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スキル『翻訳』のせいで、愛犬がずっと「エサくれ!クソ野郎!」と罵ってくるのがわかる

作者: あゆと
掲載日:2026/07/06

 佐倉悠斗の人生は、愛犬こむぎを中心に回っている。


 朝は、こむぎのごはんから始まる。

 夜は、こむぎのごはんに間に合うように帰る。

 休日の予定は、こむぎの散歩と昼寝とおやつの時間を避けて組む。


 スマホの写真フォルダは、ほとんどこむぎだった。

 こむぎの寝顔。

 こむぎの肉球。

 こむぎの後頭部。

 こむぎの変な寝相。

 近すぎて鼻しか写っていないこむぎ。


 フォルダ名は「人生」だった。


 悠斗は、まあまあ良い育ちをしている。


 食事の前にいただきますを言うこと。

 目上の人には丁寧に話すこと。

 乱暴な言葉はなるべく使わないこと。


 親からそう教えられてきたし、社会人になってからも、メールの文面は固めで、部屋は片づいていて、来客用のカップもちゃんとある。


 ただし、こむぎのことになると少しおかしくなる。


 ペット可マンションを選んだ理由は、駅近でも築浅でもなく、こむぎが滑りにくい床材だったからだ。

 リビングには、こむぎ用の淡いピンクのベッドがある。

 ごはん皿は、滑り止めつきの白い陶器。

 首輪は花柄。

 季節ごとのリボンもある。


 夜の飲み会も、駅ビルのセールも、残業の空気も、こむぎの夜ごはんの前では全部後回しだった。


 今日も悠斗は、定時を少し過ぎたところで仕事を切り上げた。


「すみません、今日はこのまま失礼します」


 職場では丁寧に頭を下げる。

 廊下に出る。

 エレベーターに乗る。

 会社の自動ドアを抜ける。


 そこから先は、少しだけ早足になった。


 こむぎが待っている。


 改札を出て、いつもの道を歩く。

 頭の中には、玄関で待つこむぎの姿が浮かんでいた。


 小さめの柴犬。

 淡い茶色の毛並み。

 白い口元。

 くりっとした黒い目。


 こむぎは女の子だ。

 少なくとも、悠斗はそう思って、花柄の首輪も、淡いピンクのベッドも、季節ごとのリボンも買った。


 名前を呼ぶと、耳をぺたんと伏せて、前足をそろえて座る。

 上目づかいでこちらを見る。

 尻尾を控えめに振る。


 その顔を見るために、今日も生きている。


 悠斗はまだ知らなかった。


 こむぎは、その顔が効くことを知っている。


 歩道の端に、白い犬がいた。


 首輪をつけているが、飼い主らしき人はいない。

 犬は車道の方へふらふら歩き出した。


「危ない!」


 悠斗は反射的に駆け寄り、白い犬を抱き上げた。

 車がすぐ横を通り過ぎる。


 白い犬は、やけに落ち着いた目で悠斗を見た。

 首輪には、小さな銀色のタグがついている。


 迷子札かと思い、悠斗がスマホのライトを当てた瞬間、画面に妙な通知が出た。


【スキル『翻訳』を獲得しました】


「は?」


 広告かと思った。

 疲れているのだと思った。

