エルフと蛸
エルフのセリアは、神奈川県の小さな港町に暮らしていた。山の奥でひっそりと生きる他のエルフたちとは異なり、彼女は人間社会に溶け込んでいた。陶芸教室を営み、近所の主婦たちと談笑し、港で魚を買い、そして毎週日曜の朝には、人気のない海岸に立って潮風を感じていた。
その日も、セリアは海辺に立っていた。夜明け前、まだ蒼い空が薄桃色に変わる前の時間帯だった。裸足で砂を踏み、海の向こうにぼんやりと浮かぶ漁船の灯りを眺める。耳が鋭敏なエルフの彼女にとって、波音は微細な語り部であり、風の流れは心の扉を開いてくれる。
しかし、その日は違った。
耳が、妙な音を拾ったのだ。
——ずずっ……ずずずっ……。
砂が引きずられる音。波の音とは明らかに異なる、粘ついたものが擦れるような、不快な音。
セリアはそっと振り返った。
何もいない。けれど、足元の砂に奇妙な模様が描かれていた。まるで誰かが無数の指で円を描くように引きずった跡。輪を描きながら、海に続いている。
「なんだろう……」
ふと、背後に影が差した。空は明るくなりつつあったのに、一瞬で辺りが曇ったように暗くなる。セリアが振り向くと、そこには“脚”があった。
太く、ぬめり、吸盤がびっしりと並ぶ異形の触手。
巨大なタコの脚が、音もなく海からせり出していたのだ。岩のような頭部が海面に浮かび上がる。目が合った——黒く、深く、意志のある、知性を秘めた目だった。
セリアは走った。海岸線を全力で、砂を蹴り、転びそうになりながら。
しかし、脚は一本ではなかった。二本、三本、五本と次々に海から現れ、彼女の行く手を遮る。脚の動きは不自然なほど静かだった。吸盤のひとつひとつが、何かを探るように、乾いた砂をまさぐる。
セリアは魔法を使った。掌から風の矢を放ち、最も近い触手に打ち込む。風が炸裂し、皮膚が裂け、墨のような液体が噴き出した。
だが、それはただの警告だったかのように、タコは静かに、より多くの脚を海から出した。まるで、遊びを始めるように。
「なんで……ここに……!」
人間の科学では巨大タコは存在しないことになっている。だが、エルフは知っていた。古来、日本の沿岸部には「海神の使い」と呼ばれる異形が存在していたことを。大八洲の時代、タコに似た神獣が海底に封じられたと文献にある。
「まさか、本当に……」
巨大な頭部が完全に姿を現した。灯台ほどもあるその影が、浜辺に迫る。脚が一斉に伸び、セリアを取り囲むように地面に叩きつけられた。衝撃で砂が舞い、空が曇る。
セリアは空を見上げた。
朝日が登っていた。淡い金の光が、海の表面を照らし、巨大な影の上に差し込んでいた。
タコは立ち止まった。
光に嫌悪したように、脚を一つ引っ込めた。セリアはその一瞬の隙を突き、再び魔法を放った。今度は炎だ。掌から飛び出した火球が、一本の脚に命中する。獣のような叫びが響き、脚が海へと引っ込む。
逃げ場を得たセリアは、浜辺を駆け抜けた。耳の奥で、叫び声が木霊のように残る。振り向くと、巨大なタコは海に戻っていた。だがその目だけは、水面に浮かんだまま、じっと彼女を見ていた。
「忘れないよ」とでも言いたげに。
⸻
それから数日後、町に異変が起きた。
漁船が戻らない。浜辺に巨大な吸盤跡が残る。漁港の男たちが「見た」とささやく。「あんなでけぇタコ、今まで見たことねえ」と。
セリアは港を離れ、山へ戻った。人間たちは騒ぎながらも、いずれ忘れる。だがエルフには忘れることができなかった。
夜、寝床にいても、どこかで“脚”が砂を引きずる音が聞こえる気がする。ぬめる音、波に混ざる息づかい。あの目が、今も海の底から自分を見ている。
そんな気がした。