第2話
あれから私たちは大広間から場所を移され、豪勢な応接室のような部屋で話を聞かされている。ちなみに先程の場所は祈りの間というらしい。大聖堂のようなものか、と勝手に理解しておく。
もう今までの常識は、いったんかなぐり捨てることにした。人間とは如何せん社会的通念に縛られがちな生物ではあるが、新しい局面において柔軟性を持った思考が出来る人間こそ生き残るのである。私は「自分が理解できない状況」というものを、出来るだけ許容したくない。だとすれば、その理解を阻む常識をブレイクスルーしてしまえば宜しい。
だから、私とこの少女が突然何かの因果でこの世界に飛ばされ、そしてそこがロベール王国という国で、一神教で、私たちは「聖女」としてこの国を他民族からの侵攻から救う役割を期待されている。付け加えれば、「魔法」というチートのような力も与えられている。現状はこういうことだ。
では次に何を把握すべきか?
大きな問題はただ一つ。
元の世界に還る、という選択肢は与えられないのか、という問題である。
私たちはほぼ強制的に、ここに飛ばされてきた。事前通告もなにも無しにだ。これはこの世界では問題ないことなのかもしれないが、私のいた世界では法律上告知義務違反だろう。契約とは、何事も事前の内容説明と注意事項の確認を十全に行った上、双方の了解の下交わされるべきものである。そして、契約内容が実行される際には、必ず被契約者への告知が必要であるのは当然のこと。
この「聖女契約」なるものがどのような仕組みで行われたのかは知る由もないが、少なくとも飛ばされた時点で私は元の世界にいたのだから、元の世界の法律が適用される余地があるはず。従ってクーリングオフを利用できないかという打診をすべきだ。
そこで王子、もといフィリップが声を掛けてきた。
「大変恐縮なのですが、聖女様。貴女方の聖名を窺っても宜しいでしょうか?」
ああ確かに初対面の相手に対して、自己紹介は必須だろう。仕事において自分の名を名乗る際の態度如何で、第一印象は決まってしまうと言っても過言ではない。いや、最初に目を合わせた時から、という方が正しいだろう。そういう意味では私たちは、お互いの第一印象を既に固めてしまっているとも言えるが。
「あ、あの私、坂下真莉愛って言います。マリアって呼んでください」
…え?いや確かに自己紹介は、円滑な人間関係構築の第一歩ですがね。いやでもね、「お菓子をくれても知らない人についていってはいけない」っていうのは、昔からある格言でしょう?ましてやお菓子をくれるどころか、無害かどうかも分からない赤の他人に、名前を聞かれて素直に答えるか?今時プライマリースクールのお子様ですら警戒して避けると思うが。この少女、もといマリアは相当警戒心が薄いらしい。
「我々にその聖名を呼ぶことをお許しくださるのですか?」
思わずといった風にフィリップがマリアに尋ねると、マリアは困った表情をしながら手を振った。
「あの、さっきから聖名とか様とか、敬語とか、そんな畏まられても私、ただの女子高生だし。…それにフィリップさんもレオさんも、ずっと跪いたままじゃないですか。そんなにしなくてもいいので。あの、普通にマリアって呼んでいいし、普通に話してください。あと、私だけソファーに座っているのもあれなんで、皆さん同じ様に座って下さい」
その言葉に、とても驚いたような様子で2人は面を上げる。
そう、最初からずっと、この2人は跪いたままである。この部屋には今フィリップとレオ、専属騎士と思われる帯剣した男が2人、そして他の司教らしき老年の男が3人控えているが、いずれも跪き頭を垂れたままだ。
私はそれがこの世界、もしくは国での聖女の扱いと心得て特に何も言わなかったのだが、マリアにとっては居心地の悪いものだったらしい。居住まいを楽にしろとのお達しだ。
「そんな、聖女様はなんてお心の広い…」
ぼそりとレオが呟くのが聞こえた。なるほど、そう捉えるか。いやもしくは演技か?しかし最初からずっと観察していたが、このレオという少年、相当信心深いご様子。精神年齢的には、大司教という立場より一介の少年の方があっているに違いない。
「ああ、なんて聖女様はお心が広いのでしょう!これぞ正しく主の御遣い、お心遣いありがたく」
後ろに控えていた、司教らしき老年の男たちも口々に賛美する。――そうだ見給え諸君。これが正しい“世辞”というものだ。