 こむぎ成分が不足して、脳が変な通知を出したのだと思った。


 だが、次の瞬間、駅前の外国語案内が自然に読めた。

 通りすがりの外国人観光客の会話が、日本語の意味として頭に入ってくる。


 白い犬は、悠斗の腕からするりと降りた。

 そして、どこか満足そうに尻尾を一度振ると、細い路地へ消えていった。


 普通なら、警察か病院かネット検索か、何かしら確認するべき場面だった。

 だが悠斗には、それどころではない問題があった。


 こむぎの声が分かるかもしれない。


 こむぎは、いつも何を言っているのか。

 玄関で迎えてくれる時。

 ごはん皿の前で座っている時。

 膝にあごを乗せてくる時。


 おかえり。

 待ってた。

 大好き。


 そんな言葉が聞けるかもしれない。


 悠斗はその場で両手を握った。


「ありがとう、白い犬。いや、白い神。俺は今、人生の本番に入る」


 通行人が少し距離を取った。

 悠斗は気にしなかった。


 こむぎが待っている。


 悠斗は、ほとんど走って帰った。



 ペット可マンションのオートロックを抜ける。

 エレベーターの上昇が、今日に限って遅く感じる。


 悠斗は自室の前で一度だけ息を整えた。


 こむぎの声を聞く。

 そのために、今から扉を開ける。


 鍵を回す。

 中から、小さな足音が近づいてきた。


「ただいま、こむぎ!」


 ドアを開けると、こむぎがいた。


 玄関マットの上で、前足をきれいにそろえて座っている。

 耳は少し伏せている。

 黒い目は、潤んでいるように見える。

 尻尾が床を一度だけ、控えめに叩いた。


 かわいい。


 悠斗の心は、帰宅三秒で完全に溶けた。

 今日も生きて帰ってよかった。

 この顔を見るためなら、満員電車も上司の無茶ぶりも許せる。


 こむぎはさらに首をかしげた。


 角度が完璧だった。

 上目づかいになりすぎず、あくまで自然に見える角度。

 悠斗が一番弱い角度だった。


「こむぎ。ただいま。俺に何か言いたいことある?」


 悠斗は両手を広げた。


 聞かせてくれ。

 君の本当の声を。

 俺は今日、そのために帰ってきた。


 その瞬間、悠斗の頭の中に、見た目どおりの甘い声が流れ込んだ。


『エサくれ!クソ野郎!』


 悠斗は玄関で崩れた。


 膝からいった。

 鞄が落ちた。

 スマホも落ちた。

 こむぎの写真でいっぱいの画面が、玄関の床に伏せた。


「うそだろ」


 こむぎは、かわいい顔のまま座っている。

 耳も伏せたままだ。

 目も丸い。

 尻尾も控えめに揺れている。


 声も、かわいかった。

 鈴みたいに澄んでいた。

 花柄の首輪と、淡いピンクのベッドと、季節ごとのリボンが似合う声だった。


 だから余計に、言葉の中身だけが終わっていた。


「待ってくれ。違う。今のは違う。俺の脳が悪い。こむぎは悪くない。こむぎは花柄の首輪が似合う女の子だぞ。俺が毎晩かわいいねって言うと、耳を伏せる天使だぞ。天使の声でクソ野郎って言うわけないだろ」


