十節『いずれ終幕の百鬼夜行』
少し、時を遡る。
「……っ、ぐ……っ!う、ぉあ……!」
息も絶え絶えになりながらも、死に物狂いで足を動かし続ける。目まぐるしく移り変わっていく景色の中でも決して足を止めないように、立ちはだかる全ての障害を撃ち砕きながら駆け抜ける。
空想を広げ続けろ、夢想を描き続けろ。自分に出来ない事など何一つないと、自分自身に信じ込ませろ。そうして描いた理想を、寸分違わずなぞり続けろ。
そうでなければ、鵺を待つ未来は死のみだ。
「ぁ、ぁああああーーッ!!」
ビルのガラスを突き破りながら飛翔し、どす黒い炎を纏った黒刀を振るう。直撃の間合いにまで踏み込むことは自殺行為だ。そうなれば鵺の一撃が『彼』に届くよりも先に、鵺はあっけなく死に至る。
一刀の余波が膨大なエネルギーを伴って、光を失った大阪の街並みを紅く照らし出す。真正面から迫る熱量の壁を見据えた男は慌てる素振りすらないままに刀に手を添えると、宙に跳んだ姿勢のまま深く腰を落として見せた。
「っ、づぁ……!?」
次の瞬間、まるで世界が真っ二つにされたかのような感覚に襲われた。鵺が放った黒炎の一太刀は美しさすら感じられる精度で半ばから切り落とされて、斬撃の余波は咄嗟に身を捻った鵺の背後にあったビルを半ばから両断する。
居合の達人が巻き藁を上に残したまま切り落とすソレを、この男はさも当たり前のようにビル一棟でやって見せたのだ。あまりにも冗談じみた光景に背筋が凍る。
次第に断面に沿って滑り落ちていく廃墟と化したソレの壁を蹴って、更に跳躍する。隣から連鎖して建ち並ぶビル群の壁を突き破りながら、必死に反撃の機会を探るしかなかった。
まるで手も足も出ない。金糸雀や雛菊も常軌を逸した強さを見せていたのは間違いないが、いくら何でも次元が違い過ぎる。全ての『呪い』を駆使して回避に専念しても尚、どこかで一手を打ち損ねれば終わりだという確信があった。
「恐ろしい反応速度だね。動きは完全に素人のソレだというのに、伴う反射的な行動の数々は人間業ではない……その身のアヤカシが、そうさせているのかな」
「っ、うぉあッ!?」
どこからともなく聞こえてきていたその声が、突如として背後から放たれる。背筋が凍るような感覚を死ぬ気で押し殺しながら身を捻り、狙いをつける時間すら惜しんで背後の空間を一閃した。
当然、そんな苦し紛れの攻撃が通用する相手ではない。宝刀の斬撃は空を切って、次の瞬間には腹部に焼け付くような激痛が走る。
「ご、ぼ……ッ、くそ、が……っ!!」
「やはり、もう傷の修復が始まっているな。高度な自己再生の神秘すらも併せ持っているのか」
興味深そうにそんな事を呟きながら、十条はその手の日本刀を構え直す。たったそれだけの動作で、一帯の空気が鉛のように重くなったような心地だった
完全に遊ばれている――というのも違うのか。日葵の討伐は彼らにとって緊急で解決すべき事案、本来なら今ここで鵺に構っている事すら煩わしい筈だ。だが今も鵺が命を繋いでいるのは、間違いなく彼の加減があっての事だった。
故にこそ不気味だ、ともいえる話だが。
「……何の、つもりだ」
「それこそ、私が君に問うべき言葉だね。何故に、君は我々の前に立ち塞がる?『災禍』の存在が人類にとって如何に危険か、君は理解しているのかい」
鵺の問い掛けに対し、十条は逆に問い返してくる。だがそんな話は鵺とて何度も聞いていた、九ノ里からも金糸雀からも、散々言い含められていた。だがそれでも、鵺の答えは変わらない。
「しつこいな、知ってるさ。知った上でここに居る。その上で、日葵は殺させない――それ以上、俺に答えられる事は無いよ」
