五節『決壊』
「だいぶ、暗くなってきちゃったね」
「ああ、随分長いこと遊んでたからな」
とっくに日も沈み始めて数時間が経過し、真っ暗な空を七色のイルミネーションが彩る。闇夜の中にあっても園内は未だ溢れかえる活気が失われておらず、往来には依然人ごみが行き交っていた。
時刻は既に20時を経過。とっくに閉園まで一時間を切っているというのに、ここまで客が残っているのは流石と言うべきか。
「やー、回った回った。これであらかたのめぼしいアトラクションは制覇したんじゃない?こんなに色々巡ったのは久々かも」
「まあ、ユニバに一度も来た事ないなんて言われるとね。どれも乗ってみて欲しいアトラクションだらけだし……日葵ちゃんの反応もいいから、見てて飽きないね」
こうまでハードローテーションでアトラクションを巡っていたのはどうやらそういった側面もあったようで、実際日葵は終始目を輝かせてそれらを楽しんでいるようだった。
当初こそハードスケジュール過ぎると考えていたが、こんな日葵の様子を見ているとこれはこれで良かったのだろうとも思う。
「今からだと、もう並んでる時間はないよね」
「そうね、あんまり人気ないところなら入れるかもだけど……せっかくだったら、パレードでも見て帰る?」
「パレード?」
時期によっても異なるが、夜間でもライトアップされたパレードが閉園時間間際に行われることがある。奏の提案に従って手元のスマホでスケジュールを確認すれば、確かにパレードがちょうど始まる時間帯だった。
いまいちピンと来ていない様子の日葵ではあったが、ここ三週間の経験から実際見た方が早い、という奏のスタンスは察しているのだろう。特に何を聞くでもなく、先陣を切って駆けていく奏の後に続く。
大通りに出れば、既に催しは始まっているらしかった。煌びやかに彩られた大きな山車と共に、キャラクターの着ぐるみたちや仮装したクルーの人々が並んで、ゆっくりと通りを練り歩いていく。
この暑苦しい夏を快適に、というコンセプトなのか、山車に取り付けられたノズルや水鉄砲を交えたちょっとした納涼イベントとしても運用されているらしい。
せっかくのイベントを最後まで楽しむためか、こんな時間だというのに未だ家族連れの子供たちの他、中高生の一段が近場できゃあきゃあと水浸しになりながらはしゃいでいた。
「……あっ、待って。まだお土産見てなくない?」
「そういや珍しく回ってなかったね、いつも閉園二時間くらい前には物販ツアー始まるのに」
不意に何か思い出したようにそう問いかけてきた奏に、横でそういえば、といった様子で敦也がそんな事を呟く。こうしてはいられない、とでも言いたげな様子で敦也の手を引いた彼女は、颯爽と人混みの中に消えていった。
完全に置いていかれる形になったが、とはいえ別に鵺は物販に興味がある訳でもなかったので正直どちらでも良かった。
こちらはこちらで日葵の付き添いを、と視線を戻せば、不意に目に入った光景に思わずギョッとしてしまう。
「――きれい」
「ひ、まり……?」
見惚れたようにパレードを眺める日葵の頬を、一筋の涙が伝っていた。
初めて出会った時の印象とは裏腹に、彼女が感情豊かな性質をしている事は何となく理解していた。あまり誰かと話す機会が多くなかったというのも関係しているのか、心を染める感情の発露の仕方が分からないという、ただそれだけ。
だが今彼女が垣間見せた表情は、この三週間で一度も鵺たちに見せる事のなかったものだった。