 悠斗は、自分でも驚くほど動揺していた。

 普段なら、こんな乱暴な言葉を声に出すことも少ない。

 それが、こむぎの声で聞こえた。


 正確には、こむぎの口からではない。

 翻訳された声だ。

 しかし、声がかわいいからこそ逃げ場がなかった。


 こむぎは、もう一度首をかしげた。

 片耳だけが、ぴこっと動く。


 かわいすぎる。


 かわいすぎるのに、頭の中にはまた同じ声が来た。


『二回もかわいい顔させるな。エサくれ!クソ野郎!』


「声は天使なのに、二回目の方が明確にひどい!」


 悠斗は床に両手をついた。


「違う。何かの間違いだ。こむぎ、もう一回だけ。今のは冗談だよな? こむぎは俺の帰りを待ってたんだよな? おかえりって、そう言いたかったんだよな?」


 こむぎは、待ってましたと言わんばかりに前足を悠斗の膝へ乗せた。

 鼻先で悠斗の手をつつく。


 この仕草を、悠斗はずっと甘えだと思っていた。

 今でも甘えだと思いたかった。


「こむぎ。俺のこと、好きだよな?」


 こむぎは、悠斗の手にあごを乗せた。


 重みはほとんどない。

 だが、逃げられない。


 完全に愛情表現だった。

 そう見えた。

 少なくとも、スキルを得る前の悠斗なら、その場で写真を三十枚撮っていた。


『この角度だ。こいつはこの角度に弱い。その手が袋を開けるんだろ。エサくれ!クソ野郎!』


「俺の弱点、研究されてる!」


 悠斗は胸を押さえた。

 心臓が痛い。

 でも、こむぎのあごが手に乗っている。

 ふわふわだ。

 あたたかい。

 世界一かわいい。


「くそ、かわいい……! 声も顔も全部かわいいのに、言ってることだけ全部ひどい……!」


 こむぎは、うるうるした目で見上げてくる。


 悠斗は自分の中で何かが折れる音を聞いた。


「分かった。まずごはんにしよう。お腹が空いてるから、ちょっと言葉が荒いんだよな。そうだよな。空腹は人を変える。犬も変える。こむぎは悪くない。空腹が悪い」


 悠斗は立ち上がった。

 よろけながら、リビング横の収納へ向かう。


 床にはこむぎ用の滑り止めマットが敷いてある。

 白い陶器のごはん皿は、いつも通り清潔に洗ってあった。

 フードは、少し高いが、こむぎの毛艶に良いと聞いて買い続けているものだ。


「待ってろ、こむぎ。俺が今、天使の言語を取り戻す」


 ドッグフードの袋を出す。


 こむぎはキッチン横のごはん皿の前に移動し、きれいに座った。

 背筋を伸ばし、前足をそろえる。

 まるで、良家のお嬢様犬である。


 さっきまで膝にあごを乗せていた犬とは思えないほど、姿勢がよい。

 そして、その姿勢のまま、ほんの少しだけ耳を伏せた。


 待っている。

 健気に待っている。

 そう見える。


『早くしろ。俺のかわいい待機姿勢にも限界があるぞ。エサくれ!クソ野郎!』


「待機姿勢のかわいさを自覚している!」


 悠斗は袋を持つ手を震わせた。


「恐ろしい子……いや違う、こむぎは恐ろしくない。こむぎはかわいい。かわいいは正義。正義がクソ野郎と言うなら、それは何かの翻訳ミスだ」


 皿に規定量のフードを入れる。

 こむぎは、合図を待つ姿勢をした。


 偉い。

 かわいい。

 やはり、こむぎは天使だ。


『待たせるな。エサを目の前にして食わせない儀式を発明したやつもクソ野郎だ』


「待てへの憎しみが深い!」


「よし」


 こむぎは食べた。

 小さな口で、勢いよく食べた。

 カリカリという音さえかわいい。


 悠斗は両手を合わせた。


「よかった。これで戻る。満たされれば、こむぎはいつものこむぎに戻る。俺が知っている、ふわふわで、優しくて、世界で一番かわいいこむぎに」


