スキル『翻訳』のせいで、愛犬がずっと「エサくれ!クソ野郎!」と罵ってくるのがわかる
佐倉悠斗の人生は、愛犬こむぎを中心に回っている。
朝は、こむぎのごはんから始まる。
夜は、こむぎのごはんに間に合うように帰る。
休日の予定は、こむぎの散歩と昼寝とおやつの時間を避けて組む。
スマホの写真フォルダは、ほとんどこむぎだった。
こむぎの寝顔。
こむぎの肉球。
こむぎの後頭部。
こむぎの変な寝相。
近すぎて鼻しか写っていないこむぎ。
フォルダ名は「人生」だった。
悠斗は、まあまあ良い育ちをしている。
食事の前にいただきますを言うこと。
目上の人には丁寧に話すこと。
乱暴な言葉はなるべく使わないこと。
親からそう教えられてきたし、社会人になってからも、メールの文面は固めで、部屋は片づいていて、来客用のカップもちゃんとある。
ただし、こむぎのことになると少しおかしくなる。
ペット可マンションを選んだ理由は、駅近でも築浅でもなく、こむぎが滑りにくい床材だったからだ。
リビングには、こむぎ用の淡いピンクのベッドがある。
ごはん皿は、滑り止めつきの白い陶器。
首輪は花柄。
季節ごとのリボンもある。
夜の飲み会も、駅ビルのセールも、残業の空気も、こむぎの夜ごはんの前では全部後回しだった。
今日も悠斗は、定時を少し過ぎたところで仕事を切り上げた。
「すみません、今日はこのまま失礼します」
職場では丁寧に頭を下げる。
廊下に出る。
エレベーターに乗る。
会社の自動ドアを抜ける。
そこから先は、少しだけ早足になった。
こむぎが待っている。
改札を出て、いつもの道を歩く。
頭の中には、玄関で待つこむぎの姿が浮かんでいた。
小さめの柴犬。
淡い茶色の毛並み。
白い口元。
くりっとした黒い目。
こむぎは女の子だ。
少なくとも、悠斗はそう思って、花柄の首輪も、淡いピンクのベッドも、季節ごとのリボンも買った。
名前を呼ぶと、耳をぺたんと伏せて、前足をそろえて座る。
上目づかいでこちらを見る。
尻尾を控えめに振る。
その顔を見るために、今日も生きている。
悠斗はまだ知らなかった。
こむぎは、その顔が効くことを知っている。
歩道の端に、白い犬がいた。
首輪をつけているが、飼い主らしき人はいない。
犬は車道の方へふらふら歩き出した。
「危ない!」
悠斗は反射的に駆け寄り、白い犬を抱き上げた。
車がすぐ横を通り過ぎる。
白い犬は、やけに落ち着いた目で悠斗を見た。
首輪には、小さな銀色のタグがついている。
迷子札かと思い、悠斗がスマホのライトを当てた瞬間、画面に妙な通知が出た。
【スキル『翻訳』を獲得しました】
「は?」
広告かと思った。
疲れているのだと思った。
こむぎ成分が不足して、脳が変な通知を出したのだと思った。
だが、次の瞬間、駅前の外国語案内が自然に読めた。
通りすがりの外国人観光客の会話が、日本語の意味として頭に入ってくる。
白い犬は、悠斗の腕からするりと降りた。
そして、どこか満足そうに尻尾を一度振ると、細い路地へ消えていった。
普通なら、警察か病院かネット検索か、何かしら確認するべき場面だった。
だが悠斗には、それどころではない問題があった。
こむぎの声が分かるかもしれない。
こむぎは、いつも何を言っているのか。
玄関で迎えてくれる時。
ごはん皿の前で座っている時。
膝にあごを乗せてくる時。
おかえり。
待ってた。
大好き。
そんな言葉が聞けるかもしれない。
悠斗はその場で両手を握った。
「ありがとう、白い犬。いや、白い神。俺は今、人生の本番に入る」
通行人が少し距離を取った。
悠斗は気にしなかった。
こむぎが待っている。
悠斗は、ほとんど走って帰った。
◇
ペット可マンションのオートロックを抜ける。
エレベーターの上昇が、今日に限って遅く感じる。
悠斗は自室の前で一度だけ息を整えた。
こむぎの声を聞く。
そのために、今から扉を開ける。
鍵を回す。
中から、小さな足音が近づいてきた。
「ただいま、こむぎ!」
