物語のプロローグは突然に
1999年7か月、空から恐怖の大王が来るだろう。
アンゴルモアの大王を蘇らせ、マルスの前後に首尾よく支配するために。
百詩篇 第10巻72番
子供の頃はそういうのに憧れていた。剣と魔法だとか、勇者や魔王だとか。何度も夢見て到達しようとした。どこかに別の世界の入り口があるんじゃないかって。
でもやがて現実と言うものを理解してしまった。魔法なんて存在せず、ドラゴンは空想。剣ですら遠い過去の遺物だ。
この世界は、訳の分からない小難しい法則や技術者たちが拵えた機械で成り立っている。神秘的なものは何一つなく、全て科学と言う言葉で証明できる。
便利で快適で――とてつもなく、退屈な世界だった。
そんな場所でずっと生きていく事に俺は抗おうと、一時期は色々拗らせて周りに迷惑をかけたこともある。
二十歳になっても定職に就かず、フリーターで食い扶持を得ているのは、未だにその情けない部分が抜けてないせいだろうか。
今日もたった今バイト先の職場に辞表を叩きつけてきたばかりだ。普通の公務員だったら、例え気に食わない奴がいても笑顔で接せられるのに、俺にはできなそうにない。
「はぁ……明日からまた探さないとな」
無職になろうものなら途端に無一文へ一直線。分かってはいるのだが、依然やる気は低い。面接怠いなぁ、と心の中でも盛大に溜息をついて歩いていると、爪先に何かが当たった。
視線を落として確認すると、それはいわゆる女子向けアニメに出てきそうな玩具の杖。あるいはコスプレに使う小道具か何かだ。
誰かの落し物か? そう思いながらも俺はそれを拾い上げる。いつもなら落ちているものなど、蹴り飛ばして無視するのにこの時に限って俺は拾ったのだ。
――まるで何かに誘われるかのように。
「……ん?」
その杖を持った瞬間、微かな熱を感じた。すぐに持ち直してみるが既に消えている。
気のせいか?
まあいい。交番に届けよう。
自宅の傍に駐在所がある。どうせ帰り道だ、たまには良いことでもしよう。
俺は杖を鞄にしまい、歩き出そうとした刹那――、
言いようのない違和感が押し寄せた。
見えない力の流れ……あるいは、殺気……そんな漠然とした考えがフッと湧いてくるのも、中二病の名残か。
「一般人だと?」
そんなアホなことを考えていたら、暗がりから足音が聞こえてくる。人間の足音じゃない。
もっと重々しいもの、だ。
「しかも男ではないか。はてさて、どうやら奴は人員不足でなりふり構わなくなったようだな」
「違うよ、ジャルディス。こいつからは何の魔力も感じない。無関係の人間だね」
果たして、闇の中から姿を見せたのは二メートルほどの巨人だった。頭部は牛に似ていて、こめかみのあたりからは捩じれた二本の角が突出している。
腕も手足も胸板もボディビルダーのように筋肉で盛り上がり、両手で馬鹿でかい両刃の斧を握る。
「……ミノタウロス?」
積み重ねてきた知識は、その姿から直ちに答えを弾き出す。目の前に突然現れた巨人はどう見てもファンタジーでお馴染の牛頭の怪物だった。
「ほう。素養のない一般人でも我らを知っておるのか。……やはり関係者では?」
ミノタウロスはブシュッ、と鼻の孔から熱い息を吐き出す。体内の温度が高いのか、湯気となって立ち昇っていく。
「ええ? そんなはずないんだけどなぁ。だってこんなジミな男、見たことないし」
やたら渋い声のミノタウロスに応えるのは、その怪物の肩に乗っかった一人の少女だ。まるで誰かの喪に服しているような、一点の染みもない漆黒の衣を身に着けている。
しかし喪服と言うには露出度も高く、目のやり場に困るが……、それでも視線を逸らせないのは背にあるコウモリのような黒い翼のせいだ。歪で巨大な暗黒の翼。そして黒い衣服。まさに悪魔、としか言いようがない。
「ねぇ、キミ」
女の子は笑う。妖艶で怪しい笑みだ。友好的な感じは、ない。
「拾ったものを渡してくれる?」
まさか、この杖? ……やっぱコスプレか何かなのか?
「杖を拾っただろう。こちらに渡せ」
ミノタウロスが鋭い眼光で睨んできた。
どうやら異常者の二人組のようだ。刺激しないよう、俺は素直に鞄から杖を取り出すが――。
「うお!?」
その杖についている水晶玉――と言っても玩具なんだからブラスチックだろうけど――が七色に光り出す。
「主……信じられぬが、適合者だ」
「ウッソー! 男で?」
それを見たミノタウロスは、物騒な武器を構え直し……、
「何を……」
「悪いな。魔法少女は、倒す。それが我らの命」
「ゴメンネ。せめて一思いに殺してあげるから」
何を言っているんだ? 殺す? 誰を? ……俺を?