悲しくて泣いているのではない、嬉しくて泣いているのでもない。
きっとそれは、彼女自身でも分からない。或いは今自分の頬を伝うそれの存在にすら、彼女はまだ気が付いてはいないようだった。
「きれい……本当に、きれい」
ポロポロと、大粒の涙がその真紅の双眸からこぼれ落ちていく。彼女の首元に落ちた一雫がポツリと弾けると同時、彼女は自分の身に起きた変化にようやく気が付いたようだった。
「あ……れ」
日葵は次々と滴り落ちるそれを止めるべく目尻を拭うが、ぽろぽろと溢れる涙は亀裂が入った水瓶みたいに流れ出てくる。
慌ててハンカチを取り出して日葵に手渡せば、彼女は反射的に音にもならないような言葉を溢してそれを受け取った。普段から敦也に『エチケットだ』と口すっぱく言われて持たされていたものが功を奏したらしい。
どうしたものかと戸惑っていると、くい、とシャツの裾を引っ張られるような感触が伝わってくる。ハンカチで目元を拭う日葵の、空けられていた片手が遠慮がちに鵺の服の裾を握っていたのだ。
「……座れるところに行くか?」
「――ううん、大丈夫」
そう言って視線を上げた彼女は、再びジッと煌びやかなパレードを眺め始める。一体その光景が彼女に何を思わせたのか、何ゆえにその涙を溢したのか、そればかりは鵺の知るところではない。
不意に力が弱まったのか、シャツを握っていた彼女の手がするりと落ちる。そのさなかにとす、と当たった鵺の腕の温もりを無意識に辿ったのか、彼女のか細い指先が僅かに鵺の指先を握り込んだ。
「――。」
きっとそれは、彼女の心を少しずつ傷付けていく痛み。日葵を取り囲む孤独が積み重ねてきた、氷よりも冷たい寂しさそのものだ。
家族の愛すら知らず、友との間の情すらも知らず、不死身、神秘――そんな御大層なモノと引き換えにして、本来人間が成長の過程で当然に得られる筈のたくさんの経験を、孤独であるが故に何も知らずに育ってきた少女。
「――?」
辛うじて繋がっていた指先を一度解いて、今度はきちんと、離れないように、その小さな手を握り返す。
どこか不思議そうにこちらへと視線を向けた日葵は、握られた手に視線を落とすと、幾度か感触を確かめるようにこちらの手を握り返してくる。僅かに瞳を揺らして掠れた声を漏らした彼女は、やがて安心したような微笑みを浮かべた。
「なぁ、日葵」
「……?」
「繰り返しになるけどさ。ウチに居てもいいんだぞ、この先も」
ぽつりと呟いた鵺の言葉に、微かに日葵は目を見開く。しかしすぐに何処か寂しそうな笑顔を浮かべると、静かに彼女は頭を横に振った。
「出来ないよ。私は、長くここに居ちゃいけない。今こうしていることだって、本当は良くない事なのに」
「良くない訳ないだろ?奏も敦也も、俺も。君と居たいと思ってる」
「……嬉しいよ、本当に。でもそれだけは出来ない、本当はもうとっくに出ていってなきゃいけないくらいだったのに。そうでないと……」
「――俺たちを危険に晒す事になる、か?」
「……っ」
「やっぱり、そうなんだな」
ここ数週間の間にも幾度か起きた、アヤカシによる襲撃。九ノ里にも言われていた事だが、アヤカシの存在を認知した時点でいずれ起こるアヤカシとの遭遇は避けられなくなる――それ自体は覚悟していた。
とはいえ、『アヤカシを認知している』という事実によって生まれるアヤカシとの縁。それだけでこうも襲撃が多発するものなのか?