ドアを開けると、こむぎがいた。
玄関マットの上で、前足をきれいにそろえて座っている。
耳は少し伏せている。
黒い目は、潤んでいるように見える。
尻尾が床を一度だけ、控えめに叩いた。
かわいい。
悠斗の心は、帰宅三秒で完全に溶けた。
今日も生きて帰ってよかった。
この顔を見るためなら、満員電車も上司の無茶ぶりも許せる。
こむぎはさらに首をかしげた。
角度が完璧だった。
上目づかいになりすぎず、あくまで自然に見える角度。
悠斗が一番弱い角度だった。
「こむぎ。ただいま。俺に何か言いたいことある?」
悠斗は両手を広げた。
聞かせてくれ。
君の本当の声を。
俺は今日、そのために帰ってきた。
その瞬間、悠斗の頭の中に、見た目どおりの甘い声が流れ込んだ。
『エサくれ!クソ野郎!』
悠斗は玄関で崩れた。
膝からいった。
鞄が落ちた。
スマホも落ちた。
こむぎの写真でいっぱいの画面が、玄関の床に伏せた。
「うそだろ」
こむぎは、かわいい顔のまま座っている。
耳も伏せたままだ。
目も丸い。
尻尾も控えめに揺れている。
声も、かわいかった。
鈴みたいに澄んでいた。
花柄の首輪と、淡いピンクのベッドと、季節ごとのリボンが似合う声だった。
だから余計に、言葉の中身だけが終わっていた。
「待ってくれ。違う。今のは違う。俺の脳が悪い。こむぎは悪くない。こむぎは花柄の首輪が似合う女の子だぞ。俺が毎晩かわいいねって言うと、耳を伏せる天使だぞ。天使の声でクソ野郎って言うわけないだろ」
悠斗は、自分でも驚くほど動揺していた。
普段なら、こんな乱暴な言葉を声に出すことも少ない。
それが、こむぎの声で聞こえた。
正確には、こむぎの口からではない。
翻訳された声だ。
しかし、声がかわいいからこそ逃げ場がなかった。
こむぎは、もう一度首をかしげた。
片耳だけが、ぴこっと動く。
かわいすぎる。
かわいすぎるのに、頭の中にはまた同じ声が来た。
『二回もかわいい顔させるな。エサくれ!クソ野郎!』
「声は天使なのに、二回目の方が明確にひどい!」
悠斗は床に両手をついた。
「違う。何かの間違いだ。こむぎ、もう一回だけ。今のは冗談だよな? こむぎは俺の帰りを待ってたんだよな? おかえりって、そう言いたかったんだよな?」
こむぎは、待ってましたと言わんばかりに前足を悠斗の膝へ乗せた。
鼻先で悠斗の手をつつく。
この仕草を、悠斗はずっと甘えだと思っていた。
今でも甘えだと思いたかった。
「こむぎ。俺のこと、好きだよな?」
こむぎは、悠斗の手にあごを乗せた。
重みはほとんどない。
だが、逃げられない。
完全に愛情表現だった。
そう見えた。
少なくとも、スキルを得る前の悠斗なら、その場で写真を三十枚撮っていた。
『この角度だ。こいつはこの角度に弱い。その手が袋を開けるんだろ。エサくれ!クソ野郎!』
「俺の弱点、研究されてる!」
悠斗は胸を押さえた。
心臓が痛い。
でも、こむぎのあごが手に乗っている。
ふわふわだ。
あたたかい。
世界一かわいい。
「くそ、かわいい……! 声も顔も全部かわいいのに、言ってることだけ全部ひどい……!」
こむぎは、うるうるした目で見上げてくる。
悠斗は自分の中で何かが折れる音を聞いた。
「分かった。まずごはんにしよう。お腹が空いてるから、ちょっと言葉が荒いんだよな。そうだよな。空腹は人を変える。犬も変える。こむぎは悪くない。空腹が悪い」
悠斗は立ち上がった。
よろけながら、リビング横の収納へ向かう。
床にはこむぎ用の滑り止めマットが敷いてある。
白い陶器のごはん皿は、いつも通り清潔に洗ってあった。
フードは、少し高いが、こむぎの毛艶に良いと聞いて買い続けているものだ。
「待ってろ、こむぎ。俺が今、天使の言語を取り戻す」
ドッグフードの袋を出す。
こむぎはキッチン横のごはん皿の前に移動し、きれいに座った。
背筋を伸ばし、前足をそろえる。
まるで、良家のお嬢様犬である。
さっきまで膝にあごを乗せていた犬とは思えないほど、姿勢がよい。