「彼女の事情については、私もある程度把握している。心苦しくはあるが、しかし大衆の未来を想えば比べるべくもない事だ……君は、あの少女1人の為に他の万人を見殺しにすると?」
「なんだってアンタ達は、そう極端な考えしか出来ないんだ……?あの子は200年も、アンタ達からもアヤカシからも逃げ続けて来たんだろ!?せめてアンタ達があの子を守ってやれば、あの子はこんな目に遭わなくても済んだんじゃないのか……!?」
「アヤカシとて、容易に撃ち破れるモノばかりではない。中には現在の人類では対処出来ぬ怪物も、また存在する。そういったモノが彼女に牙を剥けば、彼女がその手に落ちぬよう守り切れる保証など何処にもない」
「だから殺すのか……?失敗が怖いから、万が一が恐ろしいから……!だから日葵を殺して安心したい!そう言いてぇのか!?」
「……否定はしないさ。その通りだよ」
「――ッ!!」
頭の奥がズキズキと痛む、滾る怒りが膨れ上がってどうにかなってしまいそうだった。
別に、彼らの理屈が何もかも間違っていると思っている訳じゃない。彼らが国を守る立場である以上、この国の破局に繋がる一切の可能性の芽を摘むのは仕方のない事というのも理解していた。
だがそれはどこまで行っても、あくまで理屈の上での話。頭で理解こそすれど、それに鵺が納得できるのかと問われればそれは断じてNOだ。
身勝手な思いなのは承知の上だ、傍迷惑な感情なのは承知の上だ。それでも尚、鵺はその選択を許容しない――そう決めたというだけの事。
「『B_DW7。』!!」
「――。」
咆哮する。頭を埋め尽くした激情の迸るままに『黎明』を振るえば、天まで届くかという程に巨大な熱線が夜空を焦がした。
が、遅い。既にその場から姿を消した十条は、『呪い』によって平時とは一線を画す動体視力を得た鵺の目ですら追い切れない速度で国道を駆け抜ける。辛うじて残る神秘の残滓を頼りにその動きを予測するが、それでは追いつきそうもない。
視界の端で何かが閃いたと感知すると同時、鵺の左腕の感覚が消えた。突然の事に視線を寄せれば、肩から先が美しさすら感じる切り口を残して切断されている。
「っ、が、あぁッ!?」
ドバドバに流れるアドレナリンのせいか行動不能になるほどの痛みではなかったが、それでも今すぐに泣き叫びたくなるような激痛が走った。
涙目で歯を食いしばりながら、肩口に意識を集中する。鵺の体に満ちる『呪い』は先行して腕のカタチを取って、それに追随するように膨れ上がった血肉がまっさらな左腕を再形成してみせた。
「そう、その通りだ。我々は万に一つ、億に一つの可能性であろうと、この国を脅かす種子を見逃す訳にはいかない――例えその裏で切り捨てられた誰かの涙が溢れようとも、その涙を踏み躙る事になったとしても、正義を為す義務があるんだ」
「なんの権利があって、あの子の命を脅かす……!アンタに、アンタらに……っ!なんの権利があって、あの子の幸せを踏み躙る!?」
「何の権利も、我々にはないさ。そこにあるのはただ、ソレを必要とする現実だけだ」
ソレはただの八つ当たりだった。十条もまたソレが理不尽な糾弾である事を理解しながら、しかし指摘する事なく真正面から受け止めている。
「不思議には思っていたんだ。これまで『災禍』の反応はあまりに微弱で、我々が感知した頃には彼女はその場を去っている事が常だった。なぜ今になって彼女が同じ場に留まり始めたのか、と――君が、その理由だったか」
「が、ぁあぁーーーーッ!!!!」
「……君達には、詫びる言葉もないよ」
まるで獣じみた咆哮を上げながら駆ける鵺に対し、十条の構えた刀が僅かにブレる。たったそれだけの動作の筈が、既に鵺の両足は半ばから切り落とされて、勢いよく頭から地面に叩きつけられた。