それ自体は前例を知らない鵺には判別しがたい事ではあるが、少なくともその情報を基に考えるのならば、日葵から聞いた事でおかしな点が一つあった。アヤカシを知ることでアヤカシに襲われるようになった、というのなら。
「疑問に思ってたんだ。アヤカシを知ってようやくアヤカシと出会うようになるなら、日葵はなんでアヤカシに襲われ始めたんだ、ってさ」
話を聞く限り日葵は鵺と違って、何かしらのイレギュラーによって直接アヤカシと出会ってしまった訳ではない。彼女はあくまで神秘に目覚めただけで、以降アヤカシに襲われるようになった、と以前話していた。
日葵自身には、何らアヤカシとの縁はなかった筈だ。だが、ならば何故アヤカシは彼女の前に現れるようになったのか。
実際のところの理由は分からない、だが推測はできる。
「――君を蝕む呪いが、アヤカシを引き寄せているのか」
「……どう、だろうね。実際のところは、私にも分からないから」
一日葵という少女の身を蝕む、魂を穢す程の呪いの坩堝。彼女一人にのしかかるにはあまりにも重過ぎる、幾重にも複雑に折り重なった極大規模の呪詛の渦。
アヤカシ――仮装思念顕現体であるあれらの生命体は、人の精神、或いは意識の影響を色濃く受けるのだという。そして呪いとは言うなれば、人の持つ様々な感情の内の一種、ドス黒い怨嗟の延長線上、その極限だ。
鵺が知る『呪い』とアヤカシが、何かしらの関連性を持っていたとしても何ら不思議はない。
何にせよ、日葵が頑なに『長くは共に居られない』と語った理由はハッキリとした。日葵の存在自体が、アヤカシを引き寄せるという事――即ち、日葵の側にいる限り、命の危険が付き纏うという事だ。
無論、日葵が実は鵺や二人と共に居るのが苦痛で、ここから離れたがっているなんて事実ならば小っ恥ずかしい勘違いだが、それもないだろう。
それなら、そもそもここに居座る理由がない。それこそ、『危険だから』とさっさと離れれば良かったのだ。だがそうしなかったのは――鵺や奏、敦也に危険が及ぶ可能性を承知の上で尚、ここから離れようとしなかったのは何故か。
「何年だ?」
「……」
「何年の時を、ずっとこんな状況で過ごしてきた?」
日葵は優しい少女だった。元はといえば鵺の家に転がり込んできたのも、鵺の安否の確認とその後の経過観察が目的だったのだ。
あの結界の中、たまたま出会った鵺を庇って逃そうとしていた事もそうだ。不死であるとはいえ苦痛がないわけではないだろうに、鵺が決して何も知らぬままでいられるよう、苦痛の声を噛み殺して『隠し』から出ようとする鵺を見送っていた。
そんな子が、他者に危険を及ぼしてそれでも尚、僅かな時とはいえここから離れることを拒んだ、その意味。
「……100から先は、数えてないなぁ」
「――っ」
彼女の持つ不死身の神秘。外傷によって、或いは空腹なんかの内的要因によって死に至っても、まるで時間を巻き戻したみたいに無かったことになる埒外の力。そして不死身というワードには定番と言っていいほど、隣に付いてくるもう一つの要素がある。
不老。彼女はそもそも、見た目こそ同じくらいの年頃に見えこそすれど、鵺などとは比べ物にならない程の時間を――100年以上もの時を生きている。
たった一人で、孤独に、ずっと。
「そんな、馬鹿な事があるか」
だからこそ日葵は躊躇ったのだ。
半ば奏に強引に巻き込まれる形だったとはいえ、日葵は鵺や奏、敦也と、友と呼べる関係性を構築した。それは鵺などが想像するよりもずっと重く、ずっと深く日葵の心を捕らえて離さなかったのだ。
だからこそ彼女は、この環境を自ら手放すことを僅かな間とはいえ拒んでしまった。それが鵺たちを危険に晒すことに繋がると、分かっていても。
「ごめんね、幻滅したよね」
「違う、日葵。そういう事じゃない」
