッ! あ、あはは! どうして僕たち神子ってこんなに優遇されてるんだろうね」
「たち……?」
ウル・ディーメアが上半身を起こして放った言葉の違和感に快は眉を潜める。
「うん? だってほら、別の同僚二人を殺したのは神子かもしれないって死んだ奴ら言ってたし、そもそもあいつだって神子じゃん」
「あいつ?」
あいつとは。快の脳を大量のクエスチョンマークが埋める。
「あいつだよ、転移魔法風の異能を使いまくるあの女」
ニンガルが、神子。快は驚きを隠せない。彼女はクローヴィスに忠誠を誓っているはずだ。それに転移魔法風の異能なんて訳がわからない。必要ないはずだ。もとから転移魔法を扱える人間を神子にすればいいだけなのだから。
しかし、彼女も黒髪黒瞳。たしかニンガルの隠し部屋に入るのに鍵となったのはエンリルの像だった。思い当たる節が無いわけでもない。
「私の異能では、転移魔法と違いだれか名前と顔が思い浮かぶ人の隣に転移できるのですよ? 快君。あなたは殺すのに手間がかかりそうなので後回しにします、待っていてくださいね?」
快の目の前から『ニンガル』が転移して消えた。
<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<
場所は戻り通路。ここにはまだエレシュとイアンナが縛り付けられており、ニンガルはその瞳孔を限界まで閉じている。
クローヴィス、快と立て続けに転移させられ、しばらく時間が経っている。この時にはすでにエレシュ、イアンナの意識は落ちており、辛うじて息はしているといった調子だ。
「さて、面倒ですのでこの二人を転移させてしまいましょうか」
暗闇から突如として湧き上がったウル・ディーメアは、縛られている二人の腰あたりに手を当て、一拍ずらして転移させた。この場に残るのはニンガルと『ニンガル』のみ。
「この化け物がぁ!」
ニンガルは絶叫する。黒針を八本全て取り出し、ウル・ディーメアに向けて風のように走る。しかし超速の二人が戦闘を繰り広げるとどうなるか、今まで予想のつかなかったことだがその結果は双方攻撃を当てられず、だった。
これ以上の真っ直ぐな戦闘は無意味だと悟ったニンガルは動きを止める。相手の隙を見つけようとゆらゆらと歩く。
「どうしてあなた方神子がいるんですか?」
ウル・ディーメアが唐突にニンガルに尋ねる。
「神子? なんの話を」
「あなた方になれば分かりますよ。あなたと快君が神子だってことくらい」
ニンガルは黙ってウル・ディーメアを睨む。
「おや? どうやら快君が神子だったことも知っていたようですね。どうせ邪神エンリルにでも教わったのでしょうが」
ウル・ディーメアの言葉にニンガルが吠える。
「エンリル様は、邪神などではない! 親を殺され、唯一逃され街を彷徨っていた私を救ってくださったんだ! 私は私なりにその恩を……!」
「分かりました分かりました、本当に神子というのは厄介ですね、私たちに似て」
ウル・ディーメアはそう言い残すと、再び転移してどこかへ消えた。
>