だが金色の瞳は、決して男の姿を逃そうとはしなかった。次の瞬間には切り落とされた足をそのまま地面に擦り付け、傷口が抉れることもお構いなしに踏み込む。
まるで獣のような――いや、バケモノが如き執念。微かに驚いたように目を見開いた十条の隙を逃すまいと、黒い怪物は獰猛に吠えて牙を剥く。
けれど、届かない。
「君の意志は分かった。だが、残念ながらソレを通してやる事はできない……災厄の芽は、ここで摘ませてもらう」
剣閃が奔る。
鵺の体は、突進の勢いを残したまま再び地面へと倒れ伏した。再びもがき立ちあがろうとするが、地面を蹴る足も、体を起こす腕も、根本から完全に断ち切られていた。
再び『呪い』を巡らせて四肢を再形成しようとするが、その瞬間に鵺の頚椎を十条の右足が踏み砕く。一瞬の衝撃の感覚も束の間、鵺の意識は瞬く間に落ちようとしていた。
常人ならば即死の一撃だ。だが鵺の身に宿る神秘が、呪いが、魂に紐づいたソレらが、辛うじて今にも消えてしまいそうな反抗を続けている。
だがそれも、所詮は悪あがきに過ぎなかった。
「ひ、まり」
潰れた気道から微かに溢れ出た声にもならぬソレが空気を揺らすと共に、遂に鵺の全身から力が抜ける。彼の体が帯びていた夥しい程の『呪い』はやがて薄れ始めて、少年の命が潰える様をありありと示していた。
その様を見下ろし微かに目を伏せた十条は、刀に付着した血を拭い落として納刀。生気を失った視線を残した鵺の瞼を閉じさせ、簡易ながら祈りを捧げる。
少年の鼓動は既に止まっていた。その呼吸も含め、あらゆる生命活動は停止していた筈だった。
――筈だった。
「『ひまり』」
「――!」
その声は、果たして少年の口から紡がれたものだったのだろうか。
息を呑んだ十条の眼前で、既に絶命した筈の鵺の体から膨大な『呪い』が溢れ出してくる。先ほどまでの彼とは規模が違う、道の脇に立ち並ぶ街路樹は数秒とたたずに枯れ始め、彼の倒れた地面は黒く変色して脆くも朽ち果てた。
そこに居たのは、紛れもなく人間ではなかった。人間の皮を被った怪物、鵺の中に眠っていた『恐ろしいもの』が産声を上げようとしていたのだ。
「これは、まさか」
「『ひまり……ひまり、ひJり――ひまり、ひまLひJLVまLVJLVJLVJL』」
「……馬鹿な!!」
一際大きな力の波が、巨大な衝撃を伴って膨れ上がる。十条の体は十数メートルも弾き飛ばされて、一帯の建造物が嫌な音を立てて大きく軋んだ。
ドス黒い炎が鵺の体を覆い、辛うじて人のカタチをした炎の人形の頭部で金色の瞳が瞬く。四肢を取り戻した怪物が一歩歩みを進めるたび、『隠し』そのものが耐えきれないみたいにひび割れ、崩壊していく様子すら見えた。
「何故、何故こんなモノが彼の中に……何故今も存在している――『空亡』!!」
ソレは、古くに封じられた筈のアヤカシだった。
神秘を喰らう神秘、呪いを喰らう呪い、アヤカシを喰らうアヤカシ。あらゆる空想を喰い尽くす、古の時代に現れた百鬼夜行の最後に現れた大怪異。
あまりに危険すぎる力が故に総力を結して封じられ、その力を僅かでも削ぐべく存在を抹消された存在。その名前を口にする事すらも忌まれ、『恐ろしいもの』としてごく僅かの家系にのみ口伝される、紛れもない“世界を終わらせるモノ”。
災禍の少女など比べるべくもない、紛れもない『終末』の具現だった。
「――ッ」
今度こそ本物の焦りを浮かばせて、十条は深く腰を落とす。構え直した刀に灯る神秘が強烈な殺気を宿して、周囲の空間を歪ませた。