仮に襲撃してきたアヤカシが鵺の手に負えないようなモノで、仮にそのアヤカシによって奏や敦也、或いは両方――もっと言えば、鵺の家族にすら被害を及ぼしたとき。日葵を恨まなかったかと問われれば、それは無いとは言い切れない。
結果的に被害がなかっただけだ。運が悪ければ、今頃鵺は全てを失っていてもおかしくはなかったのかもしれない。
だとしても、だとしてもだ。
もう既に日葵は鵺にとって居て当然の存在へとなった。鵺にとっての日常には、既に彼女の存在が欠かせなくなっていた。
彼女への失望などない、恨みなど考えた事もない。だが強いて日葵への不満があるとするならば、それはたったひとつ。
「――そんな顔を、させたかったんじゃないんだよ」
鵺に心配を掛けないように、自分は大丈夫だと取り繕うために形作られた歪な笑顔が、何よりも、心の底から気に食わない。
彼女が度々見せる、日の光のように眩しい本物の笑顔が翳る事など――叶うなら一度だって許したくはなかったのだ。
「……何かないのか?この状況を変えられる方法が、何か」
自分で言っていながら、その答えは分かっていた。そんなものがあるのならば、とっくに彼女が自分で試している筈なのだから。
現に彼女が諦めてしまっている事が何よりの証拠――100年以上もの時間を過ごして何も変わらなかったことが、何も変えられなかった事が、どんな希望をもねじ伏せてこの不変の現実の絶対性を裏付けている。
「やっぱり、鵺は優しい人だね」
「そんな世辞が聞きたいんじゃない……!何か……せめて、せめて襲ってくるアヤカシどもだけでも、どうにか……!」
「本当に、いいの。鵺」
「いい訳があるか、話はまだ……っ」
終わっていない。そう続けようとする鵺の言葉の先を遮って、突如として日葵はバッと背後の通りを振り返る。彼女の突然の動きに言葉を詰まらせた鵺も、遅れながらその異変に気が付いた。
この異常性には覚えがあった。
先ほどまでガヤガヤと広間を埋めていた無数の人々の姿が、誰一人として残さず綺麗さっぱりと消えている。まるでこの世界に日葵と鵺の二人だけしかいないかのような、そんな異常な光景。
ついさっき、日葵と話している間までは確かに群衆は溢れていた筈だ。この僅かな一瞬の内に、その姿の一切が消失している……いや。
一つ。日葵や鵺を除いた人影が、一つだけ残っていた。
「悪いな。取り込み中、失礼すんで」
「……アンタは」
男は漆黒のスーツに身を包んで、その肩にはゴルフバッグのような長い鞄を背負っている。齢にしておよそ30前後といったところだろうか?眉間に刻まれた深い皺も相まって、随分と険しい顔立ちをしているように見える。
いや、彼だけではない。先ほどまでは誰も居なかった筈の空間に、続々と彼同様に黒いスーツを身に纏った人々が現れ始めていた。
間違いない、ここは『隠し』の中だ。現世の空間とは隔離された、秘密裏にアヤカシを屠るための屠殺場。神秘によって構成された結界の中に、今鵺と日葵は囚われている。その下手人は当然、目の前に居るこの男。
「巻き込んですまんな坊主、俺が用があんのはそっちの女だけや」
「日葵に……?」
「ようやっと顔合わせやな、会いたかったわホンマに」
耳慣れない呼称と共に、男は日葵を忌々しげに睨みつける。対する日葵は明らかに怯えたような表情で一歩引き下がり、男の一挙手一投足を見逃さないよう細心の注意を払っているように見えた。
ジィ、という音と共に男が肩に下げた鞄のジッパーを開くと、その中から姿を現したのは黒塗りの長刀だった。
別に鵺は刀剣に興味がある訳ではない。ただ、その刀いっぱいに纏わり付いた悍ましい濃度の『呪い』が、ソレがハリボテや小道具なんかの類ではない事を声高に叫んでいた。
「……誰なんだ、あいつは」
「名前までは知らない、けど……あの人達は、『旭』って呼ばれてる」
「『旭』……!」
九ノ里から聞いていた、国の直属のアヤカシ狩り達の部隊。歴史の裏で血と闘争の渦に身を投じ続けた、アヤカシを撃滅し続ける護国の英傑。
