三節『呪われ達の共同生活』
「――これが、神秘」
「もう感覚を掴んだか、流石に早いな」
日をいくつか跨いで、場所は町外れの廃工場に移る。先日の彼の話を聞いた際に受けた九ノ里の指定に従って、『神秘』というもののレクチャーを受けるべく鵺は人目から離れたこの場所に訪れていた。
合流してからの数十分は、簡単な『神秘』の成り立ちの話を聞かされた。具体的な知識を深めていく事によって鵺の中での神秘という概念に対しての説得力を増し、その意識から育まれる神秘を活性化させる、というのが目的だという。
当初こそ半信半疑な面もあったが、元より『呪い』の存在によって人よりも非日常への理解がある鵺には、そう受け入れ難い話でもなかった。
そうして得た神秘……いわゆる『超常』の一端は、正直想像以上としか言えないものだった。
体がまるで、羽毛のように軽く感じられる。全身の細胞の節々にまで行き渡るような暖かな活力は、彼が――九ノ里天谷が『神秘』と呼称する力にまず間違いはないだろう。
体に伸し掛かる重力の存在を忘れてしまいそうになるような、劇的なまでの開放感。トントンと軽く地面を蹴るだけで肉体は数メートル程も飛び上がり、拾い上げた瓦礫の欠片は僅かに力を込めるだけで粉々に砕け散る。
これまでの非力な肉体を鑑みれば、まるで別の生物にでもなったかのような心地だった。
「俺たちアヤカシ狩りは、その『神秘』を行使してアヤカシを駆逐する。神秘はまぁ言葉通りって言えば言葉通りの意味なんだが、まぁつまるところ『不思議な力』だな」
「そのまんまだな……」
軽く頭を捻りながら噛み砕いて話す九ノ里の身も蓋もない表現に、思わずツッコミを入れてしまう。とはいえ彼自身も「だろ?」とつい顔に出たみたいな笑みを浮かべていたので、案外そんなものなのかもしれない。
「アヤカシが人の認知から生まれるってのは話したろ。人の抱える空想、信仰、畏怖、狂気――人間の理解の及ばない一次元上の領域、かつての人間はソレらを総じて『神秘』と呼称した」
「人間の理解の、及ばない……」
「だがまぁ、決して人間には扱えないって訳じゃなかったんだぜ。前にも言ったろう?ごく一部だが、生まれつき神秘を携えて生まれてきた人間も居た訳だ、それが『アヤカシ狩り』。まあ細かい話をするともう少し込み入った成り立ちもあるんだが……ま、それは今はいい」
話が長くなっちまうからなと一区切りした彼は、工場の端に放棄された埃被りのソファにどさりと腰掛けてタバコに火を付ける。確かソファは相当な埃をかぶっていた筈だが、まるで気にしている様子はない。
「とりあえず、今日のところはそいつを身に纏ってる状態に慣れるところからだ。ここにいる間は、基本その状態をキープする事を意識しろ」
「わ、かった。難しいな」
「すぐに慣れる、まぁ座って落ち着けよ」
ガラリという音を立てて、九ノ里が引っ張ってきたキャスター付きの椅子を押し渡してくる。咄嗟に受け取ったソレの表面に溜まった埃を軽く払い落として、一先ず言う通りに腰掛けてみた。
未だどこかふわふわとした感触に慣れない心地はあるが、脱力したことでいくらか落ち着いたように感じる。
「んじゃ、練習がてら雑談でもするか。話してる間もその状態を切らすなよ」
「む、無茶言うな……まだ話題なんか出す余裕はないぞ」
「安心しろって、ちょうど聞きたい事もある。話題はこっちが用意してやるよ」
顔を引き攣らせる鵺に対し、九ノ里はケラケラと笑ってそう話す。実際、普段あまりにも覚えがない感覚がゆえに意識がなかなか難しいが、慣れれば何とかなりそうだというのも理解はできた。
よし、と気合いを入れるべく、両の手で自身の頬をパチンと叩く。