崩壊の種を間引くつもりが、最悪の虎の尾を踏んだ心地だった。既に封印の手順など失伝しているが、このままでは当初に想定した最悪の事態など比較にならない大惨事が日本を襲う。
可能か不可能かなど、もはや関係はない。ただ果たすべき使命に突き動かされるがまま、十条は眼前の『終幕』を睨みつけた。
しかし。
「……?」
ふと気づく、様子がおかしい。
膨れ上がる怖気は依然変わらない。だが、在って然るべきそれ以上の変化がいつまで経っても現れない。
それどころか強大な気配は荒ぶる事なく、むしろ安定さえし始めているように感じられる。燃え盛る黒炎の中、崩壊を撒き散らす災厄である筈のそれは一歩ずつ歩みを進めるのみで、自発的な破壊の兆候を見せないのだ。
むしろこれは、意識的に力を押さえ込んでいるかのような――。
「『どうして』」
「……ッ、な」
それは音にすらならぬ意志そのものとして、確かに眼前の怪物から発された言葉だった。
もはや人の名残りすら怪しい黒い怪異は、十条を真っ直ぐに見据えて呟く。姿こそアヤカシのソレに変じてしまっても、その言葉は確かに暁月鵺という一人の少年から発されたモノだ。
それはつまり、たった一人の少年の自我が、『空亡』という破滅の力を押さえ込んでいるという事――決してあり得ない、奇跡に等しい事だった。
「『……どうして、こんな事になる』――あの子ばかりが、どうしてこんな目に遭わされる」
一歩、また一歩と、決して安定しているとは言えない足取りで進む少年は、誰に語り掛けているのかも不確かなそんな問いを投げかける。壊れていた筈の喉も再生を終えたのか、意識に直接響くようだった声は紛れもない音へと変化して、彼の口から紡がれ始めていた。
それは答えのない問いだ。或いは問い掛けですらない、この現実に対する積み重なった激情の吐露でしかないのかもしれない。あまりにも残酷な運命ばかりを齎す世界に対する、吐き出さずにはいられない不満。
「あの子が、何かしたのか……?あの子が、誰かをその手で傷つけたのか……?そうじゃないなら、そんな事はないっていうんなら、どうして――」
強すぎる怒りが、止まらない嘆きが。あまりにも複雑に絡み合い、ぐしゃぐしゃになりながらも燃え盛る強烈なまでの自己が、その身から暴れ出ようとする呪いをその身の内に押し込んでいく。
身を焼き焦がす黒炎は縮小して、鵺は人間の姿を取り戻しつつあった。黄金に輝く瞳が、眼前の狩人に問い掛ける。
「――たったあれだけのことで、“生きてきて一番幸せだった”なんて……そんな言葉が、出てくるんだよ」
それは、十条へ投げかけても仕方のない問いだった。誰に投げかけても、どうにもならない問い掛けだった。
遂には目前に辿り着いた鵺の両腕が、ゆっくりと十条の襟首を掴む。呪いを帯びて黄金色に輝く両の眼がどこか悲痛な色を宿して、微かな困惑の表情を浮かべる十条を真っ直ぐに睨みつけていた。
「なぁ。アンタら、国を守る人なんだろ……?この国を、この国に生きる皆を守るために、命張って戦ってる人たちなんだろ……!?」
「――。」
「俺は、アンタたちみたいな立派なもんじゃない……守りたいのはたった一人、それだけで良かったんだ……!ただあの子が、人並みの幸せを……特別でもなんでもない世界で生きられるなら、それで良かったんだよ……!」
たった一つの願いだった。たった一つの望みだった。別に、世界を救うだとか人類を守るだとか、そんなご大層なことは求めてはいない。
あって当たり前の生を謳歌する事すらままならなかった彼女が、ささやかな幸せの中で生きていけるように出来たならそれで良かった。ただそれだけ、たったそれだけの簡単なことが、どうして彼女だけは許されない?