日本という国が数多の戦争行為、或いは闘争から身を引いていた泰平の時代にあっても尚、アヤカシとの戦禍の中で刀を振るい続けた猛者達。
そんな彼らが、一体何故こんなところに。
「金糸雀より各位、『災禍』との接触に成功。これより捕縛を行う」
「捕縛――待ってくれ、どういうつもりだ」
「どういうつもりてお前……いや、部外者にペラペラ話す事ともちゃうな。何も聞かずにそこ退きぃ、死ぬで」
「何を馬鹿な――っ!?」
猛烈な悪寒を感じ取って咄嗟に飛び退けば、バガンッという破裂音と共に大きく足元のコンクリートが抉り取られる。一体何事かと思考を回す暇すら無く、続く強烈な風圧が大きく鵺の体を後方へと圧し飛ばした。
10メートルは飛ばされたところでようやく着地し、硬い床をゴロゴロと転がっていく。長く吹っ飛んでいた事が逆に功を奏した。咄嗟に神秘で身を包む工程が間に合っていなければ、今頃再起不能になっていた事は間違いない。
何が起きた、という考えはもはや今更か。この状況だ、あの男が何かしらの神秘を行使した、としか考えられない。
「……軽い脅しとはいえ、立ち上がれん程度にはするつもりやったんやがな。面倒掛けてくれよるわ」
「何、しやがる……っ!あんたら、国の役人なんだろ!?」
「ほぉ、って事は『旭』の存在と概要は知っとるっちゅうこっちゃな。『災禍』の入れ知恵か?」
「質問の答えに、なって、ねぇだろッ!」
姿勢を低くして床を蹴る。強化された四肢の後押しを受けて掴み掛かったが、寸前で捕まった手首を捻りあげられた。無理に曲げられた関節が激痛を発するも、跳躍しながら体を捻って男の上体に蹴りを打ち込む。
とはいえ寸前で腕を挟んで防がれたが、男の体も数メートルほどは後方に飛んだようだった。
「驚いたわ。そのお粗末な神秘の精度で、馬鹿げた出力しよる。機転もそこそこってとこか」
しかし当然、男の行動に何ら支障はない。軽く腕を振って感触を確かめた様子こそあるが、ダメージらしいダメージは期待できそうになかった。
ストレッチでもするみたいに首を回した男はその手に持った刀を肩に担ぐと、その場でしゃがみ込んで懐から取り出したタバコを口に咥える。一体いつの間に火を付けたのか、その先からは赤い光が確かに熱を発していた。
気だるげにたっぷりの煙を吐いた男はその鋭い眼光で鵺を睨みつけると、どこか怒気を孕んだ声色で声を上げる。
「質問の答えになっとらん、言うたか。ほんなら答えたろ、『国の役人やからこそ加減せん』のや」
「はぁ……!?」
「『旭』は日本っちゅう国の生命線や。ここがしくじったら、その皺寄せがどう波及するかなんぞ知れたもんやない。民間人一人の命、国一つ終わらすよりはマシとは思わんか?」
「国一つ終わらすって、流石に誇張が過ぎるだろ……!」
「……やっぱそうか、お前は事の重きを何も分かっとらん。なぁ『災禍』……随分都合の良い話だけ聞かせとるようやのぉ?」
「……っ!」
半ば怒鳴りつけるような声を張り上げた男に、日葵が微かに怯む。それが単純な恐怖によるものなのか、或いは何か他の要因あってのものなのか、それは今の鵺には知りようもない事だ。
「まぁ構わんわ。最後通告やぞ坊主、今すぐ去りぃ」
「っ、そう言われて、大人しく引くとでも……!」
「――最後通告や、言うたやろ」
一際怒気を孕んだ声音と共にばちん、という破裂音じみた音が一帯に響く。突然の轟音に一瞬体が震えたが、怯んでばかりもいられないと踏ん張れば、しかし意思に反して体がガクンと崩れ落ちた。
何が、と疑問に思う暇すら満足に与えられぬままに、鵺の体はばたりと地面に倒れ伏す。すぐに立ちあがろうと足を動かそうとするが、右足の感触がどうにも感じられなかった。
「……は、ぁ?」
感覚のない足を目視して、絶句する。
膝から先が無い。焼け焦げたズボンの切れ端を最後に、そこから先が完全に消失してしまっていたのだ。