いそいそと2人にソファーを用意している司教たち。恐らく彼らは大司教のすぐ下の位の者、教会内でそれなりの権力を握る人物らだとみた。よくあるではないか、歴史的に見てもトップが年若い場合、大体においてその下の者たちが実権を握ると。今回もそのパターンに違いない。つまりこの場で実質的な話ができるのは、この3人である確率が高い。フィリップも若いとはいえ、こうして国王の代わりに重要な儀式に同席していることから、ある程度の政治的支持は有しているのかもしれない。しかし十中八九この場の裁量権を実質的に握るのは、あの後ろの老人たちだろう。
「では失礼して。それと、貴女の聖名も窺っても…?」
フィリップは今度は私に尋ねてくる。
「マーガレット」
一言だけ声を発して、にこりと微笑む。
これは、今後の交渉への第一攻勢だ。印象操作は交渉術の基礎の基礎。マリアは素で親しみやすさを印象付けたが、私は親しみやすい慈悲に溢れた聖女の役割を担うつもりは一切ない。狙うのは、権力を握るであろう3人の老人たちへ、腹の内を見せない、自分たちより高位の存在だと印象付けることである。
ああ、それと紳士淑女の皆様。私の名前はマーガレットなんかではない。確かに私は元の世界でも北欧系に間違われやすい容姿をしているが、目の色が所謂アースアイであることと顔立ちを除けば、純然たる日本人で間違いない。名前だって、日本人の親が付けたものがある。
まあつまり、偽名だ。はなから本名をフルネームで名乗る気など、さらさらない。何故かって?当たり前じゃないか、こんな魔法とやらの高度技術がある世界で、本名など名乗って悪用されたらたまったもんじゃない。まだ魔法の全容を掴めていないのだ、それに先程私が行使した力を考えると、名前だけで色々と出来そうな気がする。
偽名のセンスの如何は問わないで欲しい。私は格別ネーミングセンスがある訳ではない。少女が“マリア”と名乗ったので、思わず「正に聖女というわけかあ」と思った。それなら私は新自由主義な女でいこうかと。え、発想力が乏しい?いやだから私にネーミングセンスを求めないでくださいな。
こんな下らない思考回路をしていようとも、外面だけは整えている。アルカイックスマイルを心掛けつつ、後ろの老人たちをチラ見する。うん、きちんと私に注意を向けているようだ。
一応フィリップとレオの方も見遣ると、2人とも私をじっと見つめている。…うん?もしかして私にも親しみやすさを求めているのか?残念だが私には君たちに与える親しみなど、これっぽちも持ち合わせていない。精々マリアと仲良しごっこでもしたまえ。
そう思いながら相手が言葉を紡ぐより先に、発言をする。
「ところで後ろに控えている貴方たち、何方様?」
そう言って視線を老人たちに固定すると、すかさずフィリップが答えをくれた。
「大司教の下に就く枢機卿の3人です。大司教の下主への献身に励んでおります」
なるほど枢機卿か。
さて、この3人はどういった派閥を形成し、どういう理念の下に動いているのか。今回の聖女召喚に、誰がどれだけ関わっているのか。まあそういった事柄が分からなくても、最悪この一点だけが確実に知ることができればいい。
「王子。私が帰還することは可能?」
取り敢えず形式を重んじて、王子の方へ問い掛けてみる。
すると一瞬の沈黙の後、フィリップは自分が話しかけられていることを思い出してくれたようで、はっとして返答した。
「その、聖女様。私どもに何か――」
「ああ、その『聖女様』というのは私にもいらない。マーガレットで結構」
「ではマーガレット様。大変恐縮ながら、ご帰還を示唆なされるということは、私どもに何か粗相がございましたでしょうか」
粗相ねえ。いや粗相というなら、告知義務違反を犯して、こうして私をこの世界に連れてきたこと自体が粗相なのだが。この世界は、法曹関係の整備がなっていないのか。
「そうだね、まず私はここに連れてこられることを告知されていない。つまり個人の意思なく、強制的に契約を結ばれたも同然なんだよ。この場合、私のいた世界では告知義務違反といって、契約を反故にする権利が私にはある。つまり私が帰りたいといった場合、貴方たちは私を元の世界へ返還する義務がある、ということなんだけれども」
そう言うと、後ろの3人が明らかに狼狽えた。私が帰らせろと要求することを想定していなかった、もしくは要求されても上手く宥めすかして、はぐらかすことが出来ると踏んでいたのか。
しかし枢機卿たちの反応を見るに、私の最大の要求は鬼門である確率が高くなった。具体的にどういう問題があるかというのはこれからヒアリングするが、ぜひとも技術面での問題でないことを祈ろう。
「その、マーガレット様…貴女がこちらにご降臨なされた時点で、私どもは主の御心があったと思っていたのですが…」