 こむぎは皿をなめ終えると、空の皿の前で再び座った。

 先ほどよりも少し耳を伏せ、黒い目で悠斗を見上げる。


 少しだけ悲しそうだった。

 皿が空で寂しい、とでも言いたげな顔だった。


『今のは前菜だ。本番のエサくれ!クソ野郎!』


「前菜じゃない! 規定量! 獣医さんが決めた命のライン!」


 こむぎは、空の皿をもう一度なめた。


『皿が空だ。つまりエサが必要だ。エサくれ!クソ野郎!』


「皿が空だから食べ終わったんだよ! 終わりを始まりに変えるな!」


 悠斗は床に座り込んだ。

 だめだ。

 このままでは、こむぎ信仰が崩壊する。


 おかしい。

 こむぎがこんなはずはない。

 こむぎは世界で一番かわいい。

 こむぎは天使。

 こむぎは、悠斗の生きがいだ。


 ならば、悪いのはスキルだ。


 悠斗は顔を上げた。

 目に力が戻った。


「そうだ。スキルだ。こむぎじゃない。こむぎの心が悪いはずがない。俺はこむぎの肉球を知っている。あの肉球からクソ野郎は出ない」


 悠斗は頭の中に浮かぶ半透明の表示へ意識を向けた。


【スキル『翻訳』】

【翻訳音声:オン】

【翻訳モード:通常】

【詳細設定を開きますか?】


「設定がある!」


 悠斗は救われたように叫んだ。


「ほら見ろ! 通常モードが悪い! 通常が荒いんだ! こむぎは無罪! 弁護側は翻訳設定の不備を主張します!」


 こむぎは、悠斗の足元に寄ってきた。

 前足でちょいちょいと悠斗の靴下を触る。


 かわいい。

 かわいいが、もう油断はできない。


「こむぎ。今からちゃんと訳してやるからな。大丈夫だ。俺は最後までお前を信じる。たとえ世界中がこむぎをクソ野郎呼ばわりする犬だと言っても、俺だけは翻訳モードを変える」


 こむぎは首をかしげた。

 右に少し。

 次に左に少し。


 まるで、悠斗の反応を見ながら角度を調整しているようだった。


『早くしろ。設定よりエサだ。クソ野郎!』


「今、弁護してるんだよ!」


 悠斗は設定を切り替えた。


【翻訳モード:丁寧語】


 こむぎは前足をそろえ、少しだけ上品に座り直した。


『お食事をお出しくださいませ、クソ野郎様!』


「丁寧語が敗訴した!」


 悠斗は床を叩いた。


「様を付けるな! いや付けるならクソ野郎を消せ! 敬意と罵倒を同じ皿に盛るな!」


 すぐ次に変える。


【翻訳モード:直訳】


 こむぎは皿を見る。

 悠斗を見る。

 また皿を見る。


 余計な演技を捨てた、まっすぐな圧だった。


『飯。出せ。今。クソ。野郎。』


「弾丸みたいに撃ってくるな!」


 悠斗は胸を押さえた。


「一語ずつ刺さる! 特に最後の二発が痛い!」


 悠斗は半透明の設定画面にすがった。


「まだだ。まだ最後の希望がある。好意的解釈だ。好意的ならいける。こむぎの荒い言葉の奥にある愛を、スキルがきっと拾ってくれる。頼む。頼むぞ、翻訳。俺とこむぎの五年間を救ってくれ」


【翻訳モード:好意的解釈】


 こむぎは、悠斗の手にあごを乗せた。

 ふわふわの毛が触れる。

 黒い目がこちらを見ている。


 しかも、ただ見ているだけではない。

 悠斗が一番かわいいと思う距離まで、ちゃんと詰めている。


 愛だ。

 これは愛だ。

 今度こそ愛だ。


『大好きなあなたから、今すぐエサをもらいたいです。クソ野郎!』


「最後! 最後だけ! 最後だけ助からない!」


 悠斗は後ろに倒れかけた。


「大好きって言った! 今、大好きって言ったよな? 声も完全にかわいかった! でもその直後にクソ野郎って言った! どう受け止めればいいんだ、これは! 愛の後味が最悪!」