「アンタたちだって、元を辿れば“そう”だったんじゃないのか……!?」
「……私は。」
鵺の悲痛さすら感じられる問いかけに、十条は返す言葉を失ったように押し黙る。ただの感情論、情に訴えかけるだけの悪あがき。それでも、今の鵺にはそんな不確かな可能性に賭けるしか残されていなかった。
怒りに任せて握り込まれた拳には、ロクに神秘も込められていなかった。神秘で身を守る相手にはなんの意味もないに等しい、ただ握りしめただけの拳。
「アンタたちだって……!名も知らない誰かを、明日を願う誰かを守る為に!!剣を取ったんじゃないのか!?」
――ただそれだけの拳が、十条の頬を打った。
微かに口を切ったのか、つぅっと一筋の血が口端から伝う……が、それだけだ。ほんの僅かにのけ反った程度で、与えられたダメージは微々たるものだろう。
だが、反撃はなかった。伝う血液を手の甲で拭って、汚れたその手に視線を落とした十条は動かない。ただどこか考え込むような様子で視線を伏せたまま、まるで合わせる顔がないといった様にすら感じられる様子で黙り込むばかりだった。
「――ッ!」
戦意そのものが失せている事に気がつくには、そう時間は掛からなかった。鵺の前に立ちはだかる気がないというのなら、これ以上付き合っている暇はない。
少年は全身に再び『呪い』を纏わせて、先の一幕で綻びだらけの隠しを突き破った。次第に崩壊していく空間の中、自身の手の中を覗き込んだ十条はどこか自重気味の笑みを浮かべる。
「……全くもって、耳が痛い話だ」
極大の『呪い』の気配が、次第に遠ざかっていく。今からでも追いかける事は可能な筈だというのに、男はまるで動く気にはなれなかった。
これは自身の信念に背く行為だ。万に一つの可能性の目を見逃す愚行、国を守護すべき『旭』の棟梁として断じて許されぬ背信――そう理解しているのに、十条自身の象徴とも言える刀はその刀身を鞘の内に隠したまま。
少年の言うように、あまりにも救われない災禍の少女の境遇を哀れんだ?それもあるだろう。その強固な信念を貫き通し、遂には『空亡』をも抑え込んで見せた少年への敬意?それもあるやもしれない。
だがそれ以上に、微かな期待があった。
「――君が、『空亡』を飼い慣らす事が出来たとすれば」
そうなれば、世界のパワーバランスが一変する。人類には討伐が不可能であると断定された『禁忌種抹殺指定災害』に対してすら、遂に『旭』は明確な回答を得る事になるやもしれない。
あらゆる神秘、あらゆる呪いを喰らう怪異。それは長い人類史に影を落とす、魑魅魍魎の百鬼夜行――終わらぬ夜に終止符を打つ、終幕を告げる黒い太陽そのもの。
「は。血迷っている……私も絆されたかな」
無論、彼が常に『空亡』を抑え続けられる保証はない。制御に失敗し、その力が際限なく世界を崩落へ導くような事態も、容易に想定し得る。
だが、それでも。
――アンタたちだって、元を辿れば“そう”だったんじゃないのか……!?
「……ああ、そうだ」
――アンタたちだって……!名も知らない誰かを、明日を願う誰かを守る為に!!剣を取ったんじゃないのか!?
「せめて、この目に映る限りの人々だけでも……もしもこの手が届くのならと、そこにいる誰かを救いたくて――私は、この剣を握ったんだ」
いつかに志した青い理想が少年の言葉に重なって、日の本の守護者たる男の脳に反響していた。誰かが悲しむ必要もなく万人が笑顔で在れるのなら――それこそが確実に、最良の未来に違いない。
ほぅ、と息を吐いてソラを見上げる。既に崩落が進んでいた『隠し』は消滅寸前で、空間の亀裂からは外界の明かりが差し込み始めていた。微かに覗く遠方の空には、微かに朝焼けの色が滲み出ている。
夜明けの時は、既に目前に迫っていたのだ。
⬜︎ ⬜︎ ⬜︎
「――っ、日葵……!どこだ、日葵……!」