「つまり、完全なる無作為で私はここに飛ばされてきたと?」
「その、こちらとしては聖女様を選ぶといった立場にはありませんので」
「そう、そして私にも選択権が示されなかった。これは契約上重大な欠陥だ。ついては然るべき対処をしていただきたい、と述べているのだが?例えば私を返還し、再び別に聖女を呼び出す。そういった手段も可能かと思うのだけれど?」
途端におろおろとし始めるフィリップ。その助け舟を出すように、枢機卿の1人が口を挟んできた。
「大変恐縮ですが、マーガレット様。貴女は主より選ばれし御方です。私どもが返そうなど、滅相もないことなのでございます」
…雲行きがかなり怪しい。頭が固いだけなのか、別の事情を抱えているのか。もう少し探ってやらねば。
「確かに私は選ばれたと仰るが、私は単に無作為に抽出された一個にすぎない。そして主に選ばれたという私が、自らの帰還を求め別の聖女を要求する。これは十分な理由にならないと?」
すると枢機卿が更に重々しく言葉を重ねた。
「マーガレット様。主に選ばれたということは、とても重要なことなのです。私どもにとっては、貴女こそが聖女様足り得るのです」
ああ、これ以上建前を聞いても無駄だろう。ここは強硬手段でイエスかウィーかヤーを吐かせねば。まったく、私は民間企業戦士であって、軍人でもなんでもないのだが、こういう時だけは上の命令をそのまま諾と遂行する軍隊形式に憧れもする。
「枢機卿。御託は十分聞き飽きている。私が知りたいのはただ一つだけ。私は帰還できるのかできないのか、ただそれだけを尋ねているんだ。分からないか?」
「…聖女様方をお呼び出しするのに、我らの魔力と知識の大半を使い果たしました。そもそも聖女様が帰還なされたという事例はございませんで。仮にご帰還を考えられるとて、大変恐縮ながら私どもの知識では、到底及ばざるということしか…」
――最悪が決定された。
「そう。つまり私たちは、この契約を一方的に押し付けられた上に破棄が不可。その上でこの国を他民族侵攻から守護し撃破するよう、その力を使って奮戦しろと」
多少不躾な言い方をしてでも、求める答えを吐かせてやろうと思っていたが、まさかニェットと返されるとは。
枢機卿の返答の仕方。もし返す方法が確実にあるのであれば、力を貸していただければどうのだとか、帰る方法はいくらでもございますだとか、そういう内容の返事をとりあえず返してくるはず。
なのに、彼らはそうしなかった。否、その答えを持ち合わせていなかったのだろう。つまり、帰れる確証が一切ないということ。
少々苛立った物言いをしてしまう私の気持ちも、紳士淑女の皆様であればお分かりいただけますよね?
「マーガレットさん、そんな言い方しなくても…この人たちも困って私たちに助けを求めてきて、それがたまたま私たちだったってだけで。悪気はなかったんですよ、ね、そうでしょう?」
しかしマリアには理解されなかったらしい。宥めるような物言いをされた。
おい君、自分がどんな状況に立たされているのか分かっていないのか?それとも分かった上で、全く前の世界に未練が無いほど人生捨てていたのか?それとも分かった上で、自暴自棄になって逆に開き直ったのか。後者だとしたら天才だとしか言いようがない。
「マリア様、お優しい言葉ありがとうございます。そうですね、でもマーガレット様もいくら主の思し召しとはいえ、突然のことで動揺もあるでしょうし…」
「それでは少し別室にて心を落ち着けていただいて、それから詳細をご説明させていただこうかと」
「ああ、それがいい、そうしましょう。ではマーガレット様、マリア様、こちらへ」
あれよあれよという間に部屋を移され、マリアと部屋に2人きりにさせられた。
「ええと…マーガレットさん、でいいんですよね」
「そうだよ」
「さっきも言ったかもしれないですけど、私、マリアっていいます。坂下真莉愛…ええと、マリア・サカシタです」
「言い直さなくても大丈夫。坂下さんね」
「マリアって呼んでください!その、私日本出身なんですけど、マーガレットさんはどこの国の人なんですか?」
「日本人だよ」
「ええっ!私てっきり外人さんかと…!」
「最初から日本語、普通に喋っていたでしょ」
「あ、そういえば…すみません、私てっきりスウェーデン人とかロシア人とかかと思ってて」
「よく言われるから、気にしていないよ」
「えっと、私東京の高校通っているんです。高校2年生です!」
「ふうん、じゃあ17歳とかだね」
「あ、そうです!マーガレットさんは、働いているんですか?」