 それでも、悠斗の手は勝手にこむぎの頭をなでていた。


 こむぎは目を細めた。

 その顔まで、ちゃんと悠斗に効いた。


『あなたになでられると安心します。だから手を止めないでください。あとエサくれ!クソ野郎!』


「前半だけなら泣けた!」


 悠斗はこむぎの頭をなでながら、半分泣きそうになった。


「今の、途中までは完全に愛だっただろ。なんで最後に請求書みたいな勢いでエサと罵倒が来るんだよ」


 こむぎは、さらに目を細める。

 悠斗が一番弱い、満足そうな顔だった。


『あなたの手は好きです。なで方も悪くありません。でも本命はその手が開ける袋です。エサくれ!クソ野郎!』


「好意的に解釈しても、本命が袋!」


 悠斗は設定画面を見た。


【翻訳モード:好意的解釈】


「だめだ。このモード、希望を見せてから落としてくる」


 悠斗は、震える指で設定を戻した。


【翻訳モード:通常】


「……戻したら戻したで、怖いんだけど」


 翻訳が悪いわけではない。

 声が悪いわけでもない。

 好意的に解釈しても、通常に戻しても、最後に必ず残るものがある。


 エサ。

 そして、クソ野郎。


 こむぎの中身が、こうなのだ。


 だが、こむぎはかわいい。


 それが問題だった。



 その翌朝。


 悠斗は、布団の横に気配を感じて目を覚ました。


 こむぎが座っていた。

 朝日を背負い、前足をそろえ、耳を少し伏せている。

 世界で一番かわいい顔だった。


 しかも、枕元の位置が絶妙だった。

 近すぎると悠斗が驚く。

 遠すぎると気づかれない。

 こむぎは、悠斗が目を開けた瞬間に「かわいい」と思う場所を知っていた。


『この顔をすれば起きるんだろ。エサくれ!クソ野郎!』


「起きる! 起きるけど! 起きる自分が悔しい!」


 悠斗は目を閉じたまま、五秒だけ抵抗した。

 六秒目に布団から出た。


「おはよう、こむぎ。今日も俺の負けだ!」


 こむぎは満足そうにキッチンへ向かう。


 朝食後、宅配便が来た。


 インターホンが鳴った瞬間、こむぎは玄関へ走った。

 扉の前で前足をそろえ、期待に満ちた顔をする。


 箱からエサが出てきた日だけを、こむぎは強く記憶している。


『箱だ。中身を検査しろ。エサなら開封、違うなら返品だ。クソ野郎!』


「今日はトイレットペーパーだよ!」


 荷物を受け取る。

 こむぎは箱の匂いを嗅ぎ、すぐに顔を上げた。


『食えない箱を家に入れるな!クソ野郎!』


「生活必需品なんだよ!」


 こむぎは段ボールから興味を失い、悠斗の足元に座った。

 そして、いつものかわいい顔をした。


 ただ座ったのではない。

 段ボールへの失望を、少し悲しげな目に変えていた。


 かわいそうな犬。

 期待を裏切られた犬。


『無能な箱の補填としてエサくれ!クソ野郎!』


「補填って何だよ!」


 悠斗はおやつ棚を見た。

 見ただけだ。

 手は伸ばしていない。


 こむぎが、さらに首をかしげた。


「やめろ。この角度は効く」

『効くからやってる。エサくれ!クソ野郎!』


「知ってた! 知っててやってた!」


 悠斗はおやつ棚を開けた。

 開けてから、自分がまた負けたことに気づいた。


「一個だけだからな! 一個だけ! これは敗北じゃない。家庭内調整だ!」

『最初からそうしろ。エサくれ!クソ野郎!』



 夜。


 悠斗は最後の希望を試すことにした。


 満腹で、眠い時なら。

 さすがのこむぎも、少しは違うことを考えるのではないか。


 悠斗は、少し高いささみを茹でた。

 細かく裂いて、いつものフードに混ぜる。


 こむぎは皿の前で、今までで一番美しい待機姿勢を見せた。

 前足の角度。

 耳の伏せ方。

 尻尾の置き方。

 全部が整っていた。


『それだ。白い肉だ。今日は少しマシだぞ、クソ野郎!』


「褒めてるのに腹立つ!」


 こむぎは完食した。

 皿をなめ、床を確認し、何も残っていないことを理解した上で、クッションの上に丸くなった。


 眠そうな目。

 小さな鼻。

 前足に乗せたあご。

 寝息になりかけた呼吸。


 かわいい。


 それは本当にかわいかった。

 演技だとしても、かわいい。

 計算だとしても、かわいい。

 あざといと分かっていても、かわいい。