十条との交戦の最中に、ほんの僅かだが日葵の神秘の残滓を感じ取った記憶があった。先の半ばヤケじみた自身の居所を晒すための放出ではない、抵抗のための――否、生きるための神秘の行使。
彼女もまた、生きようと足掻いているのだ。迫る追っ手を前に奮起し、その命を繋ぐ為に必死に抗っている。
だが、漠然とした気配だけではその居場所を特定するには至らない。おおよそこの辺りに居るという予測は立てられても、それ以上の詳細を割り当てる術は今の鵺の手にはない。加えて――。
「……ッ!邪魔、だ……!!」
ぞろぞろと、肌が粟立つ程に蔓延ったアヤカシが次から次へと鵺の道を塞いでいる。あべのハルカス下層部でも『旭』や『夜』の面々が溢れるアヤカシらを駆逐して回っていたが、この一帯に限ればあの場にも勝るとも劣らない密度だった。
深く踏み込んで上空へと跳び、空中で羽ばたく翼のアヤカシを踏み付けさらに跳躍。続々と飛来するアヤカシらの群れを黒炎で端から焼却していく。
いくらなんでも、この密度は異常だ。アヤカシの数が多すぎる。この上空からでは、どこを見渡しても視界にはアヤカシの群ればかり。まさに悪鬼羅刹、あまねく怪異の大行軍――身の毛もよだつ光景だった。
「日葵を、追ってるのか」
彼女の放つ神秘――『災禍』を宿すソレは、アヤカシもまた求める力だ。ここまでの大群が集まっている理由など、自然と察せられるというもの。
時間がない。ソレはアヤカシだけではなく、日葵を追ったであろうあの二人の事もある。無論日葵も神秘を扱えるとはいえ、あの二人を同時に相手取るのは流石に不可能だ。だというのに。
「……っ、ぐぁ……ッ!」
全身が今すぐにでも捩じ切れてしまいそうな痛み。一歩前に踏み込むたび内臓がぐちゃぐちゃに掻き回されているかのような苦しみ。
十条によって一度は四肢を落とされ、臓腑をズタズタに引き裂かれた事を思えば安いものではある――が、だからといって割り切れるモノではない。
鵺の中に眠るアヤカシ、十条は『空亡』と呼んだソレの力の発露によって鵺の肉体は死の淵から蘇るに至った。だがソレはそれまでの治癒の力とは異なり、ただ形ばかりを整えていたに過ぎなかった。
身綺麗になったと思いきやその実、中身はめちゃくちゃもいいところだ。最低限の動作が可能であるというだけで、伴う苦痛など何も考慮されていない。
或いは、考慮する必要がなかったのか。相手は人の道理から外れたアヤカシ、常識や配慮など求める方が馬鹿らしいというもの。
「ひ、まり……!」
だが、それでも止まるわけにはいかなかった。日葵の未来は未だ勝ち取れてはいない、彼女の平穏は未だ約束されていない。
軋む体に鞭打ち、神秘で無理矢理に補強を掛けながら走る。鵺の道を塞ぐアヤカシは『黎明』にて引き裂き、街に蠢くアヤカシらは黒炎にて焼却する。向かうべき先も分からないまま、手当たり次第に滅ぼすべき外敵を駆逐していく。
そうして幾度かの殲滅を繰り返し、切り裂き、捻り伏せ、焼き尽くし、荒くなっていく呼吸を整える余裕もないままに駆けた、その直後。
「――!!」
不意に、強烈な神秘の気配が鵺の感覚を塗りつぶした。
それは確かに、日葵の気配だった。見紛うはずもない、触れるモノ全てに呪いを振り撒かんばかりの呪詛の結集。かつての災禍が齎した、幾万の人間もの無念に囚われた少女の呼び声。
無論、神秘の気配そのものに意志を込めるなどあり得ない。だが今この状況においてのその行為が一体いかなる意味を持つのか、分からぬ鵺ではない。
「日、葵ぃ……ッ!!」
それは日葵に残された最後の足掻きだ。その身に眠る神秘を余さず垂れ流す事で、数多のアヤカシの到来と引き換えに、その居所をハッキリと周知している。
――日葵は助けを求めていたのだ。未だ現れぬ鵺の助けを求め、僅かな可能性を信じ、その身に秘めた神秘によって必死に叫び続けていた。