そして、その姿勢のまま、ほんの少しだけ耳を伏せた。
待っている。
健気に待っている。
そう見える。
『早くしろ。俺のかわいい待機姿勢にも限界があるぞ。エサくれ!クソ野郎!』
「待機姿勢のかわいさを自覚している!」
悠斗は袋を持つ手を震わせた。
「恐ろしい子……いや違う、こむぎは恐ろしくない。こむぎはかわいい。かわいいは正義。正義がクソ野郎と言うなら、それは何かの翻訳ミスだ」
皿に規定量のフードを入れる。
こむぎは、合図を待つ姿勢をした。
偉い。
かわいい。
やはり、こむぎは天使だ。
『待たせるな。エサを目の前にして食わせない儀式を発明したやつもクソ野郎だ』
「待てへの憎しみが深い!」
「よし」
こむぎは食べた。
小さな口で、勢いよく食べた。
カリカリという音さえかわいい。
悠斗は両手を合わせた。
「よかった。これで戻る。満たされれば、こむぎはいつものこむぎに戻る。俺が知っている、ふわふわで、優しくて、世界で一番かわいいこむぎに」
こむぎは皿をなめ終えると、空の皿の前で再び座った。
先ほどよりも少し耳を伏せ、黒い目で悠斗を見上げる。
少しだけ悲しそうだった。
皿が空で寂しい、とでも言いたげな顔だった。
『今のは前菜だ。本番のエサくれ!クソ野郎!』
「前菜じゃない! 規定量! 獣医さんが決めた命のライン!」
こむぎは、空の皿をもう一度なめた。
『皿が空だ。つまりエサが必要だ。エサくれ!クソ野郎!』
「皿が空だから食べ終わったんだよ! 終わりを始まりに変えるな!」
悠斗は床に座り込んだ。
だめだ。
このままでは、こむぎ信仰が崩壊する。
おかしい。
こむぎがこんなはずはない。
こむぎは世界で一番かわいい。
こむぎは天使。
こむぎは、悠斗の生きがいだ。
ならば、悪いのはスキルだ。
悠斗は顔を上げた。
目に力が戻った。
「そうだ。スキルだ。こむぎじゃない。こむぎの心が悪いはずがない。俺はこむぎの肉球を知っている。あの肉球からクソ野郎は出ない」
悠斗は頭の中に浮かぶ半透明の表示へ意識を向けた。
【スキル『翻訳』】
【翻訳音声:オン】
【翻訳モード:通常】
【詳細設定を開きますか?】
「設定がある!」
悠斗は救われたように叫んだ。
「ほら見ろ! 通常モードが悪い! 通常が荒いんだ! こむぎは無罪! 弁護側は翻訳設定の不備を主張します!」
こむぎは、悠斗の足元に寄ってきた。
前足でちょいちょいと悠斗の靴下を触る。
かわいい。
かわいいが、もう油断はできない。
「こむぎ。今からちゃんと訳してやるからな。大丈夫だ。俺は最後までお前を信じる。たとえ世界中がこむぎをクソ野郎呼ばわりする犬だと言っても、俺だけは翻訳モードを変える」
こむぎは首をかしげた。
右に少し。
次に左に少し。
まるで、悠斗の反応を見ながら角度を調整しているようだった。
『早くしろ。設定よりエサだ。クソ野郎!』
「今、弁護してるんだよ!」
悠斗は設定を切り替えた。
【翻訳モード:丁寧語】
こむぎは前足をそろえ、少しだけ上品に座り直した。
『お食事をお出しくださいませ、クソ野郎様!』
「丁寧語が敗訴した!」
悠斗は床を叩いた。
「様を付けるな! いや付けるならクソ野郎を消せ! 敬意と罵倒を同じ皿に盛るな!」
すぐ次に変える。
【翻訳モード:直訳】
こむぎは皿を見る。
悠斗を見る。
また皿を見る。
余計な演技を捨てた、まっすぐな圧だった。
『飯。出せ。今。クソ。野郎。』
「弾丸みたいに撃ってくるな!」
悠斗は胸を押さえた。
「一語ずつ刺さる! 特に最後の二発が痛い!」
悠斗は半透明の設定画面にすがった。
「まだだ。まだ最後の希望がある。好意的解釈だ。好意的ならいける。こむぎの荒い言葉の奥にある愛を、スキルがきっと拾ってくれる。頼む。頼むぞ、翻訳。俺とこむぎの五年間を救ってくれ」
【翻訳モード:好意的解釈】
こむぎは、悠斗の手にあごを乗せた。
ふわふわの毛が触れる。
黒い目がこちらを見ている。