焼け焦げた真っ黒な傷口からは流血すら無く、神経が機能していないのか痛みすら感じられない。そこにあるのは、ただ自身を構成する要素が欠落してしまったという埋めようのない喪失感だけ。
「そこで寝とれや、身の程知らず」
「――ぇ。う、ぁ?」
声が出なかった。吐き捨てるように言い残した男の言葉に言い返す余裕などないまま、日葵へと向かっていく男をただ呆然と眺める。
「鵺……っ!!」
「どの立場でそんな面しとんのや。こうなる事なんか、分かっとった筈やろうが」
悲痛な声で叫ぶ日葵に対して、男はどこまでも冷ややかな視線を向ける。その手に握られた大太刀は微かに電光の残滓を宿して、日葵の両の足を瞬きの間すらなく薙いだ。
弾けた光に目を焼かれている僅かな間に、日葵の姿が目前から消える――いや、より正確には、日葵の体は地に崩れ落ちていたのだ。
下腹部あたりから下の半身が、焼け焦げて消失している。今の一瞬で、カケラすら残さずに消し飛ばされたのか。ごぽ、という音を立てて日葵の口から尋常ではない量の血が溢れ出す。
扱う『神秘』のレベルが違う。この世界に踏み込んで日の浅い鵺と比べる事自体がそもそもおかしな話ではあるが、それにしてもだ。
「アヤカシを引き寄せる、か。まあ間違いとはちゃうやろうがな、お前の根本はそこちゃうやろ――お前の存在が、何万の人間を殺してきたんや?言うてみぃ」
「それ、は、違……そんな、訳が……っ」
「お前自身がどういう気ィなんかは、今更興味も無いわ。重要なんは今お前がここにおる事で、さらに多くの人間が死ぬかもしれんっちゅう、その事だけや」
猛烈な殺意、としか形容出来ない圧が一帯を埋め尽くす。男が掲げた手を合図に、周囲を取り囲んでいた男達が一定の陣形を組んで地に手を翳す。
膨れ上がる神秘の気配と共に、日葵を中心として五芒星の紋様が浮かび上がっていった。それが一体いかなる効力を持つのかは察しようが無かったが、碌でもないモノには間違いない。
「や、め……ろっ」
「一旦、身柄は預からせてもらうで。虎の子が着くまで、もうちょい掛かるやろうしな」
五芒星から溢れてくる光の粒が、日葵の肌に次々と張り付いていく。彼女も微かに身じろぎして抵抗しようとするが、しかしその光を振り払うだけの運動機能も、気力も、今の日葵には残っていなかった。
光に飲まれてゆく彼女に手を伸ばすが、体がまるで言うことを聞かない。欠損した脚は勿論のこと、腕の反応すら鈍くなっているようだった。
「ひま、り……ぃッ!」
肺の中の空気を搾り出して、少女の名を叫ぶ。だが当然光の侵食は止まる気配を見せず、まるで日葵の体をじわじわと分解していくみたいに、宙へと輝く粒子を拡散させていた。
全霊の神秘を、ほとんど動かぬ右腕に込める。せめてこの光の陣ごと地面のコンクリートを叩き割る、と。
それでこの現象が止められる保証などなかったが、何もしないよりはマシだった。もはや失った足から届くはずの痛みすらも遠いが、歯を食いしばり、死力を尽くして、輝きを帯びた床へと叩きつける拳を強く握った、その瞬間。
「……、おどれは」
「――どういう状況だってんだ、コイツは」
雷鳴じみた音と共に、空間が引き裂かれた。
開かれた狭間から姿を現した蒼衣の人影は瞬く間に二振りのバタフライナイフを抜き放つと、目にも留まらぬ速さで電光を纏ったままの男に接近する。
面食らった様子の男も流石の反応速度で防御の姿勢を取るが、手数が違いすぎた。十数度にも渡る金属音が数秒と掛からずに火花を散らして、生まれた僅かな隙を見逃す事なく蒼衣の人物の蹴りが男の体を大きく飛ばす。
「……九ノ里!」
「ツグミぃ、お前マジでツイてねぇな!『旭』相手に何したんだ!?」
突然の乱入者――九ノ里天谷は倒れ伏す鵺にそう叫ぶと、軽く跳躍して身を捻る。直後に四方から飛来した様々な『神秘』の嵐が彼に迫ったが、寸前で彼の体は世界から消失した。