瞬間、蔓延るアヤカシらの動きが明確に変ずる。彼らもまた、日葵の『災禍』の神秘の発露を受けたのだろう。その強大な力を己こそがと手にすべく、我先に動き始めたのだ。
「『4P_!!』」
咆哮と共に強烈な呪いが辺りに伝播し、一帯の力ないアヤカシらはただそれだけで潰れて消えた。
残った残骸らを撒き散らした炎で焼き焦がし、その気配の中心を目指してただ駆ける。振るった腕が今にも千切れてしまいそうだったが、それでも足だけは動きを止めない。
「ッ、がぁ!?」
突然、腹部に焼けるような痛みが走る。あまりの熱量に視線を落とせば、鵺の腹には異形の爪のようなモノが背中側から貫通して伸びていたのだ。
背後に視線を向ければ、一際大きな異形のアヤカシがその腕らしき器官を鵺の腹に突き立てている。その内に宿す神秘は、他の雑魚とは比べ物にならない濃密さだった。
『R、RRRRRRRRRLLLLLLLL――。』
「邪魔、を……するなぁッ!!」
振り向きざまに『黎明』を一閃し、アヤカシの首に相当するらしい器官を刎ねる。その直後には鵺を抉った爪ごとアヤカシの体は消失したが、同時に穴の空いた体からは止めどなく血が流れ落ちた。
傷口を握り潰さんばかりに抑え込みながら、喉まで上がってきていた血液を半ば咽せるように吐き出す。
「ぜェ――ヒュぅ、か、ァ……ヒュ、あ……」
喉の奥で空気が通るたび、隙間風みたいな音がしていた。今にも力が抜けてしまいそうな手を固く締めて、宝刀を強く構えなおす。
日葵の居場所はそう遠くはない。『呪い』によって補強した鵺の足であれば、一跳びでも十分に辿り着ける距離のはずだった。だが如何せん、限界を迎えた体はまるでいうことを聞いてくれそうもない。
揺れる足で何とか地を蹴ったが、日葵がいるであろう古びた商業ビルを前に、鵺の体は力無く地に堕ちようとしていた。
「……っ、あ……!」
その寸前に何とか構えた腕の先で、『呪い』の力を爆発させる。指向性を持たない純粋な力の破裂は鵺の体を大きく吹き飛ばして、商業ビルのガラス窓に少年の体を押し込むに至った。
バラバラと砕け散るガラスを振り落として、『黎明』を支えに何とか体を起こす。既に神秘で肉体を保護する余裕はなく、ただでさえ満身創痍の鵺の全身は、ガラスの破片を浴びたせいで傷だらけになっていた。
「上、か」
少女の神秘の気配を頼りに、今にも崩れ落ちそうな足を稼働させる。限界極まる肉体に反してえ際限なく溢れる『呪い』を注ぎ込み、非常階段に繋がる鉄扉を半ば倒れ込むように突き破る。
既に上階に繋がる階段には数多のアヤカシが陣取っていたが、今更止まる事などあり得なかった。体を支える事で手一杯の両腕に変わり、爛々と輝く黄金の瞳がその視線のみでアヤカシの血肉を焼き尽くす。
『GIA、AAAAAAA!!!!』
「『G54P_』」
身の危険を感じたか、或いは『災禍』を譲るまいと奮起したか、アヤカシらは次々とボロボロの鵺の体にその牙を剥く。
次々と少年に飛び掛かっては焼失し、迫っては引き裂かれるものが殆どではあったが、力を持つ一部のアヤカシばかりはその限りではない。消滅の寸前にせめてと残した悪足掻きの一撃が、鵺の身体を確かに削り取っていった。
もはや、少年の口からは苦悶の声すら上がらなかった。焦点も定まらない様子でただ上を見上げながら、一歩、また一歩と非常階段を登っていく。
焼き尽くし、引き裂かれ、押し潰し、抉り取られ、今にも消えてしまいそうな意識をただ執念のみで繋ぎながら、屋上にまで。
そうして。
「――――、ぁ」
少年は、その光景へと遂に辿り着いた。
既に交戦があったのだろう。屋上の設備はどこもかしこも切断痕だらけで、足場も所々が崩落していた。亀裂がない場所を探す方が難しいくらいの損傷具合で、端に設置された貯水タンクは半ばから切り落とされている。