「さてと。んでその聞きてぇ事ってのがな、お前、アヤカシに……いや、お前が『呪い』って呼んでたモンに触れたのは、あの日が初めてか?」
九ノ里が問いかけてきたソレは、敢えて訂正してまで『呪い』と表現したからにはアヤカシのことではないのだろう。つまるところ、正真正銘の呪い――これまでに鵺が触れ続けてきたソレを指しているモノと推測する。
「アヤカシは兎も角、呪いって事なら初めてじゃない。子供の頃にこの体質を自覚して、以降はかなり関わってきた」
「だろうな。お前の神秘は性質がかなり祓魔のソレに寄ってる、相当な数の『呪い』を祓ったろ」
「この体質について、色々と教えてくれた先生が居たんだ。その人の下で、体質の勉強がてら働いてた時期もある」
この体質を自覚して数年が経った頃、特に関わってはならない類の『呪い』に危うく触れかけた事があった。
その際、その呪いを祓って鵺を救ってくれた恩師がいたのだ。以降彼からこの体質との向き合い方の指導を受けて、彼の仕事を補佐する少々特殊なバイトをしていた時期もある。
鵺が呪いに触れる機会が多かったのはそのバイトの影響もあったが、おかげで呪いに関しては適切な身の振り方が身についたように思う。もっとも、その身の振り方が身についたからこそ、彼とは道を違える事になったとも言えるが。
当時は呑気にも自覚していなかったが、今になって考えれば間違いなく命の危険を孕んだ危険な仕事だった。体質があるとはいえ、あの当時の子供だった鵺にもやたらと金払いが良かったのは、そういう側面もあったのだろう。
おかげで現状、金銭面であまり苦労はしていないが、未だ心に影を残す出来事もあった。正直思い出しても気持ちの良い記憶とは言えない。
「『先生』――霊媒師か誰か?」
「いや、あれは多分違う。詐欺師とか言われたほうがまだしっくりくる」
「話聞く限り人生の恩人みたいな人にひでぇ言い草だな……」
とは言われても、思い返せば思い返すだけ胡散臭い人物だった記憶しかない。命を救われ、この体質との付き合い方を示してくれたことは当然感謝の念に絶えないが、それはそれとしてロクでもない人間だったのは間違いない。
今にして思えば鵺自身も、彼のよく回る舌に上手く乗せられて色々と無茶を押し付けられた。彼に救われた恩義を帳消しにしたくなるくらい、彼のせいで死にかけた経験もあった気がする。
「初めて『呪い』を見たのが何時だったかは流石にもう覚えちゃいないけど、キッカケなら聞いた。俺が小さい時に、富士の樹海で行方不明になって以来らしい」
「富士の樹海……厄ネタの宝庫だな、よく無事に生きてこられたもんだ」
「……やっぱ、結構危ない場所なのか?あそこ」
一般的に広まっているイメージとしても、例えば『迷い込んだら出られない』であったり、『自死の名所』であったりと、あまり好印象なモノではない。以降に鵺があの樹海を訪れた事はないが、きっと頭が痛くなるほど『呪い』が蔓延っている事だろう。
心霊スポットをはじめとしたそういういわくつきの場所は、必然的に人の負の念を貯め込みやすいのだ。
「基本、一般人にとっちゃ大したもんじゃない。中身こそ一級がわんさかだが、あんな場所は特に『隠し』が張り巡らされてるからな。なんの素養もない人間は阻まれて、精々が森で迷うくらいだ……ただまあ、お前の例を見るとな」
事実として、鵺は『隠し』に迷い込んであのアヤカシに出会った。そうして前例が生まれてしまった以上は、鵺と同じような立場の者が存在すれば、似た事が起こる可能性もゼロではない。
ふと思い至る。その身に余るほどの『呪い』を宿した少女――日葵もまた、鵺と似たような境遇と言えるのではないか、と。