しかも、ただ見ているだけではない。
悠斗が一番かわいいと思う距離まで、ちゃんと詰めている。
愛だ。
これは愛だ。
今度こそ愛だ。
『大好きなあなたから、今すぐエサをもらいたいです。クソ野郎!』
「最後! 最後だけ! 最後だけ助からない!」
悠斗は後ろに倒れかけた。
「大好きって言った! 今、大好きって言ったよな? 声も完全にかわいかった! でもその直後にクソ野郎って言った! どう受け止めればいいんだ、これは! 愛の後味が最悪!」
それでも、悠斗の手は勝手にこむぎの頭をなでていた。
こむぎは目を細めた。
その顔まで、ちゃんと悠斗に効いた。
『あなたになでられると安心します。だから手を止めないでください。あとエサくれ!クソ野郎!』
「前半だけなら泣けた!」
悠斗はこむぎの頭をなでながら、半分泣きそうになった。
「今の、途中までは完全に愛だっただろ。なんで最後に請求書みたいな勢いでエサと罵倒が来るんだよ」
こむぎは、さらに目を細める。
悠斗が一番弱い、満足そうな顔だった。
『あなたの手は好きです。なで方も悪くありません。でも本命はその手が開ける袋です。エサくれ!クソ野郎!』
「好意的に解釈しても、本命が袋!」
悠斗は設定画面を見た。
【翻訳モード:好意的解釈】
「だめだ。このモード、希望を見せてから落としてくる」
悠斗は、震える指で設定を戻した。
【翻訳モード:通常】
「……戻したら戻したで、怖いんだけど」
翻訳が悪いわけではない。
声が悪いわけでもない。
好意的に解釈しても、通常に戻しても、最後に必ず残るものがある。
エサ。
そして、クソ野郎。
こむぎの中身が、こうなのだ。
だが、こむぎはかわいい。
それが問題だった。
◇
その翌朝。
悠斗は、布団の横に気配を感じて目を覚ました。
こむぎが座っていた。
朝日を背負い、前足をそろえ、耳を少し伏せている。
世界で一番かわいい顔だった。
しかも、枕元の位置が絶妙だった。
近すぎると悠斗が驚く。
遠すぎると気づかれない。
こむぎは、悠斗が目を開けた瞬間に「かわいい」と思う場所を知っていた。
『この顔をすれば起きるんだろ。エサくれ!クソ野郎!』
「起きる! 起きるけど! 起きる自分が悔しい!」
悠斗は目を閉じたまま、五秒だけ抵抗した。
六秒目に布団から出た。
「おはよう、こむぎ。今日も俺の負けだ!」
こむぎは満足そうにキッチンへ向かう。
朝食後、宅配便が来た。
インターホンが鳴った瞬間、こむぎは玄関へ走った。
扉の前で前足をそろえ、期待に満ちた顔をする。
箱からエサが出てきた日だけを、こむぎは強く記憶している。
『箱だ。中身を検査しろ。エサなら開封、違うなら返品だ。クソ野郎!』
「今日はトイレットペーパーだよ!」
荷物を受け取る。
こむぎは箱の匂いを嗅ぎ、すぐに顔を上げた。
『食えない箱を家に入れるな!クソ野郎!』
「生活必需品なんだよ!」
こむぎは段ボールから興味を失い、悠斗の足元に座った。
そして、いつものかわいい顔をした。
ただ座ったのではない。
段ボールへの失望を、少し悲しげな目に変えていた。
かわいそうな犬。
期待を裏切られた犬。
『無能な箱の補填としてエサくれ!クソ野郎!』
「補填って何だよ!」
悠斗はおやつ棚を見た。
見ただけだ。
手は伸ばしていない。
こむぎが、さらに首をかしげた。
「やめろ。この角度は効く」
『効くからやってる。エサくれ!クソ野郎!』
「知ってた! 知っててやってた!」
悠斗はおやつ棚を開けた。
開けてから、自分がまた負けたことに気づいた。
「一個だけだからな! 一個だけ! これは敗北じゃない。家庭内調整だ!」
『最初からそうしろ。エサくれ!クソ野郎!』
◇
夜。
悠斗は最後の希望を試すことにした。
満腹で、眠い時なら。
さすがのこむぎも、少しは違うことを考えるのではないか。
悠斗は、少し高いささみを茹でた。
細かく裂いて、いつものフードに混ぜる。
こむぎは皿の前で、今までで一番美しい待機姿勢を見せた。
前足の角度。