かと思えば、既に九ノ里は周囲を包囲するスーツの男達の裏に回り込んでいるようだった。青い残光を残しながら瞬く間に彼らを蹴散らして、鵺の身を拾い上げる。
「デケぇ神秘の反応があったからすっ飛んで来てみりゃ、どういう状況だ?」
「俺にも、よく分からない。ただ、あそこで倒れてる子の身柄を狙ってる」
「あそこでって、ありゃ流石に死んで……いや死んでねぇの?マジ?」
視線を再び日葵に戻せば、先ほどまで日葵を包んでいた五芒星の陣と光の粒子は晴れているらしかった。当の本人も既に再生が始まっているのか、少しずつ失った下半身が再形成されつつある。
その現場を見たのは思えば初めてだったかもしれない。再形成、とは表現したが、どちらかというと時間を逆回しにしているかのような光景に見えた。
「……ありゃあ、まさか」
その様子を見た九ノ里がポツリと呟くが、間髪入れず凄まじい轟音と共に視界を強烈な光が埋め尽くす。咄嗟に身を守ろうと両腕を構えたが、覚悟していた衝撃は訪れる事はなかった。
眩んだ目を徐々に外界に慣らしながら開けば、先ほどまで距離を離され、流石に意識を失ったらしき日葵の姿が目の前にある。
それだけではない、先ほどまで鵺らが居た位置から大きく離れて、テーマパークのメインストリートを覆う天蓋の更に上へと、九ノ里を含んだ三人はこの一瞬の間に移動させられているらしかった。
逃げられたのか、とも考えたがそうもいかないらしい。続く雷鳴の轟音と共に、天蓋を突き破って一人の男が這い上がってくる。
「――その気味の悪ぃ神秘。お前、跳躍者やな」
「誰だよそのだっせぇ呼び名考えた奴。もうちょいマシな二つ名とかねぇのか?」
それはやはり、先程も真正面に対面していた関西訛りの男だった。黒塗りの太刀を構えて殺気を迸らせる彼は九ノ里を睨みつけると、纏う神秘の圧を底なしかと思わせる程に引き上げる。
「……金糸雀仁義。『旭』のトップ3だ、面倒な奴にマークされたな」
ボソリ、と鵺にだけ聞き取れる程度の声で九ノ里が補足を入れてくる。『旭』の内部事情は知らないが、流石にそうそう顔を出してくるような立ち位置の人間ではないのだろうという事くらいは察しがつく。
「何のつもりや?『夜』が自分から顔出してくるとはのぉ」
「悪ィがお忍びなんだ、ボスには内緒だぜ」
思わず怯んでしまう程の闘気を放つ金糸雀と呼ばれた男に対して、九ノ里は余裕の表情でウインクと共に軽口を返す。
その両手に握られた2本のバタフライナイフの刀身は、まるで陽炎のようにゆらゆらと歪んで見えた。金糸雀の持つ太刀が纏わせる電光とは違う、どこか現実離れした次元そのものの揺らめきに似たもの。
「もう一回だけ聞いとくわ、何のつもりや?お前らからしても、その女は害にしかならん筈やが」
「俺としても想定外だっての。とはいえよ、何も知らねぇ奴に事前通告もなしでこの仕打ちとはあんまりじゃねぇか?引き離すにしたってよ、話ぐれぇはさせてやるのが人情ってもんだろ」
「どうやら、その『話』を丁度しとったトコらしいがの」
「……え、マジ?まあ今そこはいいや」
素っ頓狂な声を漏らして目を白黒させた九ノ里は、屈みこんだ姿勢のままでくるくるとバタフライナイフを手中で弄ぶ。この極限状況にあっても緊張感のない彼の様子に苛立ったのか、額に青筋を浮かべた金糸雀はその手に収まる大太刀に雷光を迸らせた。
「――去ねや!」
それはまるで、稲光の壁に圧し潰されるかのような心地だった。
だが再び、来たる筈の灼熱の直撃はいくら待てどもやってこない。ただし今度は目を確かに開いて、その何とも奇妙な光景を垣間見た。
青い輝きが視界を埋め尽くして、その背後で薄れた世界の光景がかしゃりと映画のフィルムを切り替えるみたいに変貌する。世界を埋める蒼が薄れるころには雷光の気配は消え失せて、刀を降りぬいた姿勢の金糸雀がただ鋭い眼光を湛えるのみ。