ただ、彼女の場合は既にアヤカシや神秘について知見がある様子でもあった。或いは九ノ里が言うように、正式な手順に沿って自ら入り込んでいるのかもしれない……とそこまで考えた所で、別に今気にする事でもないか、と思考を戻す。
正直、鵺の体質が生まれつきの先天的なものなのか、或いはあの失踪を境に手に入れた後天的なものなのか、実際は定かではない。
何せ本当に幼い時の事だ、自分自身記憶にない以上、真相は闇の中でしかなかった。
「ま、腑に落ちねぇ事はいくつかあるが、当人がよく分かってないんじゃ解決のしようもねぇか。わざわざその樹海まで行くほど暇じゃねぇしな」
「……そういや、アンタは普段仕事とかどうしてるんだ?『アヤカシ狩り』って、そういう金銭的にも報酬が出るのか?」
「ん。いや、それで日銭を稼いでるやつも居るが……俺の場合は半分趣味みたいなモンだ。本業はまあ色々と、な」
明らかに言葉を濁した様子ではあったが、別に鵺としてもわざわざそこを追及する理由はない。片足を突っ込んでいるとはいえ、基本的には部外者でしかない鵺には話せない事だってあるだろう。
日葵の例だってある。この世界側で生きている者が全員、真っ当な生を送れていると考えるのは、浅はかだと思っておいた方が良いのかもしれない。
「ついでに話しとくと、その『アヤカシ狩り』で生計を立ててるって奴ら――業界じゃ『旭』って呼ばれててな。奴らは国が直々に運営してる、対アヤカシ用の自警団みたいなモンだ。滅多に表に出てくる事はねぇが、お前みたいにアヤカシを飼ってるヤツが好奇心で近づいたら、最悪殺されかねんから気を付けろ」
「こ、殺されるって……国が運営してるって事は、公務員みたいなものなんだろ?流石に大袈裟じゃ……」
「国営っていっても、奴らの大元は古から続く護国の十家。かつての時代の廃刀令の後も、大戦後の旧日本軍解体の直後も、殺し殺されを繰り返し続けてきた怪物の巣窟だ。一般の倫理が通じると思ってたら大間違いだな」
「――。」
冗談で言っているとは、残念ながら思えなかった。
どこか聞き覚えのある気がしたその名を暫し脳裏で反芻すれば、すぐに心当たりに行きついた。日葵と初めて出会った時に彼女が口にしていた言葉――『旭の人……じゃないよね』、というソレ。
どこか警戒したような彼女の素振りから見て、莫大な呪いを背負う彼女もまた『旭』とやらに追われる身である可能性は十分にあり得た。そう考えれば、『最悪殺される』というその予測も一笑に付す事は出来なくなってくる。
さぁ、と血の気が引いた様子の鵺が面白かったのかケラケラと笑った九ノ里はバシバシと彼の背を叩くと、「ま、奴らが表に出てくる事なんざそうそう無いから、安心しろよ」と付け加えてひょいと立ち上がった。
「お前が考えるべきことは一先ず、ロクでもないモンに出会っちまった時に最低限身を守る術だ。旭に命を狙われる以前に、そっちの方がよほどありうるからな」
「……脅かさないでくれ」
「はっ、そんじゃあこれが脅しにならない程度には戦えるようになってもらおうか?そら、もう集中切れてるぞ」
「あっ」
話に気を取られるうち、いつの間にか四肢から抜け落ちていたらしい『神秘』の感触に、慌てて気を張り直す。
当然といえば当然だが、やはりまだまだ非日常への適応は進んではいないようだった。
⬜︎ ⬜︎ ⬜︎
「――もうそろそろだ。日葵、頼む」
「わかった」
諸々の騒ぎから、時間にしておよそ一週間という時が流れた。
こうして振り返るとあまりにも現実感のない一幕ではあったが、こうしてこの家に日葵が今も滞在していることが、この現実が真実であることを裏付けている。