耳の伏せ方。
尻尾の置き方。
全部が整っていた。
『それだ。白い肉だ。今日は少しマシだぞ、クソ野郎!』
「褒めてるのに腹立つ!」
こむぎは完食した。
皿をなめ、床を確認し、何も残っていないことを理解した上で、クッションの上に丸くなった。
眠そうな目。
小さな鼻。
前足に乗せたあご。
寝息になりかけた呼吸。
かわいい。
それは本当にかわいかった。
演技だとしても、かわいい。
計算だとしても、かわいい。
あざといと分かっていても、かわいい。
悠斗は、そっと隣に座った。
「なあ、こむぎ」
こむぎは片目だけ開けた。
「俺のこと、どう思ってる?」
こむぎの尻尾が、一度だけ動いた。
悠斗は期待した。
これは来る。
今度こそ、何かある。
こむぎの中にも、エサ以外の何かが。
『明日の朝もエサくれ!クソ野郎!』
「食後に予約するなあ!」
悠斗は顔を覆った。
だが、まだ諦めきれない。
「それ以外にないのか。俺への気持ちとか、日頃の感謝とか。ほら、あるだろ。いつもありがとうとか、帰ってきてくれて嬉しいとか、悠斗だいすきとか!」
こむぎは眠そうに鼻を鳴らした。
その鼻の鳴らし方も、かわいかった。
今の質問に答える気はなさそうなのに、かわいかった。
『朝は七時だ。遅れたらクソ野郎から超クソ野郎に昇格だ』
「昇格制度、こっちに何の得もない!」
こむぎは、そのまま寝た。
悠斗はしばらく、こむぎの寝顔を見ていた。
かわいい。
どうしようもなくかわいい。
でも、もう限界だった。
「俺は、お前の声を知らなかったころに戻る」
悠斗はスキル画面を開いた。
【スキル『翻訳』】
【翻訳音声:オン】
迷わず、オフにする。
【翻訳音声:オフ】
部屋が静かになった。
こむぎが顔を上げる。
前足をそろえ、耳を少し伏せて、黒い目で悠斗を見上げた。
声は来ない。
ただ、かわいいこむぎがいるだけだった。
悠斗は、心の底から息を吐いた。
「そうだよな。やっぱり、こむぎは声が分からなくてもかわいい。これでいい。俺はこれで幸せだったんだ。こむぎはかわいい。世界はそれだけで完成してる」
【字幕表示:オン】
「待て」
こむぎが、悠斗の膝にあごを乗せた。
しかも、今日いちばんかわいい角度で。
「わん!」
(エサくれ!クソ野郎!)
「消えねえのかよ!」
悠斗は慌てて設定画面を開いた。
「字幕も消せ!」
【字幕表示は、翻訳音声オフ時の補助機能です】
【オフにできません】
「補助するな!」
こむぎは首をかしげた。
かわいい。
かわいいが、字幕が邪魔すぎる。
「わん!」
(エサくれ!クソ野郎!)
「今日の分は終わり!」
「わん!」
(明日の朝もエサくれ!クソ野郎!)
「予約するなって言ってるだろ!」
その夜、悠斗は字幕と戦った。
削除。
初期化。
学習履歴消去。
表示設定変更。
全部試した。
結果は同じだった。
「わん!」
(エサくれ!クソ野郎!)
◇
翌朝。
悠斗は、布団の横に気配を感じて目を覚ました。
こむぎが座っていた。
朝日を背負い、前足をそろえ、耳を少し伏せている。
世界で一番かわいい顔だった。
翻訳音声はオフだ。
あの甘い声は聞こえない。
こむぎは、さらにかわいく首をかしげた。
昨日より一度だけ、角度が深い。
「わん!」
(この顔をすれば起きるんだろ。エサくれ!クソ野郎!)
悠斗は天井を見た。
「おはよう、最悪の字幕」
悠斗は五秒だけ抵抗した。
六秒目に、布団から飛び起きた。
「分かったよ! 起きるよ! この角度は卑怯なんだよ!」
こむぎは嬉しそうにキッチンへ向かう。
かわいい。
腹が立つほどかわいい。
中身は最悪だ。
字幕も最悪だ。
しかも、自分のかわいさを完全に理解している。
それでも、悠斗はドッグフードの袋を手に取った。
「……はい、こむぎ様」
こむぎが振り返る。
前足をそろえ、耳を伏せ、完璧にかわいい顔をする。
「わん!」
(理解したなら早くしろ。エサくれ!クソ野郎!)
今日も、佐倉家の朝はこむぎを中心に回っている。