「……金糸雀さんよ、今はアンタらと事を構える気はねぇよ。この初心者には、事の重大性を俺から伝えといてやる、その後は好きにすりゃあいい。『災禍』と一度直接対面したんだ、アンタらならもう探り出すくらいワケないだろ」
「お前らが『災禍』を拐かす、いう可能性は考えられんのか?」
「そのつもりならわざわざ姿晒すかよ。分かるだろ、俺が適当言ってるワケじゃねぇ事ぐらい」
いつになく真剣なトーンで言い放った九ノ里にどこか探るような視線を向けた金糸雀は、微かに視線を伏せて黙り込む。が、それも僅か数秒程度のこと。すぐにこちらへと視線を戻した彼は再びその大太刀を構え直した。
「いや……よう考えたら、ハナから考慮の余地も無いやんけ。九ノ里天谷……お前、秘匿指名手配やろ」
「あ、バレた?」
「それも即刻処刑対象。『夜』の拠点でも吐いたら、多少は余命伸びるかもな」
「よせやい、その前にボスに殺されちまうっての」
あくまでふざけた態度を崩さない九ノ里にいいかげん嫌気が差したのか、金糸雀はその両手で大太刀を正面に構え直す。その瞬間に溢れ出た神秘に伴って、物理的な暴風が鵺らの体を強く打ち付けた。
ゴロゴロ、という音を立てて空が幾度か雷鳴を轟かせる。そう感知した頃にはぽつり、ぽつりと大粒の雨粒が頬を打って、数秒と経たぬ間に凄まじい暴風雨へと変貌していった。
鵺の持つ霊感体質、そして直感が大音量で告げている。これから起こる事は、これまでの如何なる神秘とも比較にすらならない。この場に留まれば、一切の比喩表現なく灰も残さずに燃え尽きる。
「九ノ里……っ!」
「おう、流石にとんでもねぇな。こりゃ一時しのぎじゃどうにもならなそうだ。逃げるぜ」
「逃げるったって、どうやって……」
「喋んなよ、舌噛むぞ?」
青い残滓を残して姿を消した九ノ里の声が、突如背後から聞こえてくる。次いで再び視界が蒼に染まったかと思えば、今度は意識を失った日葵が鵺の腕の中に転がり込んできた。
慌ててその身を抱き留めれば、鵺の意識が急激に現実から引き剥がされるような心地が襲ってくる。
寸前、ひと際強い雷鳴が一帯に轟いた。
「――界雷。凌いでみせろや」
明滅、ホワイトアウト。
振り下ろされる大上段からの一振りに追随するように、尋常ならざる輝きが一切の視界を遮断する。あまりの轟音に耳がおかしくなったのか、キィン、という音を最後に聴覚はまるで反応を示さなくなった。
紛れもない絶死の一撃。全身が粟立つような消失の予感に咄嗟に覚悟を決めるが、その寸前に首根っこを思い切り引かれる。
――ヴゥン、と。
直後、全身を自由落下のような浮遊感が包んだ。
肉体の感覚が融けるかのような心地と僅かな酩酊感に身を委ねながらしばらくなされるがままになっていると、急激に四肢の感覚が復活してくる。
しばらく止まらなかった耳鳴りのせいか、変化の終結に対する反応が遅れてしまった……が、その感触を合図に目を開けば、完全に予想外の光景が鵺らを迎え入れた。
「俺の、家?」
「へぇ、ここがお前の。割と良い部屋持ってんな」
広がる光景は、鵺にとって良く見知った空間。出発前と何ら変わりない自室は、同じく何ら変わりない静寂と共に鵺を待っていた。夢でも見ていたのかと頭の中を整理しようとするが、九ノ里の存在自体がそんな都合のいい妄想を否定する。
いったい何をしたのだろうか。瞬間移動の類かとも考えたが、ただ移動した訳でもないというのは失ったはずの片足が当たり前に存在している事から読み取れる。
土足のまま九ノ里は日葵の体を抱き上げると、リビングのソファへと彼女の身をゆっくりと横たえた。
「……こりゃ、温情貰っちまったかな」
「九ノ里、これは」
「心配しなくても、話してやるよ」
絞り出すような鵺の言葉を遮って、九ノ里が強い声色で告げる。それは先程までのふざけた彼の様子とはかけ離れた、随分と深刻な声だった。
彼の淡く青い光を宿した双眸が、困惑する鵺へと向けられる。
「お前が何に首を突っ込んだのか――そこで寝てる女が何者なのか。全部な」