とはいえ、別にそれ以降大きな変化があったわけでもない。精々変わった事があったとすれば、自分だけ何とかすれば良かった食事がそうもいかなくなって、自炊の機会が増えたといった程度だろうか。
「はい、こっちは大丈夫」
「あいよ、っと」
鍋で茹でられていた素麺をざるに出して、冷水を一気に流していく。最初は指に伝わってきた火傷しそうな程の熱も数秒と経たずに霧散して、すぐにキンキンに冷やされた。
ざるからボウルに移したソレに再度冷水を注いで氷を数個落とし、テーブルへと運ぶ。既に日葵が用意してくれていた取り皿には専用のつゆが注がれており、後は好みで薬味を入れるだけ。
時刻は正午を少し回って昼時。室内はエアコンで快適に保たれているが、一歩外に出れば一気に体力を削ぎ落とされそうな猛暑だ。
夜間は多少マシになるからとエアコンを切っていたのが運の尽き、起きた頃には部屋が熱気で溢れかえり、全身が汗でぐしょぐしょになってしまっていた。おまけに気力までゴリゴリと削がれていくのだから嫌になる。
シャワーだけ浴びて汗は流したとはいえ、一気に活力が持っていかれたような感覚に陥ってしまうのだけは如何ともし難い。対して手間も掛からず、すぐに複数人分も調理出来る素麺のストックがあったのは僥倖だった。
「……ん、美味しい」
「母さんが贈り物で箱入りのヤツを貰ったらしくてさ。実家だけじゃ食べきれないって、幾らか分けてもらったんだよ」
贈り物用というだけあって有名なブランドらしく、実際かなり美味しかった。特に夏場の時期には、暑さの中でも心地よく食べられるこういったものはかなりありがたい。
「鵺は、この後はどうするの?」
「そうだな……バイトも辞めちまったし、課題もないから正直暇なんだよな、今」
無論、部屋の隅に置かれたPCを開けば幾らでも時間を潰す方法など転がっているが、流石に同じく何もやることが無い日葵を放って一人黙々と遊んでいるのも罪悪感がある。
彼女に聞けばまず間違いなく「気にしないで良い」とでも返してくるのだろうが、そうなれば余計に罪悪感が増すだけだ。とはいえ今日だけなら兎も角、これから先の夏休みを日葵共々、無限に時間を潰していけるようなアテは残念ながら鵺にはない。
PCがもう1台でもあれば話は別なのだが、だからといって日葵にポンとPC1台を購入して渡してやれるほどの金銭的余裕は流石になかった。
となると何処かに日葵を連れ出すか?ともなるが、それはそれでまたよからぬ誤解を産みそうだ、と思いとどまる――というか、我ながら何を必死になって考えているのか。
「逆に、日葵はどうする?本棚ももうそろそろ読み尽くした頃だろ?」
「うん。けど、あんまりキミから離れるわけにもいかないから、外に出る予定はあんまりないかな」
「……それもそうか」
そもそも彼女が鵺の自宅に転がり込んで来たのは、彼の中に存在するというアヤカシの動向を監視するためだ。その目的を考えれば、暇だからといって鵺から離れるという行動は本末転倒とも言える。
というか、外に出ると仮定した場合それ以前に問題が一つ。少々普通の着物とは異なった特殊な和装に加え、その純白の髪色はあまりにも目立ちすぎる。
髪色だけならば兎も角、そこに和装まで加われば何かのコスプレと勘違いされかねない。見る限り彼女の私物はその一張羅のみで、他に着替えを持っているような様子もなかった。
それで浮浪者同然の生活をしていて、汚れひとつないというのだから恐ろしいものだが。或いは、それも何かしらの神秘の作用なのだろうか?便利なものだ。
「とはいえ、着替えは必要だよなぁ……」
互いに食事を終えた食器を片付けながら、片手間にスマホで日葵用の服を探してみる。通販でそれらしいものに検索を掛けてみるが、正直どれが良いかなど鵺にはわかったものではない。