加えて、残った足場は血まみれだった。とてもヒト一人や二人分の出血量ではない、十数人分の致死量はありそうなくらいの血のカーペット。
視線を上げれば、遥か東の空から僅かに顔を覗かせる陽の光を受けて、朝焼けが空を彩っていた。薄ピンクの光に照らされて、薄暗かった視界が少しずつ開けていく。
――少女は、古びた室外機に背を預けて座り込んでいた。
「ひま、り」
よろよろ、と。手に握った宝刀を杖のようにして歩み寄る。まるで眠っているみたいに目を閉じた少女の足元には、一際大きな血溜まりが生まれていた。
少しずつ、少しづつ、少女の眼前にまで歩み寄る。そんな鵺の気配を感じ取ったのか閉じられていた少女の瞼が微かに震えて、やがて姿を見せた真紅の瞳が鵺のその傷だらけの姿をゆっくりと捉えた。
「……つ、ぐみ?」
「――あぁ。おれだよ、ひまり」
その声を聞いて気が抜けてしまったのか、殆ど倒れ込むみたいに少女の隣へと腰掛ける。ガラン!という大きな音と共に『黎明』は床へ転がって、やがてその役目を終えたとでも言わんばかりに光の粒子となって消えていった。
動きの鈍い身体を背後の室外機に預ければ、どっと力の抜けた身体は鉛のように重くなっていく。鵺の体は、もうこれ以上動きそうにはなかった。
「ねぇ、つぐみ」
「……?」
「わたし、やくそく……まもった、よ」
彼女はそう言って、どこか満足げに笑っていた。突然そんな事を切り出してきた日葵に目を丸くした鵺は、やがて小さく吹き出してこくりと頷く。
「そう、だな……おかげで、こうしてまた、あえた」
「うん。よかった……また、つぐみとあえて」
どこか安堵したような表情で目を伏せた日葵は、その体を倒して鵺の肩に頭を預けてきた。互いに満身創痍、もはや意識を保っている事すら――命を繋ぐ事すら危ういのだ。
だがそんな状況に反して、二人の表情はどこか晴れ晴れとしたものに見えた。数秒の沈黙が場を支配して、しかし再び日葵がその静寂を破る。
「わたし、しあわせだったよ…… ほんとうに、しあわせだった」
「――。あぁ、そうだな」
まだそんな事を、と喉まで出掛かった言葉は直前で引っ込めた。鵺の肩に身を預けて心地良さそうに微笑む日葵の表情はどこまでも晴れやかで、あの時みたいな取り繕った笑みではない。
それは紛れもなく、本物の顔だった。誰かを心配させないため、自分を納得させるためのソレなんかではない、本当の笑顔。
この半月。彼女が過ごした『日常』の中で幾度か見せた、心の底から満ち足りたような笑顔が――鵺がずっと見ていたいと願った笑顔が、そこにはあった。
「すこしは、いい顔になった」
「……え、へへ」
はにかんだように笑う日葵に微笑みを返して、朝焼けの空を見上げる。いつしか辺りを埋め尽くしていたアヤカシの群れは姿を消して、淀みのない澄んだ空気ばかりが辺りに広がっていた。
少しずつ遠くなっていく体の感覚と共に、思考に靄が掛かっていく。襲いくる睡魔に身を任せてしまおうかといった所で、ふと指先に暖かな温度が触れた。
「――。」
「……ぁ」
半ば無意識に、ソレを握りしめる。微かに驚いたように震えた指先は、しかしすぐにその感触を確かめるように鵺の手を握り返してきた。たった半日前の事だというのにどこか懐かしさすら感じられるその反応に、思わず笑みが溢れる。
「……あったかい」
もはや、言葉を返す力すらも残ってはいなかった。それは日葵も似たようなもので、彼女もまた遂に力尽きたように目を閉じる。
ふと、遠くの方から慌ただしい喧騒の気配が迫ってきているように感じた。誰とも知らぬ彼らが鵺の辿ってきた非常階段を辿って、この屋上に向かってきているのだろう。だがもはや、それが誰であろうと構わない。
――次第に消えていく意識の中。手の中に残された彼女の温もりだけは、最後の瞬間まではっきりと残っていた。