 悠斗は、そっと隣に座った。


「なあ、こむぎ」


 こむぎは片目だけ開けた。


「俺のこと、どう思ってる?」


 こむぎの尻尾が、一度だけ動いた。

 悠斗は期待した。


 これは来る。

 今度こそ、何かある。

 こむぎの中にも、エサ以外の何かが。


『明日の朝もエサくれ!クソ野郎!』


「食後に予約するなあ!」


 悠斗は顔を覆った。

 だが、まだ諦めきれない。


「それ以外にないのか。俺への気持ちとか、日頃の感謝とか。ほら、あるだろ。いつもありがとうとか、帰ってきてくれて嬉しいとか、悠斗だいすきとか!」


 こむぎは眠そうに鼻を鳴らした。

 その鼻の鳴らし方も、かわいかった。

 今の質問に答える気はなさそうなのに、かわいかった。


『朝は七時だ。遅れたらクソ野郎から超クソ野郎に昇格だ』


「昇格制度、こっちに何の得もない!」


 こむぎは、そのまま寝た。


 悠斗はしばらく、こむぎの寝顔を見ていた。


 かわいい。

 どうしようもなくかわいい。


 でも、もう限界だった。


「俺は、お前の声を知らなかったころに戻る」


 悠斗はスキル画面を開いた。


【スキル『翻訳』】

【翻訳音声:オン】


 迷わず、オフにする。


【翻訳音声:オフ】


 部屋が静かになった。


 こむぎが顔を上げる。

 前足をそろえ、耳を少し伏せて、黒い目で悠斗を見上げた。


 声は来ない。


 ただ、かわいいこむぎがいるだけだった。


 悠斗は、心の底から息を吐いた。


「そうだよな。やっぱり、こむぎは声が分からなくてもかわいい。これでいい。俺はこれで幸せだったんだ。こむぎはかわいい。世界はそれだけで完成してる」


【字幕表示:オン】


「待て」


 こむぎが、悠斗の膝にあごを乗せた。

 しかも、今日いちばんかわいい角度で。


「わん!」

(エサくれ!クソ野郎!)


「消えねえのかよ!」


 悠斗は慌てて設定画面を開いた。


「字幕も消せ!」


【字幕表示は、翻訳音声オフ時の補助機能です】

【オフにできません】


「補助するな!」


 こむぎは首をかしげた。

 かわいい。

 かわいいが、字幕が邪魔すぎる。


「わん!」

(エサくれ!クソ野郎!)


「今日の分は終わり!」


「わん!」

(明日の朝もエサくれ!クソ野郎!)


「予約するなって言ってるだろ!」


 その夜、悠斗は字幕と戦った。

 削除。

 初期化。

 学習履歴消去。

 表示設定変更。

 全部試した。


 結果は同じだった。


「わん!」

(エサくれ!クソ野郎!)



 翌朝。


 悠斗は、布団の横に気配を感じて目を覚ました。


 こむぎが座っていた。

 朝日を背負い、前足をそろえ、耳を少し伏せている。

 世界で一番かわいい顔だった。


 翻訳音声はオフだ。

 あの甘い声は聞こえない。


 こむぎは、さらにかわいく首をかしげた。

 昨日より一度だけ、角度が深い。


「わん!」

(この顔をすれば起きるんだろ。エサくれ!クソ野郎!)


 悠斗は天井を見た。


「おはよう、最悪の字幕」


 悠斗は五秒だけ抵抗した。

 六秒目に、布団から飛び起きた。


「分かったよ! 起きるよ! この角度は卑怯なんだよ!」


 こむぎは嬉しそうにキッチンへ向かう。


 かわいい。

 腹が立つほどかわいい。

 中身は最悪だ。

 字幕も最悪だ。

 しかも、自分のかわいさを完全に理解している。


 それでも、悠斗はドッグフードの袋を手に取った。


「……はい、こむぎ様」


 こむぎが振り返る。

 前足をそろえ、耳を伏せ、完璧にかわいい顔をする。


「わん!」

(理解したなら早くしろ。エサくれ!クソ野郎!)


 今日も、佐倉家の朝はこむぎを中心に回っている。

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― 新着の感想 ―
字幕との戦いが、最悪フォント遊明朝との戦いを彷彿とさせました システムと紐付いてるから削除できないし、どんなにデフォルトから脱落させても、こっそりデフォルトになってるしで、システム側の悪意を感じるんで…
うちのは確実に言ってる。
うちのコも言ってたらどうしよ(汗)
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