最近のトレンド――と調べてみても、妙に露出の激しいものだったり、可愛らしさ全開といった方向性のものばかりでなんとなく抵抗があった。
「……仕方ないか」
SNSアプリを開いて、ちょうど同じ年頃の少女であるところの奏に連絡を入れる。妙な誤解を受けても面倒なので日葵の事は従姉妹と変換してぼかしたが、変に鵺が選ぶよりはマシなものが帰ってくるだろう。
彼女にしては珍しくすぐには既読も付かなかったが、別に急を要する事でもないのでアプリを閉じて手早く片付けを済ませた。
「『神秘』の習得は、どう?」
「ん?……まあ、そこそことしか言えないな。他の奴の習得速度がどの程度かも知らないし、教えてくれてる奴もそういった事は話さないからさ。日葵はどうだったんだ?」
「私?」
実際、自分の飲み込みの速さがどの程度なのかは比較対象が居ないことには何とも言えない。神秘に触れた速度自体は評価を受けたが、普通に考えれば普通の『アヤカシ狩り』は神秘を扱えるのが平常運転。
例えるなら、急遽レースに参加する事になった部外者がスタートラインにつくのが早かった、というようなものだろう。
参考までに日葵がどうだったのかを尋ねてみるが、彼女はしばし考え込んだ後、やがて諦めたように首を横に振った。
「もう、覚えてないかな。その時は必死だったのと、随分前のことだし」
「必死だった?」
「私は神秘を扱えるけど、別にアヤカシ狩りって訳じゃないの。どっちかというとキミと同じ、巻き込まれてこの世界に来たようなものだから」
それは意外な話だった。この業界についてもある程度詳しいようだったし、わざわざこうして鵺に潜むアヤカシの監視まで行っているくらいだったからてっきり、彼女もアヤカシ狩りなのだとばかり思っていたが。
加えて、あの邂逅の時に彼女が見せた不死性。あれほどの神秘、巻き込まれただけの者がたまたま会得するには、あまりに常識外れだという印象を受ける。
「昔、災害に巻き込まれて死にかけた事があったの。その時に会った……卑弥呼っていう人が、私に『神秘』を与えた」
「卑弥呼!?」
「とは言っても、多分鵺が知ってる歴史上の人物としての卑弥呼とはまた別人だよ。そんな昔から生きてる訳じゃないし」
「あ、あぁ……そうか。流石にそうだよな」
卑弥呼といえば、時代としては弥生時代の頃だ。西暦で考えれば1800年近く前の人物、ここ最近の非日常の連続で何が起きてもおかしくはないといった考えに陥りがちだったが、そこまでいくと流石に度が過ぎている。
確か卑弥呼といえば、日本の歴史でも最古の『神秘』にまつわる伝承を持つ偉人だ。その名にあやかる者くらい居てもおかしくはないのかもしれない。
「私が不死身になったのはその時から。付随して私自身も神秘を扱えるようにはなったけど……アヤカシに出会うようになって何度も殺されたから、せめて身を護れるくらいにはならなきゃ、って」
「……悪い」
「いいの、本当に昔のことだから。もうあんまり覚えてもないよ」
デリケートな話題を振ってしまったかと謝罪すれば、日葵は変わらぬ様子でフォローを入れてくれる。人が死に至るような災害に絞ってもここ十数年でいくつかの候補はあるが、流石にそこを掘り返すほどデリカシーに欠けているつもりはない。
別に彼女の過去を根掘り葉掘り引き出す意図も無いのだ、話を変えようと少し頭を捻らせたところで、ふと来客を告げるインターホンの音が部屋に響く。
「お客さん?」
「らしい。出てくるよ」
特に来客の予定はなかった筈だが、近所付き合いの都合、別に珍しいという訳でもない。どうせまた隣に住む陽気な老夫婦あたりが差し入れにでも来てくれたのだろうと、玄関の扉を開ける。