「――」
少女が呪文のような言葉を吐くと、突き出した掌に丸い図形のような線画が展開する。俺は瞬時にそれが魔法陣であることを察するが、だからと言って何もできずに呆けるだけ。
いざって時に的確に動ける人は少ない。ましてや、ただのフリーターに何ができる。
「【ベンデッタ】!」
俺に向かって飛んでくる、拳大の鮮血のように紅い塊。
「っおお!?」
幸い弾速は遅く、ゲームで鍛えた俺の動体視力でも何とか見切れる。だがそれだけで完全に腰が抜けてしまい、無様に尻もちを突いたっきり立てなくなった。
弾丸は俺を掠め、背後のブロック塀に直撃。コンクリートを積み木のように崩して破壊した。それを見た俺は息を呑み、心臓が激しく暴れ回る。歯の根がかみ合わず、ガチガチと音を立てた。
こいつら、ヤバイだけじゃない! 何か、得体の知れないことをやってきやがった! 何だよ今の!? CGか!? 特撮!? 意味わからねぇ!
「躱された……」
「あんな低速の攻撃魔法弾など、一般人でも腑抜けでなければ躱せるわ」
今度は自分の番だ、と言わんばかりにミノタウロスが進み出る。
「赦せよ。痛みは感じさせぬ……一瞬だ」
振りかぶられ、ギラリと輝く白刃。その冷たさから、決して作り物ではないと認識してしまう。
何で、こんな……俺が、何の理由も分からないまま殺されなきゃいけないんだ。しかも相手は怪物と悪魔。ガキの頃願い続けた産物が今更になって、しかも殺しに来る? 笑えない冗談だ。
クソ、何で警察は来ないんだ! こんなに派手に騒いでるのに! 無関心ぶりもここまで拍車がかかったのかよ!?
「自らの運命を恨め」
そんな身勝手なことを告げて、ミノタウロスは斧を握り直す。間もなくあの青白い刃は俺の皮膚を切り裂き、肉を抉り、骨を叩き折って、真っ赤に染まる。
無残な俺の死体には目もくれずに去っていくんだろうな……きっと。
「――……ふざけんなよ」
その時、恐怖だけの心に別の感情が灯った。もしかしたら、おかしくなったのかもしれない。恐怖が一周して、感情がぶっ壊れたのか。
俺は杖を握り締める。こんなふざけた死に方をするくらいなら、せめて盛大に足掻いてやる。
――そうだ。思い出せ。過去の日々を。何のためにファンタジー関連の書籍を読み漁った?
いつ、今みたいな状況が起きても冷静に対処するためだろ!
バカにされても辞めなかった努力がついに実を結んだんだ。なら、もうやることは決まっている。
「ッ、何!?」
「や、ヤバイよ! ジャルディス、引いて! 早く!!」
杖の輝きは一層強まり、俺を包み込んだ。眩い光が全身を抱擁して何も見えなくなる。しかし視覚への痛みや辛さはなく、むしろ心地よさすら覚えた。
まるでぬるま湯の中を漂っているような――優しさと温かさがある。
虹色の煌めきの中で浮かぶ杖。心臓の鼓動に合わせ明滅を繰り返す。
何故か形は変形しており、柄の長さは俺の肩に届くくらいにまで伸び、先端部も独特なデザインになっていた。
忘れかけていた情熱。それを固め、封じ込めた現実という殻。
だってそれは空想で、決してたどり着けない場所にあったから。
この世界で生きるのには不要なモノだったから。
どんなにバカにされても諦めなかった、昔憧れていた夢を、叶えられるのなら――!
「ああ、戦ってやる!」
だから……連れていけ――!! 遠い彼方、恋い焦がれた領域に!
虹色の光が弾け飛ぶ。
思わず目を覆い、後退したミノタウロスの怪人ジャルディスと悪魔の少女は、それを目にする。
「……なんと!」
先ほどまでの冴えない男は、いない。
代わりに立つのは幼い女の子だった。手に握る杖は彼女の身の丈よりやや短い程度、その衣装は紺色を基調としている。
デザインは肩口が露出するノースリーブ。随所に装甲も設けられ、ファンシーと言うよりは機能性を重視した感じだろうか。
「ウソ、変身した!? ……しかも魔力の値が一気に跳ね上がってる! 何なの!? ありえないよ!」
驚きを露にする二人。しかし当の変身した少女も少女で茫然と佇んでいる。自分の手を見たり、頬をつねったり、道路脇のミラーを覗いたりと忙しなく、最後に自らの股間へと触れて――、
「はぁあああああああああああ!?」
可愛らしい声で絶叫した。