ふと自分の格好を見る。そういえば退社したときのままの格好なので、タイトスカートにカットソー、ジャケットに黒のピンヒールという格好だ。明らかにOLです、と言わんばかりの服装。
「そうだよ、外資企業で働くOL」
「へー!海外で働くとか、すごいかっこいいです!何歳くらいから海外いるんですか?」
いや、外資系企業にも日本支社はあるぞ。というか日本人で外資系企業に勤めている人間なんて、だいたい都内にある本社勤めが大多数だ。まあ高校生となればそこまで知識がなくても仕方ないのかもしれない。それに私は日本支社ではなく本国勤務なので、実際日本にはいなかったわけだが。
「いったん日本で就職して、それから海外大学院いって資格とって転職したから数年だね」
「海外の大学院もいったんですか!英語できるってすごいー。ちなみにそれ、結婚指輪ですよね?」
「そうだよ。結婚して6年。子供もいる」
「え?!全然そんな年上に見えませんでした…」
よく言われる。北欧顔にしては若く見られがち。これだから仕事で初対面の相手には舐められないよう、それなりに苦心して演じているのだ。
「でも確かに、すごく態度が落ち着いてますよね。さっきも私、突然のことで色々パニックになっちゃって。なんかマーガレットさんがかっこよく話してくれたから、ちょっと落ち着きました!」
「そう、それならよかった」
私が淡々と返すと、一瞬言葉に詰まってからマリアは少し落ち込んだように話し始めた。
「あの…マーガレットさんはこの状況、すごくびっくりしたりしなかったですか?」
「私?そりゃもちろん驚いたね」
「ですよね。私も今、何が何だか分からなくて…いきなりこんなところに連れてこられたと思ったら、“聖女様”とか呼ばれるし。正直最初、本当に泣きそうでした。しかも帰れないとか言われちゃうし。今でも怒るところなのか、泣くところなのか、それとも選ばれたって喜ぶところなのか、ぐちゃぐちゃで全然よくわからないんです。でも…一つだけはっきりしてることがある」
うん、確かに一つはっきりしていることは、私にもあるが。
「――目の前に、困っている人たちがいるっていうことです。あの人たちだってきっと、必死に私たちを呼んだと思うんです。フィリップさんとかレオさんとかの話を聞いたかぎり、この国の人たちは侵略されて、土地を荒らされて困っている。そこに、救える力を持った私たちがようやく現れたんです。きっとすごく辛い思いとかもしてるはず。準備に何年もかけたって、レオさんも言ってました。私たちはあの人たちに必要とされて、ここにやってきた。選ばれてきたんだって、フィリップさんもレオさんも言ってました。それってつまり、私たちにしかできないことがここにあるってことですよね」
マリアはそこでいったん息を吐くと、今度は大きく吸って私の眼を見ながら、きらきらした表情で続けた。
「だから、私、本当にいきなりの話ではあったけど、あの人たちに協力するの、嫌じゃないんです。…ううん、できれば力になってあげたい!それで、その、マーガレットさんも同じ様に聖女としてここに来たんですし、一緒に力を合わせてこの国を守ってあげませんか?!」
ぐっと拳を握りながら、マリアは必死に訴えてくる。なるほど、彼女は聖女としての人選に最適なのだろう。
じゃあ私はどうなのかって?
私は、当然――私を“選んだ”とかいうその“主”とやらに心の底から呪いの言葉を吐きかけているところだ。
主の思し召し?主が望みたもうた?
ふざけるな!!!!!
私は無神論者だ。基本的に神なぞ、形而上学の存在でしかないと考える一個人。神という概念を作ることは個人の自由だが、それを他人に強制することは、まさに中世ヨーロッパの悪癖、自由なき秩序だ。
それを押し付けられた挙句、一方的に契約を締結され告知もされず、ましてやクーリングオフも効かない。このような横暴が、高度社会にて通用するとでも?
更に腹立たしいのは、その単なる押し付けでしかない契約締結を、主という御名の下に全て正当化しようとするその傲岸不遜さ!唯一神というものが存在するというのならば、それは自由市場主義の破壊者に違いない。
しかしどう足掻いても、現状選択肢は今のところ一つだけ。今はこの世界で生き抜くしかないのだ。
だとすれば、私はどのような行動をとるべきか。
取り敢えず、この世界で生き延びるために最善を尽くそう。
――そして、いつの日か再び自由の切符を手に入れ、この世界に私を連れ込みやがった無礼極まりない唯一神とやらに、自由主義の鉄槌を下してやるのだ。