そこに現れたのは先日の母に引き続き、まさか今見るとは思ってもみなかった顔だった。
「……何でここにいる?」
「ちょうどこっちに来る途中だったのよ」
そこに居たのは、ちょうどついさっき鵺がメッセージを飛ばしたその人――永嶋奏だ。加えてその後ろでは当然みたいに、セットでくっついて来たらしい柊敦也がヒラヒラと手を振っている。
あのメッセージを送ってから、時間にして数分が経過した程度だ。何なら最寄駅くらいまでは既に着いていたのかもしれない。
一体何のために、と考えたところで、騒動直前の大学で夏休みにどう過ごすかの話が途中で終わっていたことを思い出す。実際どこかのタイミングで集まってまた話そう、と一区切りした結果がこの状況という訳だ。
「わざわざ呼び鈴鳴らすなんて珍しいな。来る前に連絡でもくれれば良かったのに」
「しようとは思ってたんだけど、直前でアンタからのメッセージが来たからね。何も言わない方が面白いことになるかなって」
「面白い事って、何がだよ」
「そこに並んでる明らかに見覚えのない靴とか?」
後ろから指摘してくる敦也の言葉に、漏れかかった『しまった』という声を何とか内心に収める。まさかこんなにも早くに直接乗り込んでくるなどと思ってもいなかったものだから、日葵の靴が玄関に置かれたままだったのだ。
「嘘が下手くそなのよ。あんなあからさまなの、自分からバラしてるようなもんでしょ」
「……にしたって、今日ここにいるとは限らなかったろ」
「まあその従姉妹ちゃん(仮)が居なかったら居なかったで、普通に問い詰めるつもりだったわ。まあ別に当初の目的はそっちじゃなかったんだから、正直どっちだって良かったんだけどね」
慣れないことをするものではなかった、と後悔する暇もなく二人はズカズカと入ってくる。少し前にも似た状況を見たような気がするが、とはいえここから状況を挽回するのは流石に不可能。
普段からこの部屋に入り浸っている二人を止める術などある筈もなく、もはや日葵と引き合わせる事になるのは避けられなさそうだった。
「……分かった、ちゃんと話すし会わせるから少し待て。あっちにも準備があるだろ」
「あら、意外と素直」
「母さんにもバレたから、半分諦めてんだよ」
もうここまでくると自分の体裁は最悪どうにでもなるとして、日葵自身に申し訳が立たなくなってくる。とはいえこの休み中、日葵が常に鵺の周りを離れずに付くのなら、結局のところ遅かれ早かれの問題ではあった。
それが少しばかり早まっただけだ。と思う事にして、居間の端で丸まった姿勢のままの日葵に声を掛ける。
「悪い日葵、客だ」
「……私に?」
「日葵に……というか、前の母さんの時と似たような感じ、というか」
申し訳ないやら気まずいやらで、次第に尻すぼみになっていく鵺の言葉で意図を察したのか、日葵は「あー……」という抜けた声を洩らして苦笑する。
こちらの交友関係に強制的に巻き込んでしまう事になるのは正直申し訳なかったが、思えば奏と初めて出会った時も鵺が今の日葵の立場に相当する形の状況だったように思う。
少なくとも奏の人間性を鑑みるに、そう悪い事にはならないだろうという確信はあった。以降鵺を通じてどうしても付き合いは避けられないのなら、早い内から打ち解けてしまった方が良い……という考えは流石に現実逃避が過ぎるか。
「……ぅ、わ」
「――。」
こちらの合図を受けて勇み足に居間へと踏み込んできた奏が、日葵の姿を見るなりそんな音を溢して硬直した。一方、凝視されている側の日葵はというと特にアクションを起こすでもなく、その真紅の瞳で彼女を見つめ返している。
続いて入室してきた敦也はといえば、日葵の姿を見ると「はぁ〜……これはまた」と感心した様子で頭を掻いているようだった。
てっきり母同様ガンガンと絡みにいくものだと思っていたので、奏のリアクションは少々意外だ――などと他人事のように状況を見守っていると、凄まじい速度で切り返してきた奏が鵺の襟首を引っ張って室外へと連れていく。
「お、おわっ!?何だ急に!」
「何だ急にじゃないわよ……!え、誰あの子、超美人……どういう繋がり……!?」
「ああ、そこは共通なんだな……事情があって、暫くウチで預かる事になった。あの子側のプライバシー都合もあるから、仔細は聞かないでくれ」
どこかデジャブな流れに少々感嘆しつつ、彼女の素性についての細かい部分はどう誤魔化すかとも考えたが、ここまで来るとストレートに『聞くな』と言うのが一番手っ取り早いと判断する。彼女については正直、包み隠さず話せる事の方が少ないのだ。
当然奏も納得はしていない様子ではあったが、詮索するなと言われれば彼女もそれ以上は何も言えず、「む、ぅ……」という妙な声を放ちながら押し黙る。
「それで、例の服云々の話は?」
「色々あって、荷物も服の予備も何もないんだ。せめて一、二着くらいは替えの服ぐらいあった方がいいな、と思って」
「……あー、なるほどね、逆に納得だわ。どうせまた変なことに首突っ込んだんでしょ?」
どこか落胆したような声音でそう問いかけてくる奏に、今度はこちらが「うぐ」と押し黙る。実際変な事に巻き込まれているのは事実なので何の反論も出来ないが、どうせと言われると複雑な気分になる。
はぁ、と一つため息を吐いた奏は改めて部屋の中に戻ると、いつの間にやら簡単に挨拶を済ませたらしい敦也と日葵の会話に割り込んでいった。
「そんじゃ、今度は僕が話聞く番かな?」
「勘弁してくれ、お前が考えてるようなもんじゃない」
「何となく察しは付いてたさ。軽く話した感じと、奏の表情からしてもね。僕らは何をしたらいい?」
「……仲良くしてやってくれたら、それでいい」
別に、いま現在進行形で問題が起こっているという訳でもない。解決以前の話として、日葵はその問題自体が起こらないように目を光らせてくれている、という状態なのだ。
鵺が日葵に対して申し訳なさを感じているのは、あくまで鵺個人の感情的な問題。本来なら関わらせるつもりすらなかった事、特段何か助けが必要という訳でもない。
「懐かしいね、奏が鵺と初めて会った時もこんな感じだったっけ」
「あの時は焦ったよ。いくら敦也ヅテとはいえ、顔も知らん女子にあそこまで詰められたのは初めてだったからな」
奏は基本的に、コミュニケーションに関して貪欲だ。生まれる縁は全て引き入れんばかりの勢いで詰めていくので、初めて彼女に相対した者は誰しも困惑を隠せずにいる事が殆どに思える。
とはいえ、彼女自身の人格としては心優しく思慮深い。上手く人となりを見極めて、本当に嫌なラインまでは踏み込むまいと距離を測っている。
それが出来るからこそ、やはりどうしても関係の浅い他者からは嫉妬を買いやすい、という事もあるが。兎にも角にも、こと人と接する事柄においてはずば抜けて要領が良いのは間違いなかった。
とはいえ、敦也に限っては幼馴染という境遇もあって、距離が近過ぎるが故の衝突も度々起こったりはするようだが。
「――鵺。」
「……?」
そうして敦也と話をしているうち、いつの間に話が済んでいたのか、日葵が鵺の袖を引いて呼んでいた。何かあったのかと視線を向けると、彼女はそのまま向けられた視線を受け流すように、後ろで腕を組んだ奏へと寄せる。
仁王立ちして一身に二者の視線を受け止めた彼女は、カッと目を見開くと、声高にこの場に集まる三者へと宣言した。
「買い物、行くわよ。これから!」
「……何だって?」